《紫式部日記絵巻》は平安時代の紫式部が書いた日記が鎌倉時代初期に絵巻物化されたものです。
現在分かれて保管されている(藤田美術館、五島美術館、東京国立博物館、個人蔵)この絵巻が作られた背景には、王朝時代の華やかな宮廷生活への興味と憧れ、それに加えて注文主の切実な願いがあったようです。
「紫式部日記」とは? ― 藤原道長の時代を紫式部が語る
現在「紫式部」と呼ばれている女性は、本名も生没年もわかっていません。
(この時代の女性にはよくあることです)
この女性がなぜ歴史に名を残したかといえば、『源氏物語』の作者として当時から評判が高かったこと、そして一条天皇の中宮・彰子の女房(住み込みの女官)として仕えたことが理由です。
ちなみに女房としての名前は「式部」といい(藤原氏の出身なので「藤式部」とも)、「紫式部」という名前は『源氏物語』のメインヒロイン若紫に由来する後世の通称と言われています。
代表作『源氏物語』の絵巻についてはこちらの記事をどうぞ
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紫式部の経歴
紫式部(973頃~1031頃?)は漢学者で詩人でもあった藤原為時の娘で、998~999年頃に藤原宣孝と結婚。
結婚の翌年に娘の賢子(のちに大弐三位)が生まれますが、1001年に夫の宣孝と死別しました。
紫式部夫の死後に書き始めた長編小説が『源氏物語』です。
この『源氏物語』の評判が高くなったことで時の権力者である藤原道長の目に留まり、1006年頃から道長の娘である中宮彰子に出仕したと言われています。
(道長の妻・源倫子と紫式部は親戚にあたり、以前からの知り合いだった可能性も指摘されています)
紫式部日記について
「紫式部日記」は彰子の第1子である敦成親王(のちの後一条天皇)の出産から第2子敦良親王(のちの後朱雀天皇)の五十日(いか)の祝いまで、およそ1年半(1008年秋頃~1010年1月15日)の出来事を綴っています。
紫式部の視点から、藤原道長を中心とする平安貴族たちの様子も書き留められ、当時の宮中の様子を知ることができます。
特に前半にあたる敦成親王誕生前後の記録は細かく、おそらく紫式部の文才を買っていた道長(もしくはその周囲)に頼まれて、家の繁栄を象徴する皇子の誕生を書き記したものだったのでしょう。
日記の後半は行事や儀式の記録は少なくなり、行事にことよせて同僚女房の容姿や人物などを評価したり、紫式部自身の回想や心情を語ったりと、私的な日記の雰囲気が強くなります。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人(得意顔もはなはだしい人)。さばかりさかしだち(あんなに賢ぶって)…」という悪口が有名です。
清少納言は、彰子の前に天皇の寵愛を受けていた皇后・定子の女房でした。
紫式部が出仕する数年前には宮仕えを辞めていたのですが、紫式部からすると立場的に(もしかすると性格的にも)相容れないものを感じていたのかもしれません。
紫式部の日記がまとまった形に編集されたのは1010年の冬と言われています。
代表作『源氏物語』は同じ1010年の夏ごろに全巻完成したと言われ、もしかすると「紫式部日記」とは「人気作家の長編作品完結記念エッセイ集」みたいなものだったのかしら…と考えさせられます。
《紫式部日記絵巻》の作者 ― 絵巻の作者とその時代
『紫式部日記』の執筆からおよそ250年後の鎌倉時代初期に「紫式部日記」を題材にした絵巻物が制作されました。
《紫式部日記絵巻》と呼ばれるこの絵巻は《紫式部日記絵詞》ともいい、国宝・重要文化財の指定は「紫式部日記絵詞」の名前で行われています。
《紫式部日記絵巻》について
《紫式部日記絵巻》の制作時期は鎌倉時代(1220年~1240年頃)と推測されています。
『紫式部日記』の内容から、消息文や同僚女房の批評など絵画化し辛い部分をのぞいた50から60の場面を絵画と詞書であらわし、全10巻ほどの絵巻物に仕立てたものだったようです。
現在は元の絵巻の4割程度、4巻分が分かれて伝わっています。
《紫式部日記絵巻》の作者と依頼主
日記の作者は先に述べた通り紫式部ですが、絵巻を制作したのは誰なのか、詳細はわかっていません。
絵の作者は絵師の藤原信実(生没年未詳)、詞書の作者は能書家として知られる九条(後京極)良経(1169-1206)とも言われていますが、制作時期からすると可能性は低いようです。
《紫式部日記》の注文主については、後京極良経の長男・九条道家(1193-1252)が有力なようです。
この説によると道家の娘・竴子が後堀河天皇の中宮として入内していたため、藤原彰子のように将来の天皇となる皇子を産むことを願って制作したと言います。
(ちなみに竴子の入内は祖父・良経没後の1229年です)
竴子は期待通りに天皇となる皇子を生みますが、この皇子は四条天皇として即位した1年後に12歳で崩御しました。
《紫式部日記絵巻》 に込められた王朝時代への思い
当時の貴族たちが平安の御代と王朝文化に寄せる思いには、特別なものがあったようです。
武家政権が成立した鎌倉時代は、朝廷の影響力が低下し、天皇や貴族が政治発言力や経済力を削られていった時代でもありました。
この時代、公家たちは文化の継承者としてのアイデンティティを固めるようになり、平安王朝の時代を慕うような絵巻作品が多く作られています。
天皇の外祖父として権力をふるった道長のようにありたいという願いだったのか、それとも王朝文化の担い手としてのプライドの現れだったのか。
《紫式部日記絵巻》には、複雑な思いが込められていたようです。
《紫式部日記絵巻》(国宝・重要文化財)を所蔵する美術館・博物館
現在まで伝わっている《紫式部日記絵巻》は、以下の4巻です。
(日記内の時系列順)
- 徳島藩蜂須賀家に伝わった「蜂須賀家本」
- 館林藩秋元家に伝わり大正時代の売り立てで藤田家が落札した「藤田家本」
- 西国の大名家が秘蔵していた1巻を名古屋の茶人・森川勘一郎(如春庵)が発見・購入した「旧森川家本」
- 伊予松山藩の久松松平家伝来の「旧久松家本」
このうち、藤田家本は大阪の藤田美術館の所蔵です。
旧森川家本は分割されて、一部が東京の五島美術館と東京国立博物館に所蔵されています。
それ以外(蜂須賀家本・旧森川家本の一部・旧久松家本)は個人蔵。
ただし旧久松家本は東京国立博物館に寄託されています。
紫式部が大河ドラマの主役に抜擢された2024年、《紫式部日記絵巻》にも注目が集まるかもしれませんね。
藤田美術館の《紫式部日記絵巻》
藤田家本(国宝)
『紫式部日記』の中でも特に重要な、敦成親王誕生後のお祝いと儀式の場面(絵5・詞書5)が収録されています。
藤田美術館のホームページに詳しい解説があります
美術館の概要
大阪市都島区網島町10-32
10時~18時 ※入場は閉館の30分前まで
年末年始(12月29日~1月5日)休館
一般 1,000円
19歳以下 無料
五島美術館の《紫式部日記絵巻》
旧森川家本(第1・2・4段。国宝)
旧森川家本(絵5・詞書5)は、1932年益田孝(鈍翁)に売却されました。
この時に1場面分の絵と詞書(第5段)が森川家に残されています(重要文化財。個人蔵)。
さらに1933年には1場面分の絵と詞書(第3段)が掛軸に改められています(重要文化財。東京国立博物館所蔵)。
残りの部分(絵・詞各3面)は、1934年に額装に改められました。
この6点は戦後別のコレクターを経て、現在は五島美術館が所蔵しています。
五島美術館のホームページに詳しい解説があります
五島美術館所蔵の場面には、紫式部が敦成親王の五十日の祝い(1008年11月1日)の席で男性貴族から「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ(若紫はおられますか)」と声をかけられた…という有名なシーンもあります。
ちなみにこれが『源氏物語』が記録に登場した初の事例だそうで、ちょうど千年後にあたる2008年には「源氏物語千年紀」と銘打った様々な記念行事が行われました。
美術館の概要
東京都世田谷区上野毛3-9-25
10時~17時 ※入場は閉館の30分前まで
月曜休館
展示替期間・夏期整備期間・年末年始など休館
一般 1,100円
高校・大学生 800円
中学生以下 無料
※障害者手帳の提示で本人および介助者1名まで200円引き
東京国立博物館の《紫式部日記絵巻》
旧森川家本(第3段。重要文化財)
旧森川家本のうち、1933年に掛軸装に改められた場面(絵1・詞書1)は、別のコレクターを経て、現在は東京国立博物館蔵の所蔵です。
詳しくはColBaseまたはe国宝をどうぞ。
敦成親王誕生50日の祝の一場面で、外祖父(母方の祖父)である道長が餅を差し上げる儀式が行われています。
生まれたばかりの皇子と母の彰子、彰子の両親である道長夫妻、紫式部かもしれない女房も登場しています。
旧久松家本(重要文化財)
寄託されている旧久松家本(絵6・詞書6)は、彰子の第2子である敦良親王の五十日の祝い(1010年正月15日。4~6段)など、日記の後半部分の内容です。
博物館の概要
東京都台東区上野公園13-9
9時30分~17時 (金・土曜日は19時まで開館)
※入場は閉館の30分前まで
月曜休館
年末年始休館。その他、臨時休館・臨時会館あり
総合文化展観覧料(企画展は別料金)
一般 1,000円
大学生 500円
高校生以下・満18歳未満・満70歳以上 無料