東京都庭園美術館のペンギン(三羽揃ペリカン) ― 旧朝香宮邸の隠れた人気者

昭和初期(1933)に建てられたアールデコ様式の建築で有名な東京都庭園美術館。
建物そのものや「朝香宮邸」だった時代に合わせてしつらえられた調度品も見所ですが、
美術館がオープンしたころはほとんどの家具が散逸していました。
今あるものの多くはその後の地道な調査研究で見つかったもので、
三羽のペンギンが一列に並ぶ可愛らしいオブジェもそのひとつです。

東京都庭園美術館のペンギンオブジェ ― いったい何者?

ペンギンのオブジェに関する情報は、以下から引いています。

  • 磯田道史「ペンギン「宮家」に帰る(磯田道史の古今をちこち)」
    (読売新聞2010年10月27日朝刊のコラム)
  • 東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語』(アートダイバー,2018)第4章
    (牟田行秀著。初出は「東京都庭園美術館ニュース」第38回)

「東京都庭園美術館ニュース」のバックナンバーは、
美術館のホームページで閲覧できます。

ペンギンとの遭遇率が高いのは、庭園美術館本館1階「小客室」

庭園美術館のファンは、同じポーズで仲良く三羽並んだ
ペンギンのオブジェを見たことがあるのではないでしょうか。
展示の都合で見られないこともありますが、
1階の小客室(香水塔の横にある小部屋)の
暖炉の上に飾られていることが多いようです。

このペンギンたちは屋敷の主だった朝香宮夫妻が
ヨーロッパ滞在中に手に入れたもので、
戦後に行方不明になった後、2010年に発見されて庭園美術館の所蔵になりました。


ペンギンの正体 ― ロイヤルコペンハーゲンのフィギュリン(figurine)

このペンギンたちのように陶磁器でつくられた彫像や人形は
「フィギュリン(figurine)」といいます。
庭園美術館のペンギンは、
デンマークの陶磁器メーカー「ロイヤルコペンハーゲン」の製品で、
1902年に彫刻家のデオドール・マッドセン(1880-1965)がデザインしたモデルです。

釉薬をかける前に絵付けする「アンダーグレイズ」の技法で作られているため
ガラス質に覆われた光沢のある肌は高級感があります。
退色にも強く(アンダーグレイズは永久に退色しないんだとか)
朝香宮邸に飾られていた当時の姿と変わりません。

絵付けはハンドペインティングのため、
同じ型から作られたペンギンでもそれぞれ表情が違うのも見所です。

ロイヤルコペンハーゲンは
1775年に王室御用達の「デンマーク磁器工場」として創設され、
1779年に王立化された、デンマーク王家とゆかりの深いメーカーです。
1868年には株式の売却により民間企業になっていますが、
「ロイヤル」の称号は現在まで引き継がれています。

ロイヤルコペンハーゲンでは
今でも毎年新しいデザインのフィギュリンを発表していますが、
その第1号は1889年の第4回パリ万国博覧会で発表され、グランプリを受賞しました。
この年の受賞を機会にパリに出店したロイヤルコペンハーゲンは
その後も数々の賞を受賞し、
朝香宮ご夫妻が見学した第6回パリ万博(アールデコ博。1925年)の頃には
誰もが知る一流メーカーの地位を獲得していました。


ペンギンなのに…箱書きは「ペリカン」!?

ペンギンに付属する木箱には、
側面に「丁抹國製陶器 三羽揃ペリカン」、
蓋裏に「大正十四年十二月 両殿下御帰朝ノ節御持帰品」の文字があります。
庭園美術館でもキャプションがついている場合は
「朝香宮家旧蔵《三羽揃ペリカン(ペンギン)》」
と表記され、正式な名前として「ペリカン」が採用されています。

何故ペンギンがペリカンになってしまったのか。
歴史学者の磯田道史先生は、以下のように推測しています。

当時まだペンギンを知らなかった宮務官が間違えてペンギンと書いたのだろう。

ペンギンたちが作られたのは20世紀の初頭。
19世紀末に盛んにおこなわれた極地探検の結果、
シロクマやペンギンなどの珍しい生き物がヨーロッパにもたらされ、
彫刻などのモチーフとして人気になっていた時代の作品ですが、
極東の日本ではまだ情報が行き渡っていなかったようです。

ちなみにアメリカのロバート・ピアリー(1856-1920)が
西洋人として初めて北極点に到達したと言われているのは1909年。
ノルウェーのロアール・アムンセンの南極点到達は1911年のことでした。


旧朝香宮邸とペンギン ― 戦後の行方不明を経て東京都庭園美術館に帰還

ペンギンたちがいつ・どのような経緯で
朝香宮夫妻のもとにやってきたのかは、まだわかりません。
今のところ、ヨーロッパのお土産として日本に持ち帰られたこと、
戦後長らく行方不明だったこと、
そして2010年に発見され、東京都庭園美術館にやってきたことがわかっています。

朝香宮のフランス土産

後に東京都庭園美術館となる朝香宮邸を作った朝香宮夫妻の欧州滞在は、
朝香宮鳩彦王が1922年にフランス遊学に向かったことから始まります。
その翌年、鳩彦王はノルマンディーへ向かうドライブ中の事故で重傷を負い、
允子妃は看護のために急遽渡仏することになりました。
夫妻は帰国まで約2年半をフランスで過ごし、
その間にヨーロッパ各国の巡遊旅行にも出かけたそうです。
(旅行先にはデンマークなど北欧諸国も入っていました)

ヨーロッパ滞在中のどこかで購入・またはプレゼントされたペンギンのオブジェは、
1925年の帰国の際に異国のお土産として日本にやってきたわけです。
宮内庁宮内公文書館には、朝香宮邸の竣工から間もない1933年に
小客室に飾られている写真が残っています。
(この時は暖炉の上ではなく、別の飾り棚に置かれていました)

白金台の朝香宮邸が建設される前に一家が暮らしていた
高輪の旧邸を飾ったこともあったかもしれません。


朝香宮の皇籍離脱と朝香宮邸の終焉、そしてペンギンは行方不明

時は流れて1945年、日本は終戦を迎えました。
日本を占領したGHQは、民主化推進のために
皇族・華族・財閥の解体をひとつの目標としており、
皇族には免税特権の廃止などの措置が課されました。
特権を失った旧皇族の多くは経済的に存続が困難となり、
1947年には昭和天皇の弟にあたる「直宮家」を除く11の宮家が皇籍を離脱。
鳩彦王も皇籍を離れて熱海へ転居し、
趣味のゴルフを楽しみながら晴耕雨読の生活を送ったそうです。

その後の朝香宮邸は吉田茂の公邸として貸し出された後、
1950年に朝香家から西武鉄道に売却されました。
(吉田茂は1954年の内閣総辞職までここで暮らしています)
1955年から1974年までは日本初の迎賓館として外国の要人を迎え、
新しい赤坂迎賓館が完成してからは民間の宴会場や結婚式場として利用されました。

この「白金プリンス迎賓館」時代には、まだ朝香宮邸の家具が残されていたのですが、
1981年、所有が東京都に変わり、1983年に美術館として開館するころには
ほとんどの家具が残っていなかったそうです。

さてペンギンのオブジェですが、
こちらは家具よりも早く、宮家解体のころから行方がわからなくなっていたようです。
西洋建築の家具は室内装飾とあわせてコーディネートするものなので
家具類はその後も建物とあわせて利用されたのに対して、
美術品のような小さいものは早々に手放されてしまったのかもしれません。


東京都庭園美術館による調査とペンギンの発見

1983年の開館以来、東京都庭園美術館では
「アールデコの館」たる旧朝香宮邸の当初の姿を取り戻すことを目指して、
家具や調度の行方を調査し、長い時間をかけて少しずつ収集していきました。
(当時を知る人の証言や、白銀プリンス迎賓館の頃の写真が重要な資料になったそうです)
ペンギンのオブジェが発見されたのは、美術館の開館から27年後の2010年。
宮家が白金台を離れてからは、60年以上が経っていました。

発見の顛末を記した「ペンギン「宮家」へ帰る」によると、
ペンギンたちがいたのは東京の表参道にある古美術店「(株)富士鳥居」でした。
当時の社長だった故・栗原直弘氏にこれを見せられた磯田先生が
「(箱書きにある)両殿下とは一体誰だ」と調査を進めたことから
朝香宮家、そして東京都庭園美術館にたどりつき、発見となったそうです。
栗原氏の厚意により、ペンギンたちは庭園美術館に寄贈されました。

元いた場所に戻ることになったペンギンたちは、
2010年12月11日から2011年1月16日にかけて開催された展覧会
「朝香宮のグランドツアー」でお披露目されました。
そして現在にいたるまで、来館者の人気を集めています。

東京都庭園美術館(東京都港区白金台5-21-9)

月曜休館(祝休日の場合は開館し、翌平日休館)
年末年始休館

10時~18時 (毎週金・土曜日は21時まで)
※入場は閉館の30分前まで

入館料は展覧会によって異なります(展覧会のチケットで庭園にも入場可能)
庭園のみ公開の期間は、旧朝香宮邸(本館)と新館には入れません。

庭園入場料
一般 200円
大学生(専修・各種専門学校含む)160円
中・高校生・65歳以上 100円
小学生以下・都内在住在学の中学生 無料
身体障害者手帳・愛の手帳・療育手帳・精神障害者保健福祉手帳・被爆者健康手帳の提示で、本人と介護者2名まで無料

公式ホームページ