渋谷駅前の観光スポットとして、日々たくさんの人に囲まれていれる《忠犬ハチ公像》。
現在ハチ公広場にいるハチ公の銅像が2代目なのはご存知でしょうか?
1934年に建てられた初代ハチ公の作者は安藤照、1948年に再建された2代目ハチ公の作者はその息子の安藤士。
父と息子によって2つの像が作られた背景には、戦争という歴史上の大きな事件がありました。
ハチ公と《忠犬ハチ公の像》
ハチ公(ハチ)という名前は、日本の農業土木分野の先駆者として近代農業に大きな業績を残した上野英三郎(1872-1925)が飼っていた秋田犬の名前として知られています。
上野博士は教鞭をとっていた東京帝国大学(現在の東京大学)で脳出血を起こして倒れ、そのまま亡くなりました。
博士の死後、ハチは帰ってこない主人を探すかのように渋谷駅に通うようになったのですが、野良と間違われて追い払われたり蹴とばされたりしていました。
それを気の毒に思った日本犬の研究家・斎藤弘吉(1899-1964)が東京朝日新聞(1932年10月4日の朝刊)に紹介したことで、「忠犬ハチ公」は全国的な人気者になったのです。
1934年に渋谷駅前にハチ公像が設置され、翌1935年ハチは上野博士のもとに旅立ちました。
享年13歳。体が大きく穏やかな目をした、大人しい犬だったそうです。
ハチの遺体は解剖され、内臓は標本として解剖記録とともに東京大学農学部に保管されています。
(内臓の一部は灰にされ、青山墓地の上野博士の墓所の傍らに「愛犬の祠」を建てて祀られました)
骨は骨格標本としてハチを有名にした斎藤に贈られたのですが、空襲で研究室が焼けた際に焼失しました。
毛皮は剥製にされ、上野の国立科学博物館で見ることができます。
ちなみに渋谷のハチ公像は左耳が垂れていますが、上野の剥製は両耳が立っています。
ハチの左耳は別の犬に噛まれた傷のせいで垂れてしまったため、生前の姿を忠実に再現した銅像では耳が垂れ、生物学上の形を重視する剥製は立たせているそうです。
ハチ公像と安藤照
彫刻家の安藤照とハチの出会いは、日本犬の彫刻を作ろうとした安藤が斎藤弘吉に相談し、渋谷駅に通っていたハチを紹介されたと言われています。
斎藤は日本犬の研究に進む前は東京美術学校で学んでいて、安藤の先輩でした。
安藤照とは
安藤照(あんどうてる 1892-1945)は、戦前の東京美術学校在学中に第3回帝国美術院展覧会(帝展)で《K女》を発表し、彫刻家デビュー。
早くから才能を発揮して帝展で入選入賞を重ね、美術学校の同期生たちと立ち上げた彫刻家の団体「塊人社」でもリーダー的存在だった安藤。
昭和の彫刻界を代表する存在になるはずだったのですが…1945年の5月に自宅兼アトリエで空襲にあい、亡くなりました。
安藤照の作品の多くも、この時に失われています。
安藤照とハチ公の像
もともと動物好きだった安藤照はハチを立派な秋田犬だと気に入り、当時ハチを飼っていた小林菊三郎に毎日アトリエに連れて来てもらってモデルにしていました。
1933年、第14回帝展に《日本犬ハチ》を発表。
その後ハチ公人気が高まって佐藤弘吉を発起人としてハチ公銅像建設会が立ち上がり、安藤がハチ公像を制作することになりました。
(それ以前に別の人による木像制作の計画が進んでいたのですが、駅に置くならブロンズの方が良いということで、最終的にこちらが選ばれました)
1934年4月21日に初代《忠犬ハチ公の像》が渋谷駅前に設置されました。
上野博士の遺族やまだ存命だったハチも出席した除幕式は、人が集まりすぎて式場を2つに分けたそうです。
安藤は皇室に献上するために寝そべった姿のハチ公像も制作しています。
これは時の皇后(香淳皇后)がハチに会ってみたいと希望されたことが始まりで、流石に本物を連れて行くわけにはいかず安藤に制作が依頼されました。
1934年5月に計10体ほど制作された内の3点が献上され、残りの多くは行方不明になっていますが、1体は鹿児島市立美術館に寄託されています。
安藤は京都の業者から依頼されて初代《忠犬ハチ公の像》を元にした素焼きの小さな像も作っていますが、これらの仕上がりが気に入らず、わざわざ買い戻して処分しました。
長男の安藤士が床下に隠して処分を免れた像のひとつは鹿児島市立美術館に所蔵されています。
戦前渋谷駅にあった安藤照のハチ公像とその原型は戦争で失われたため、初代ハチ公像の面影を伝える貴重な資料と言えるでしょう。
初代ハチ公像のその後
初代《忠犬ハチ公の像》は当時から待ち合わせスポットとして人気を集めていました。
戦争が起きなければ、今も初代の像が立っていたかもしれません。
ところが戦争が続いて金属が不足したため、国は民間にある金属を回収する法令を制定しました。
ハチ公像の設置から4年後の1938年「国家総動員法」により、各家庭に金属供出の呼びかけが行われます。
さらに1941年には「金属回収令」が交付(1943全面改正)。
1944年、ハチ公像も金属物資として溶かされることが決まりました。
この決定は像の美術的価値から一度取り消されたものの、駅前に堂々と置くわけにもいかないと倉庫に隠しておいたところ、終戦直前の混乱のどさくさで工場に送られて溶かされました。
像の原型も疎開途中の東京駅で空襲にあい、失われています。
息子の安藤士の手で2代目ハチ公像が制作されるのは、1948年のことです。
ハチ公像と安藤士
安藤士は子どもの頃、父・安藤照のアトリエでモデルをしていたハチの遊び相手をしていました。
ハチと触れあった経験は、戦後になって2代目ハチ公像の制作に活かされます。
安藤士とは
安藤士(あんどうたけし 1923-2019)は、彫刻家・安藤照の長男です。
幼い頃から父親の仕事を見てその手伝いもしていた士は自然に彫刻家を目指すようになり、東京美術学校に入学しました。
展覧会にも入選して彫刻家として歩み出したのですが、戦争が始まり学徒出陣で満洲へ。
1945年の10月に復員すると、自宅は焼けてなくなり、父親と妹も空襲で命を落としていたことを知ります。
家と家族を失った士は、自宅跡にバラック小屋を建てて彫刻家としての活動を再開しました。
1958年にはウィンドウディスプレイの会社「現代工房」を設立し、資生堂やルイヴィトンなどのディスプレイも手掛けています。
安藤士は、現在国立極地研究所(東京都立川市)にある《南極カラフト犬記念群像》(1959)の制作者でもあります。
安藤士と2代目ハチ公の像
戦後、渋谷にハチ公像を戻したいという声が上がります。
決定打となったのはGHQの将校(犬好きだったらしい)がハチ公像を再建してほしい、日本がやらないならアメリカがやると言ったことで…まだ必要な物も不足していた時節柄、直接生活と関わらない銅像もアメリカの要望なら許可が出やすい事情があったのかもしれません。
2代目ハチ公像の制作者に指名された士は、元の像も原型も失われた状況でハチ公像を作ることになりました。
最初に作った石膏の原型は、大きさや細かい部分に違和感があったため、作り直し。
(この原型は引越しの時に行方不明になり、後に山形県鶴岡市で発見されて現在も鶴岡市にあります)
鋳造の段階では銅が足りなくなり、空襲で破損した父の作品《大空に》を溶かして補充しました。
更に鋳造作業中に停電が起きて機械が止まるトラブルにも見舞われ、最後の仕上げが終わったのは1948年8月15日…2代目ハチ公像の除幕式がおこなわれる当日でした。
安藤照と士による2体のハチ公像は同じお座りのポーズをとっていますが、「立派な日本犬」として作られた初代ハチ公に対して、2代目は「素直で素朴なハチの可愛さ」を伝えたいという思いで制作されたと言います。
ハチ公像の前足は多くの人が撫でたためにもとのデコボコしたタッチがすり減ってツルツルになっていて、士の意図した可愛さや親しみやすさがしっかり伝わっているようです。