明治から昭和にかけて活躍した美人画の名手・上村松園(1875-1949)は、
凛とした、見方によっては隙のない女性たちの絵を数多く残しています。
そんな松園の美人画の中では異色の作品である《焔》と《花がたみ》。
片や嫉妬の感情に絡めとられた六条御息所、片や苦しい恋に狂乱する照日の前と、
乱れた女性の姿を(それでいて気品高く)描いた両作品は、
見る人に強い印象を与えます。
上村松園と謡曲
松園は若いころから多趣味な人で、
篠笛・八雲琴(二弦琴の一種)・三味線などの心得があったそうです。
大正の初めごろからシテ方金剛流の金剛巌について
謡(能の音楽の一部門。台詞・心情・出来事・風景描写などを朗唱する)を
習いはじめ、晩年まで趣味として続けていました。
師の金剛巌によると松園には稽古する曲の好き嫌いがあって、
特に強い性格の女性が登場する作品を好んでいたといいます。
ご本人は「下手の横好き」だとか
「べつだん上手になろうともしないせいか、十年一日のごとく同じ下手さをつづけている次第です。」
などと言っていますが、(「謡曲と画題」『青眉抄』より…青空文庫でも読めます)
「素質の良い方ではあるし、熱心で、なかなか上手です。」
という師匠の言葉もあります。(「能面と松園さんの絵」『青帛の仙女』…青空文庫)
松園が謙遜したのか、師匠がお世辞を言っているのかはわかりません。
松園は能のストーリー(謡曲)に取材した作品を多く描いており、
《花がたみ》《焔》もそのひとつです。
謡曲をモチーフにした松園の作品は他に
《草紙洗小町》(1937)、《砧》(1938)、《静》(1944)など。
また《序の舞》(1936)のような能楽を演ずる女性を描いた美人画や、
能面を描いたスケッチも残っています。
上村松園《花がたみ》1915(松柏美術館所蔵)
(2021年、東京国立近代美術館「あやしい絵」にて)
主題:謡曲「花筐(はながたみ)」(世阿弥作)
継体天皇が即位前に寵愛していた女性・照日の前は帝の後を慕って都へ上り、
紅葉見物をする帝の行列の前に現れて狂女の舞を披露します。
形見の花篭から狂女の正体に気づいた帝は
再び照日の前を召して都に連れ帰り、後に二人の息子が安閑天皇となりました。
《花がたみ》について
額装 208×127cm
紅葉が舞い落ちる中、花篭を下げた女性が歩み出る場面。
古墳時代の物語ですが、照日の前は十二単姿で表現されています。
ぐにゃりと乱れた襟元や、肩からなかば滑り落ちている上衣、
足もとに落ちている敗れた扇、
さらに人物の虚ろな目つきと半開きの口元といった表情から、
尋常でない様子が感じられます。
モデルは富勇という祇園の芸妓さんですが、
松園はそれに加えて狂女の表情のために
京都の岩倉村(現在の左京区岩倉地域あたり)にある
精神病院に通って入院患者を観察し、
また能面の十寸神(ますがみ)を写生し人間の顔に当てはめて、
この女性の顔を完成させました。
(「花筐と岩倉村」『青眉抄』…青空文庫)
作品を所蔵する松柏美術館(奈良市登美ヶ丘2丁目1番4号)は
上村松園・松篁・淳之の三代にわたる作品・草稿・写生などを収集する美術館で、
《花がたみ》のほかにも《楊貴妃》(1922)、《鼓の音》(1940)など
すぐれた松園作品をコレクションしています。
松柏美術館のホームページ
(コレクションのページに《花がたみ》の画像あり)
上村松園《焔》1918(東京国立博物館所蔵)
(2022年、東京国立博物館「未来の国宝」にて)
主題:謡曲「葵上(あおいのうえ)」(世阿弥、一説には金春禅竹作)
源氏物語の一場面をもとにした演目です。
光源氏の正妻である葵上が物の怪にとりつかれ重態となり、
巫女を呼んで物の怪の正体を明らかにしたところ、
源氏の愛人の六条御息所の怨霊であることがわかりました。
嫉妬にかられた怨霊は葵上をとり殺そうとしますが、
法力をもつ修験者の祈禱によって成仏します。
《焔》について
軸装 189×90cm
こちらに背を向けた状態から振りかえった女性(六条御息所)の姿を
縦長の画面いっぱいに描いた作品。
白地の打掛に描かれた藤の花と蜘蛛の巣は、己の身に絡みつく情念のように見えます。
物語の時代設定は平安時代ですが、六条御息所は桃山時代の服装で描かれています。
(桃山は能が盛んだった時代でもありますね)
激しい情念を秘めた女性を描いたこの作品が描かれたのは松園がスランプに陥っていた時期で、
その時期を切り抜けたことが画家としてひとつの転機となりました。
《焔》は私の数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵であります。
(中略)
どうして、このような凄艶な絵をかいたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいですが、あの頃は私の芸術の上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああいう画材にもとめて、それに一念をぶち込んだのでありましょう。
(「作画について」『青眉抄』…青空文庫)
この絵を描く際にも相当な苦労があったようで、
下絵の段階では幽霊風のものや江戸時代の女性の姿をしたものなども描いてみて
試行錯誤を重ねていたそうです。
(上村松篁「わが母松園を想う」『青帛の仙女』)
また従来の美人画では嫉妬の形相を美しく表現することが難しく、
謡曲の師である金剛巌に相談したところ
「能の嫉妬の美人の顔は眼の白眼の所に特に金泥を入れている。これを泥眼と言っているが、金が光る度に異様なかがやき、閃きがある。また涙が溜まっている表情にも見える」
と教えられて、人物の眼の裏側から金泥を施したというエピソードがあり、
画中の女性の不思議な目つきはこの効果で生み出されているようです。
(「簡潔の美」『青眉抄』…青空文庫)
また元は「生き霊」だったタイトルを現在の「焔」に改めたのも
金剛巌の助言からだそうです。
作品の詳細は、
ColBase(国立文化財機構所蔵品統合検索システム)
でも見ることができます。
2021年、国立近代美術館(東京)と京都市京セラ美術館で競演
2021年は、松園の作品の中でも異彩を放つこの2作品が
揃ってお目見えする展覧会が開催されました。
東京の「あやしい絵展」では前期と後期に分かれて
両方揃って展示されることはありませんでしたが、
(巡回した大阪では《花がたみ》のみ展示)
京都の「京都市京セラ美術館開館1周年記念展 上村松園」では
前期(7月17日~8月15日)のあいだ両方が展示されていました。
(《焔》は前期、《花がたみ》は通期展示)
この絵のために同じ展覧会に2回(あるいはそれ以上…)通った人、
また時節がら東京(または京都)に行くことができずに
涙をのんだ人も少なくなかったのでは?
わたしも京都は断念し、図録『上村松園』(青幻舎)のみ購入した一人です…
あやしい絵展(東京国立近代美術館)
西洋の世紀末芸術から取り入れられた表現や、
目まぐるしく変化する不安定な社会情勢を反映して生まれた
近代日本の「あやしい」作品を集めた美術展。
展示期間は《焔》が3月23日~4月4日(東京会場のみ出品)
《花がたみ》が4月20日~5月16日でした。
東京国立近代美術館 (東京都千代田区北の丸公園3-1)
2021年3月23日(火)~5月16日(日)
東京展終了後、大阪会場に巡回(《焔》は出品されません)
大阪歴史博物館 7月3日(土)~8月15日(日)
月曜休館 5月6日(木)休館
※ただし3月29日、5月3日は開館
9時30分~17時(金・土曜は20時まで)
※入場は閉館の30分前まで
一般 1,800円
大学生 1,200円
高校生 700円
中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料
展覧会公式ホームページ
チケット購入(日時指定予約制)