モナリザ盗難(1911)ー ピカソも巻き込まれた大事件の犯人は?

ルーヴル美術館の看板として多くの人を惹きつける《モナリザ》は、盗まれて行方知れずになったことがあります。
事件は1911年8月に起きました。

モナリザの盗難事件 ー 犯人は?

モナリザが盗まれる事件は、1911年8月21日に発生しました。
ところが、事件が発覚したのは翌22日の開館後、しばらく経ってから。
なぜこんな事になったのでしょうか?

モナリザが盗まれた!(1911年8月)

事件が起きた1911年8月21日(月曜日)は、ルーヴル美術館の休館日でした。
(現在のルーヴル美術館は火曜が休館日です)
犯人は前日の20日に入館し、美術館の掃除用具入れに隠れていました。
21日に抜け出した犯人は、当時モナリザが飾られていたサロン・カレに侵入。
《モナリザ》の額とガラスカバーを外して上着に包み、そのまま自宅へ持ち帰ってしまいました。

これが現在なら《モナリザ》 は国家の間(グランド・ギャラリー。2005年に移動)にある特別なスペースに展示されていますから、もっと早く騒ぎになったことでしょう。
《モナリザ》の展示場所はこちらの記事でも紹介しています。
ところが当時の《モナリザ》は他の絵と並んで飾られていたので、多くの人は消えたことに気づかなかったようです。

(こんな感じだったようです)

翌日8月22日に画家のルイ・ベロー(1852‐1930)がサロン・カレを訪れなかったら、事件の発覚はもっと遅れていたかもしれません。
《モナリザ》をスケッチしようとやって来たベローは、目当ての絵ががなくなっていることに気づいて警備責任者に連絡しましたが、写真撮影のための一時的な移動と考えられて盗難が発覚するまでにはさらに数時間かかりました。

ルーヴル美術館は捜査のために1週間閉館。
杜撰な警備の責任を問われ、美術館の理事たちが罷免されました。
《モナリザ》の行方がわかるのは、それから2年後のことです。


モナリザを盗んだ犯人

《モナリザ》を盗んだ犯人は、ヴィンチェンツォ・ペルージャ(1881-1925)というパリ在住のイタリア人でした。
ペルージャは左官職人で、ルーヴル美術館で仕事をしたことがあったために館内の構造や警備の状況を把握していたようです。
ペルージャは盗んだ《モナリザ》を2年間自分のアパートに隠した後、絵を持ってイタリアに戻ります。
その後しばらくは自宅に保管していたのですが、フィレンツェの画商に《モナリザ》を売ろうとしたのがきっかけで、1913年12月に逮捕されました。

逮捕されたペルージャは「ナポレオンに奪われた名画をイタリアに取り戻したかった」と述べ、自分は愛国者であると主張しました。
ところが、ペルージャは大きな誤解をしています。
フランス革命戦争(1792-1802)の際、フランス革命軍の兵士がイタリアから多くの絵画奪って行ったのは事実です。
しかし《モナリザ》は、1516年(フランス革命戦争の200年以上前!)に作者のレオナルド・ダ・ヴィンチが、時のフランス国王フランソワ1世に招かれた際持参したものです。
さらにレオナルドの没後、フランソワ1世は相続人に対価を払って《モナリザ》を買い上げていますから、ペルージャの主張は間違っていることになります。
(ペルージャの弁護士は「フランスへの報復」と主張したそうです)
ルーヴル美術館のはじまりと《モナリザ》については、こちらの記事もどうぞ
(日曜美術館)すべてはレオナルドから始まった

ペルージャはフィレンツェの画商にコンタクトを取る前にイギリスのロンドンで《モナリザ》を売ろうとしたこともあり、愛国心による犯行だという主張がどこまで本当かはわかりません。
とは言え、ペルージャの主張は多くのイタリア人に好意的な印象を持たせることに成功しました。
イタリアで行われた裁判で下された判決は1年15日の勾留でしたが控訴審で7か月に短縮され、すでにそれ以上の期間拘束されていたことで釈放。
裁判所を出たペルージャに握手を求めるファンが集まったそうです。


《モナリザ》盗難とピカソ

ルーヴル美術館から《モナリザ》が盗まれたこの事件は、フランス国内で話題となりました。
ペルージャが逮捕される前は、捜査の進展や犯人像をめぐって報道が過熱。
そんな中、容疑者のひとりとして詩人のギヨーム・アポリネール(1880-1918)と、その友人で画家のパブロ・ピカソ(1881-1973)が逮捕されます。

ピカソは以前、ルーヴル美術館から盗まれた古代イベリアの彫像2体を買ったことがありました。
(ピカソ本人は盗品と知らなかったと言われています)
彫像を盗んだ犯人は、ベルギー出身のジェリ・ピエレという人です。
ピカソに盗品を売ってから一時姿をくらましていましたが、その後パリに戻ってアポリネールの秘書として住み込みで雇われていました。
ピエレは1911年の5月に再びルーヴル美術館の彫像を盗み出し、アポリネールの自宅に置いていました。
そして8月に《モナリザ》の盗難事件が起きます。
自分の家にある彫刻が盗品ではないかと薄々勘付いていたアポリネールはピカソと相談し、新聞社を通じて匿名での返却を試みたのですが…当然ながら警察にマークされ、逮捕されてしまいました。
アポリネールは《モナリザ》を盗んだ共犯ではないかと疑われて刑務所へ。
ピカソも警察に尋問されることになったのです。
彫刻を盗んだなら《モナリザ》も盗むだろう、という…なんだか言いがかりのような根拠だったようで、当時の捜査がいかに混乱していたか見えてくるような気がしますね。

結局《モナリザ》を盗んだのはペルージャでしたし、アポリネールとピカソはピエレの共犯でもなかったわけですから、2人は二重の意味でとばっちりを受けたことになります。
とはいえ彼らも事件から得るものはあったようで…
アポリネールは勾留中に「ラ・サンテ刑務所にて(獄中歌)」という詩を書いています。
またピカソの代表作のひとつ《アヴィニョンの娘たち》(1907)の登場人物のひとりは、ピエレから買った彫像をモデルにしているんだとか。