菱田春草《黒き猫》(重要文化財)― 永青文庫所蔵・近代日本画の歴史に残る黒猫

永青文庫(東京都文京区)の所蔵品の中でも人気の高い《黒き猫》は、菱田春草(1874-1911)が亡くなる前年に描いた作品です。
生涯を通じて近代日本画の新しい表現を研究した春草がたどりついた一つの到達点を示す作品として高く評価され、重要文化財にも指定されています。

菱田春草とは ― 近代日本画の改革者

東京美術学校入学と画家としての出発

菱田春草(本名は三男治)は1874年、現在の長野県飯田市に誕生しました。
画家になるため上京したのは1889年で、まずは狩野派の結城正明の画塾に入門して基礎を身につけてから、1890年9月に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学。
この官立美術学校は1898年の2月に開校したばかりで、校長・岡倉天心や橋本雅邦のもとで横山大観や下村寒山が学んでいた時代でした。
春草は1895年に美術学校を卒業し、展覧会などで評価されるようになります。
1896年には母校の嘱託教員にもなりました。

春草と言えば、輪郭線を使わない没線描法(朦朧体)というイメージがありますが、この頃の春草はむしろ線描と写生を重視した伝統的な日本画を描いていました。
「朦朧体」という評価が登場するのは、1900年頃の事です。

日本美術院の結成と「朦朧体」のはじまり

1898年、東京美術学校では岡倉天心を排斥する動きが大きくなり、天心は美術学校を去ることになります。
大観や春草といった天心の教え子たちは師にならって美術学校を去り、同年7月に日本美術院を結成しました。
春草がぼかしや色の塗り重ねを多用して物の形を表現する技法を使うようになったのはこの頃で、始まりは天心が出した課題だったようです。
春草とともに「朦朧体四天王」と呼ばれた大観は『大観自叙伝』の中でこのように語っています。

私や菱田君が岡倉先生の考へに従つて絵画制作の手法上に一つの新しい変化を求め、空刷毛を使用して空気、光線などの表現に一つの新しい試みを敢てした事が当時の鑑賞界に容れられず、所謂朦朧派の罵倒を受けるに到つた(後略)

当時の日本画界では「乱れのない線こそが日本画の魂で、思い通りの線を引けるのが優れた画家」という常識があり、多くの人は春草たちの表現を「技術のなさを誤魔化した胡散臭いもの」と受け止めたようです。
現在は主に輪郭線を使わない表現をさす「朦朧体」という名前も、表現そのものというより新しい試み全体への「怪しげなもの」というレッテルでした。


インド・アメリカ・ヨーロッパへの渡航から五浦転居まで

なかなか世間の評価を得られなかった春草ですが、1903年のインド渡航、1904〜05年のアメリカ・ヨーロッパ渡航を経て画風を改良していきます。
特にアメリカ・ヨーロッパでは旅行費のための展覧会が大好評で、自信にもつながったことでしょう。

春草が日本に帰国したころ、国内での評価が得られず絵の買い手が付かない日本美術院は財政難に陥っていました。
岡倉天心は、美術院の本拠地を東京から茨城県の五浦に移し、下村観山・横山大観・菱田春草・木村武山の4人も家族を連れて五浦に移住。
世間では「美術院の都落ち」と馬鹿にされたそうです。
(春草は当時、日暮里に家を建てたばかりでした!)

代々木への転居と36歳での死

1907年に官立の展覧会である「文展」も始まり、新しい美術運動も段々と受け入れられるようになります。
ところが春草は、第一回文展に出品する《賢首菩薩》の制作中から視力の異常を訴えはじめました。
慢性の腎不全による網膜症だったそうで、やがて殆ど失明してしまいます。
五浦では治療もままならないため、1908年に東京の代々木に移住し、五浦に戻ることはありませんでした。

1908年末には体調も回復して絵筆を取れるようになった春草。
この時期の画風は写実を意識しつつ装飾性を重視するもので、そのひとつが第4回文展で高い評価を得た《黒き猫》でした。
その後の春草はさらに装飾的表現の研究を進め、鈴木其一など江戸琳派の影響を受けた作品を制作しましたが、1911年に腎不全が再発し、37歳の誕生日を迎える少し前に亡くなっています。


菱田春草《黒き猫》(重要文化財)1910


絹本着色 軸装 151.1×51.0㎝
永青文庫所蔵(熊本県立美術館寄託)
1956年6月28日に重要文化財指定

《黒き猫》写実と装飾の融合

曲がりくねった柏の木の幹に座る1匹の黒猫。
頭を上げてこちらをじっと見つめる様子、やや外向きの耳、前足を出していつでも立てる姿勢などから考えると、どうもこちらを警戒しているようです。
近寄ると逃げてしまいそうな緊張感がありますが、墨をぼかして表現されたフワフワの毛並みはつい近寄って撫でてみたくなる魅力があります。

猫の頭上には豊かに葉をつけた柏の枝が垂れ下がっています。
柏の葉は明確な輪郭線をもち、金泥と緑青で彩色され、すべて表向き、と平面的かつ装飾的な表現。
この作品が出品された第4回文展では、装飾と写実が見事に調和している点が高く評価されました。

もっともこの作品は本来出品予定ではなく、もともと予定していた《雨中美人》(6曲1双の屛風のはずでした)が思うように仕上がらなかったため、約5日という短い期間で仕上げたものだったそうです。
モデルは近所の焼き芋屋にいた黒猫で、しょっちゅう逃げ出すから何度も借りに行かされた、と岸田春夫(春草の息子)が語っています。
黒猫の緊張した様子は、春草に懐いていなかったせいかもしれません。


重要文化財に指定されている菱田春草の作品

2023年4月現在、菱田春草の作品で重要文化財に指定されているのは《王昭君》(1902)、《賢首菩薩》(1907)、《落葉》(1909)、そして《黒き猫》の4作品です。
指定の順番は制作順と逆で、まず《落葉》と《黒き猫》が重要文化財に指定(1956年6月28日)。
次に《賢首菩薩》(1979年6月6日)、最後に《王昭君》(1982年6月5日)が指定されました。

《王昭君》は前漢の時代に絶世の美女・王昭君が匈奴の王に差し出された故事を描いたもので、色をぼかし重ねて形を表現する典型的な朦朧体の作品。
《賢首菩薩》は当代の僧侶で華厳宗の第三祖・法蔵(尊称が賢首)が則天武后に教えを説いた逸話をもとにしたもので、補色による色彩の強調や点描法など近代色彩学を応用した実験的な作品で、制作当時の春草の苦心の跡を見ることができます。

《落葉》は代々木の自宅近くにあった雑木林から着想を得た5点の連作のひとつです。
手前の細密で写実的な描写から奥に行くにつれぼかした表現に移り変わることで、近代的な遠近法を使わずに奥行きと空間を表現し、翌年の《黒き猫》にも通じる伝統と革新の融合が見られます。

《落葉》と《黒き猫》は、近代美術を重要文化財に指定するならまずこの2作、というのが当時の専門家の間でも常識になっていたそうで、実際に近代日本画でこれより先に指定されたのは狩野芳崖と橋本雅邦(各2作品)だけです。
常に新しい表現を研究した春草の出世作であり、その時点での集大成でもある2作品の貫禄といったところでしょうか。


菱田春草と永青文庫 ― 黒猫がそこにいる理由

秋元洒汀と細川護立

晩年の春草(といっても30代の半ばなのですが…)が文展で注目されるようになると、作品の購入も増え、パトロンになる人も現れるようになりました。
パトロンの中でも千葉県流山市の実業家だった秋元洒汀(あきもとしゃてい)、美術コレクターで永青文庫の設立者の細川護立(ほそかわもりたつ)は、《黒き猫》の来歴を考える上で重要な人物です。

秋元洒汀

秋元洒汀(5代目秋元平八)は家業の醸造業を営む実業家であり、文学にも造詣の深い文化人でした。
自分の句集を出版したこともあって、その想定を手掛けた美術家との縁で美術の蒐集にも興味を持つようになったそうです。

春草と知りあったのは1908年で、絵を依頼するために五浦まで出掛けています。
洒汀は眼病の療養中で仕事ができなかった春草に画料を預け、その後1年にわたり月々25円の生活費を援助したそうで、後に春草はこの時のお礼として洒汀に《四季山水》を贈っています。
また洒汀の娘(洋画家の秋元松子)は春草に絵の手ほどきを受けていて、依頼主と画家の関係にとどまらない親密な付き合いがあったようです。

洒汀は1909年の第3回文展では《落葉》を購入し、《黒き猫》は第4回文展で発表される前から購入を予約しています。

細川護立

旧熊本藩主の細川家第16代当主・細川護立が春草に注目したのは、彼がまだ10代だった1900年頃。
当時画壇で酷評されていた「朦朧体」に惹かれた護立は1908年から春草の作品を購入するようになり、原三渓から《賢首菩薩》を譲り受けて所蔵していたこともありました。
なお三渓は《賢首菩薩》を購入したのは岡倉天心に頼みこまれてのことで、特別思い入れはなかったそうです。
(後で春草の評価が上がってから残念がったとか…)
《賢首菩薩》がそのまま所蔵されていたら、永青文庫は春草作の重要文化財を3点持っていたかもしれません。

《落葉》《黒き猫》は最初秋元洒汀のコレクションでしたが、大正期に秋元家の家業が傾いたことで洒汀の蒐集品が売却され、護立はこの2点をふくむ近代日本画の優品を購入しました。
永青文庫の「看板猫」が細川家にもたらされたのは、こんな経緯があったわけです。

《落葉》《黒き猫》が重要文化財に指定されたきっかけも、当時文化財保護委員会の委員だった護立の「菱田春草の作品を早く重要文化財に指定しなければいけないではないか」という(冗談半分の)ひと言がきっかけだったという証言もあり、春草の作品に対する護立の思い入れが伝わってきます。


永青文庫のクラウドファンディング第1弾「近代日本画」にも登場

2021年、新型コロナウィルスの蔓延による来館者の減少で所蔵する文化財の修理費用の確保が難しくなった永青文庫は、クラウドファンディングを開始。
第1弾「近代日本画」の看板になったのが《黒き猫》でした。

このプロジェクトには最終的に目標額を大きく上回る14,755,000円の支援が集まり、2023年2月末には横山大観・下村観山・竹内栖鳳による三福対(3つセット)の掛け軸《観音猿鶴》の修理が完了しています。
《黒き猫》、同じく重要文化財の「室君」(松岡映丘、1916)の修理は新年度から開始とのことで、おそらく東京国立近代美術館の「重要文化財の秘密展」の後で修理に入るのでしょう。

「重要文化財の秘密」展は明治以降の重要文化財68点のうち51点が集まる、いろんな意味で大変な催しで、2023年4月2日の日曜美術館でも紹介されました。
展覧会の公式ホームページはこちらです
ちなみに松岡映丘《室君》は2023年4月18日~5月14日、菱田春草《黒き猫》は5月9日~5月14日の期間展示されます。
《黒き猫》の展示期間は特に短いのでご注意ください。

永青文庫(東京都文京区目白台1-1-1)

月曜休館(祝日の場合は開館、翌平日が休館)

10時~16時30分
※入場は閉館の30分前まで

一般 1,000円
シニア(70歳以上) 800円
大学・高校生 500円
中学生以下 無料
※障害者手帳の提示で、本人およびその介助者(1名)は無料

公式ホームページ


菱田春草の「猫の絵」―《黒き猫》の仲間たち

春草本人はあまり猫が好きではなかったそうですが、絵画としての猫はたくさん残しています。

《黒き猫》以前にも、黒ぶちのある白い猫と梅の木をとり合わせた《白き猫》(1901)・《春日》(1902)・《梅猫》(1906)、黒猫と竹を水墨で表現した《竹猫》(1909)、梧桐の根元に黒ぶちの猫が寝転がる《梧桐に猫》(1909)といった作品があります。
《黒き猫》が評判になった後に描かれた《黒猫》(1910)や《柿に猫》(1910)は、同じような黒猫を求められて描いたものでしょう。

屏風なら、水木しげるの絵に出てきそうな顔つきの猫が印象的な《竹に猫》(2曲1隻、1900)、向かって右に柿の木とスズメ・左に女郎花と黒猫を配した《黒き猫》(6曲1双1910)、右下に菊と白猫・左上に柿の木とカラスがいる《猫に烏》(2曲1隻、1910)と、こちらもなかなかの充実ぶり。

さらに下絵やスケッチと、所在が分かっているものだけでも相当な数です。
(今後、未発見の猫が出てくる可能性もゼロではありません!)
これだけの数を描いていたからこそ《黒き猫》をおよそ5日で完成させることもできたのでしょうが…

あまりの数に「これで好きじゃなかったと言われても?」と首をかしげたくなります。
しかしながら、春草の猫はどれも可愛らしさよりもリアルさが先に立っているように見えて、一般的な愛猫家の視線とは一線を画している雰囲気もあって「実は猫好き」とも言い切れません。
春草亡き今、本当のところは確かめようもありませんが、画題として気に入っていたのは確かだと思います。