お祭りを楽しむ可愛らしい少女を描く《祭りのよそおい》は、同時に子どもたちの内面や社会の格差にまで踏み込む意欲的な作品です。
作者の島成園(当時21歳)は大正期の大阪画壇で活躍した女性画家ですが、長期にわたるキャリアの中断で、近年まで知る人ぞ知る存在でした。
島成園《祭りのよそおい》(1913)
大阪中之島美術館所蔵
絹本着色 額装
142×284cm
横長の画面の左手には、お祭りのために幔幕を垂らした家の前で、縁台に腰掛ける少女が3人。
それぞれ晴れ着姿で真っ白い足袋を履き、頭にリボンを飾っていますが、1人だけ着ているものがちょっと違います。
左に座っている2人は着物と帯に模様がありますが、右端の女の子は絞り染めの着物に無地の帯。
よく見ると、右の子は真ん中の子が着ている花柄の着物を羨ましそうに眺め、見られている方は何やら得意そうな表情で手の中の扇子をいじっています。
左端にいる一番年上の子はボーッと遠い目をして(きっと年下のお守りに飽きたんでしょう)綺麗な絵のついた草履を片方落としていることに気づいているのかいないのか。
高級品を身につけている方が物の扱いに無頓着なのはよくある事ですね。
そんな3人を、画面右の隅っこから眺める少女が1人。
地味な着物で素足に草履という出立ちで、後ろ手に持っている団扇と髪に挿した小さな花が、精一杯の祭りの装いでしょうか。
子どもの可愛さだけではなく、衣装や仕草の違いから読み取れる一人ひとりのキャラクター、さらには子どもだからこそより容赦なく浮き上がる経済格差と、さまざまなメッセージを含む厚みのある作品です。
作者の島成園は、大阪で活躍した女性の日本画家で、女性の内面をドラマチックに描き出すような美人画を得意としました。
1912年に第6回文展で初入選した《宗右衛門町の夕》で画壇にデビューし、京都の上村松園(1875-1949)、東京の池田蕉園(1886-1917)と並ぶ女性の美人画家として「三都の三園」のひとりに数えられました。
《祭りのよそおい》は第7回文展の入選作品です。
島成園とは?
独学で大阪女性画家の草分けに
島成園(1892-1970。本名は成栄)は文展初入選の後に大阪画壇の中心だった北野恒富(1880-1947)の弟子になりますが、正式に師事したわけではなく、絵画はほとんど独学で始めたといいます。
とは言え、成園も完全に自己流で絵を描き始めたわけではありません。
成園の父・栄吉は襖絵などを描く画工で、美術や芝居を好む趣味人でもありました。
7歳年上の兄・市次郎(1885−1968。島御風または一翠)も画家・図案家になり(一時期は上村松園に弟子入りしていたそうです)、成園は15歳くらいから父や兄の仕事を手伝いながら見よう見まねで描くようになりました。
師匠の恒富とも、成園の従姉妹(政江)が恒富の息子(以悦)に嫁ぐなど、家ぐるみの交友関係があったそうです。
ちなみに恒富は1910年の第4回文展で初入選して全国的に知られるようになり、画塾「白燿社」を設立して後進の育成につとめるなど大阪画壇を牽引した人でした。
恒富の弟子には、男女ともに個性豊かな作品を残した画家がそろっています。
「三都三園」と大阪画壇事情
商業都市である大阪には、お金のある商人が画家を支援するパトロン文化が根付いていました。
女性が教養として絵画を習うこともさかんで(画家のアルバイトだったのかも)、伝統的に庶民が絵画を楽しみ画家の生活を支える下地があったと言えます。
ところが明治になって公立の美術教育や展覧会がさかんになると、この地元で完結する体質が悪い方に作用して、大阪画壇は京都・東京に出遅れることになりました。
日本で最初の公立の絵画専門学校は、1880年創立の京都府画学校(後の京都市立芸術大学)。
1887年には東京美術学校(後の東京芸術大学美術学部)が創立されます。
一方、大阪初の絵画専門学校は、1924年に日本画科の矢野橋村が創立した私立大阪美術学校(1944年廃校。現在の大阪芸術学校とは別)で、公募展もあまり盛んではありませんでした。
江戸の伝統が残る明治の大阪画家たちが美術学校や展覧会を必要としていなかったのは確かでしょうが、時代が変わればそんな状況も変わっていきます。
絵の買い手だった商人たちが、無名の画家を後援するより全国的に有名な画家の作品を買いたいと思うようになれば、パトロン文化も滅びるしかありません。
京都に松園、東京に蕉園がいるなら、大阪には成園あり…という「三都三園」のくくりは、東京・京都の下位に甘んじていた大阪の美術界と「三大〇〇」をこよなく愛する日本の大衆を代弁したマスコミが持ち上げた部分もあったようです。
蕉園は成園の6歳年上、松園に至っては17歳年上で、どちらも成園のデビュー前から有名な画家でした。
さらに蕉園は成園の文展初入選から5年後の1917年に31歳の若さで亡くなりますから、三園が並び立ったのは本当に短い期間だったことになります。
結婚とキャリアの中断
大阪を代表する女流画家として文展や白燿社展で活躍した成園ですが、昭和のはじめごろになって一度キャリアを中断しています。
1921年に銀行員の森本豊次郎と結婚し、1927年には豊次郎の転勤で上海に移住。
この頃はまだ上海の風俗に取材した作品を発表していますが、その後北海道、大連、横浜、松本…と国内外を転々とするうちに作品の発表がなくなっていきました。
(第2次世界大戦の時期に重なったせいもあると思います)
なお成園は完全に絵筆を手放したわけではなく、この時期にも《朱羅宇》(1934。大阪市立美術館蔵)などの作品を描いていますが、本格的に画壇に復帰するのは戦後のことでした。
復帰後は大阪の女性画家グループに参加したり、内弟子の岡本成薫(1907-92。本名は美津子。成園の死後森本家の養女に入る)との二人展を開催するなど制作活動をつづけ、自らの画塾で後進の指導も行ったそうです。
島成園の再評価はまだこれから?
長年の中断というハンデはやはり大きく、現在島成園の再評価はようやく始まったばかり。
特に画壇から遠ざかった昭和以降の作品は、画風がやや淡白になったこともあって人気薄なようです。
1970年代から島成園に注目していたコレクターの福富太郎(1931-2018)は「やはり成園画業の華は大正から昭和初めにかけてだったと思う」と語っていて(『絵を蒐める:私の推理画説』新潮社、1995)、自著の表紙に採用した成園の代表作《おんな》(1917。福富コレクション)も大正の作品です。
今回とり上げた《祭りのよそおい》も大正時代の作品。
とはいえ、大正と言えば「大正ロマン」「大正デカダン」など、叙情・退廃のイメージが大流行し、古典的美人画の代表ともいうべき上村松園さえ《花がたみ》《焔》という松園的2大異色作を発表した時代です。
(松園はその後「真・善・美」の世界へ帰っていきました)
大正画壇の申し子として活躍した成園の作品が昭和になって変化するのは自然な流れだったかもしれません。
それを「華がなくなった」と見るか「新たな華を咲かせた」と見るか、決めてしまうには早いような気がします。
とはいえ、わたしが知っている成園の作品はほんのわずか。
特に戦後の作品はまったく見たことがないので、あまり偉そうなことを言える立場ではありません。
2020年に大阪市立美術館で開催された「没後50年 浪華の女性画家 島成園」展では、美人画・こども・植物など幅広い成園の作品が紹介されましたが、コロナウイルス感染拡大のタイミングと重なり行けずに終わったのは残念でした。
大阪市立美術館は成薫(森本美津子)が寄贈したものを中心に、大小あわせて88点もの成園作品を所蔵し、その中には戦後の作品も数多く含まれていますので、いずれ昭和の成園を訪ねたいと思います。
(大阪市立美術館2022年の秋より休館中。2025年の春にリニューアルオープン予定)