日本の仏像界を代表するイケメンと名高い、興福寺の阿修羅像。
3つの顔と6本の腕を持つ異形の姿が特徴的なこの像は、
光明皇后の願いで建立された興福寺西金堂の群像のひとつとして作られ、
幾度もの火災を乗り越えた現在は国宝館に納められています。
ここでは阿修羅像の来歴、さらに顔と腕がそれぞれ持つ意味と、
その魅力について調べてみました。
阿修羅像と興福寺 ― 国宝館に入るまで
現在でこそ8世紀の天平文化を代表する仏教彫刻の傑作と名高い阿修羅像ですが、
もとは御本尊に添えられた群像の一部でした。
群像は千数百年を超える時間の中で多くが失われ、
納められていた西金堂も焼失して、現在は興福寺国宝館に展示されています。
もとは西金堂の群像(八部衆の一柱)
阿修羅像がある興福寺のはじまりは、
藤原氏の始祖・中臣鎌足が重い病気になった時に
夫人が回復を祈って建立した山階寺でした。
その後都が変わるのにしたがって飛鳥、平城と移転し、
現在の場所に興福寺が建てられたのは710年のこと。
興福寺を建立した時の右大臣・藤原不比等(659-720)は、
のちの光明皇后(701-760)の父親でもあります。
興福寺は藤原氏の氏寺として信仰を集め、
藤原一族によって沢山の堂や塔が建てられました。
光明皇后は翌730年に五重塔、734年に西金堂(さいこんどう)を寄進しています。
光明皇后の母・橘三千代(?-733)の一周忌に建てられた西金堂には
本尊である釈迦三尊像を囲むように脱活乾漆技法で作られた像が並び、
釈迦の説法を聞く様子(「金光明最勝王経」の情景)が表現されていたそうです。
制作者は
「仏師 将軍満福(しょうぐんまんぷく)」と
「画師 秦牛養(はたのうしかい)」の名前が記録に残っていて、
実際にはこの2人をチーフにした工人チームが組まれたはずです。
群像は御本尊のほかに十大弟子(釈迦の優れた10人の弟子。羅漢とも呼ぶ)や
阿修羅を含む八部衆(仏法を守護する神々。天竜八部衆とも呼ぶ)など29体。
さぞかし壮大な景色が広がっていたと思われますが、
現在残っている天平時代の彫刻は十大弟子のうち6体と八部衆、
銅製の金鼓(金光明最勝王経に登場する罪業を消し去る鐘。華原磬とも呼ぶ)だけです。
こんなにも数が減ってしまった理由のひとつは、
興福寺がたびたび災害に見舞われたこと。
西金堂だけでも1046年・1180年・1327年・1717年と4度燃えた記録があり、
4度目の焼失後は再建されていません。
特に1180年、平家に対して兵を挙げた以仁王に加勢しようとした寺社を
平重衡が焼き討ちした事件(南都焼討)では、興福寺そのものが全焼し、
多くの仏像が失われました。
この時はバックにいた藤原氏の勢力が強かったおかげで、すぐに再建されたそうですが…
脱活乾漆技法(麻布の上に漆を塗り重ねた張り子のような技法)で作られた仏像は
比較的軽量だったために避難させるのも簡単だったようで、
現在は6体になっている十大弟子の像も
明治ごろまでは10体すべて揃っていたといいます。
現在は国宝館(もと食堂)にあり
1717年の火災以降、西金堂から助け出された仏像は東金堂に安置されていたと思われます。
明治時代に宮内省・内務省・文部省の3省が協力しておこなった
近畿宝物調査(1888年5月~1889年2月)の際、写真家の小川一真が
興福寺の中金堂(当時は1819年に建てられた仮金堂)内を撮影した写真には
他の仏像と並んで阿修羅像の姿もあり、
(阿修羅像を撮影した初めての写真です)
これは調査の時に移されたのかもしれません。
1895年に帝国奈良博物館(現在の奈良国立博物館)が開館。
1903年には興福寺から八部衆や十大弟子の一部が貸し出されて
常設展示入りしていたそうで、
阿修羅像は遅くとも1925年には展示されていたことがわかっています。
そして1959年に興福寺国宝館が建てられると、
八部衆と十大弟子はそちらに納められることになりました。
国宝館は興福寺の創建当初に
食堂(じきどう。僧侶が集団で食事する場所)だった場所にあり、
地下には元あった食堂の遺構がそのまま保存されています。
外観は奈良時代の食堂と細殿を合わせた形になっており、
(細殿は寝殿造りの御殿の中心(母屋)の外側に張り出した部分(廂の間)の細長いもの)
中身は鉄筋コンクリート造りの大家式宝物収蔵庫です。
阿修羅像の3つの顔と6本の腕 ― その意味と魅力
阿修羅像の特徴と言えば、三面六臂(3つの顔と6つの腕)という他にない姿。
同じ八部衆に鳥の頭をした迦楼羅(かるら)、鬼面の鳩槃荼(くばんだ)、
第3の目と角を持つ緊那羅(きんなら)といったメンバーもいるのですが、
阿修羅は特に人間離れしています。
服装は裸の上半身に条帛(タスキ状の布)天衣(細長い飾り布)と
首飾り・腕輪などのアクセサリーをつけて、
短い裙(布を巻いた下履き)をつけ、素足に板金剛(サンダル)を履いています。
髪の毛も頭頂部できちんと結い上げて、なんだか真面目な印象です。
明らかな異形である阿修羅像にあまり威圧感がない理由のひとつは
鎧や武器など厳めしいアイテムがないことかもしれません。
(ちなみに阿修羅以外の八部衆は鎧を着ています)
3つの顔・その表情が意味するもの
興福寺の阿修羅像は3つの頭が独立しているタイプではなく、
同じ頭にそれぞれの顔がついています。
3つの顔が首と頭頂の髻を共有し、
耳も正面の顔は両耳がそろっているのに対して
左右の顔は正面と重なる部分の耳を省略しているため、
全体で見た時のバランスが良くなっているように見えます。
そして「愁いを帯びた美少年」と評判の表情も大きな特徴です。
阿修羅はさかのぼれば古代インド神話の戦いの神アスラに通じます。
このアスラは最高神インドラと敵対する存在で、
決して勝利することがない戦いに明け暮れる生き方は
永遠に救われることがない六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)の
ひとつに数えられています。
そのため京都にある《二十八部衆立像 阿修羅》(鎌倉時代 三十三間堂。国宝)など
大抵の阿修羅像は牙をむいた憤怒の表情で表現されるのですが、
興福寺の阿修羅像は、眉を寄せ唇を引き結んで思い悩むような表情をしています。
左右の顔の表情も静かで、
像の右脇(向かって左側)にある顔は下唇を噛んだ哀しそうな表情、
左脇(向かって右側)の顔は眉間に力が入ったやや厳しい表情をしていますが、
感情をむき出しにするような顔ではありません。
どこか遠くを(もしくは己の内側を?)見つめるような表情には
誰かに敵対したり己を押し通そうとするようなところがなく、
だからこそ見る人は阿修羅像の内面を想像して惹きつけられるのかもしれません。
これらの顔はそれぞれ
荒々しい神であった阿修羅がお釈迦様の説法で己の罪に気づき
罪を悔いて悟りに至る顔だと言われていて、
微妙に違う表情で阿修羅の内面の移り変わりを表現しています。
また別の説では幼い子供の顔、思春期の少年の顔、青年の顔とも言われていて、
切り口は違ってもひとりの人間(神)の成長を読み取っているようです。
実は6つある? 何故か変えられた阿修羅像の顔
興福寺の阿修羅像は脱活乾漆という張り子のような技法で作られています。
大雑把に言うと、粘土で作った原型の上から麻布を張り重ねて漆で固め、
中の粘土を取り除き(粘土のかわりに木組みを入れて補強)、
表面に漆と木くずを混ぜた木屎漆を盛り上げて形を整えて
細部を作りこんだ後に彩色を施しています。
(現在の阿修羅像の彩色は鎌倉時代に塗り直されたもの)
2010年の興福寺創建1300年を記念した
「国宝 阿修羅展」(2009年3月より東京と九州に巡回)にあたり、
九州国立博物館でおこなわれたX線CTスキャンの結果、
原型の時点で作られていた顔と完成した顔はだいぶ異なっていることが分かりました。
内側の麻布の凹凸から復元した原型では、
中央の顔が両眉の連なった凄みのある表情で悪神としての阿修羅を思わせる顔つき、
左脇の顔は現在よりも眉が強く寄せられ目も吊り上がっていて、
右脇の顔は口を少し開けたあどけない表情で頬にも丸みがある子どもの顔をしています。
何故現在の姿に変えられたのかは推測するしかありませんが、
阿修羅像を含む興福寺西金堂の群像が表す「金光明最勝王経」のテーマである
「懺悔」と「仏教への帰依」を表現するためではないかという説が有力です。
(山崎隆之「阿修羅像に隠された三つの顔」『阿修羅像のひみつ』朝日新聞出版、2018)
六本の腕が意味するもの
阿修羅像の6本の腕は2本ずつ3組になっていて、
上に差し上げた2本、斜め下に下ろして肘から先を上に曲げた2本、
そして体の前で合掌する2本があります。
このうち上に差し上げられた腕はアスラのさらに原形である
古代ゾロアスター教のアフラ・マズダ(宇宙の創造と運行をおこなう生命と光の神)
の性格を示し、もともとは月と太陽を持っていたと考えられています。
真ん中の腕は戦闘的だった頃の性格を表すもので、
弓と矢を持っていたのではないかという説が有力。
合掌する腕は仏教に帰依して守護神となった阿修羅です。
仏像としての阿修羅像に最も重要な合掌している腕ですが、
興福寺の阿修羅像の合掌する腕は、
もともと別の形だったのではないかという説がありました。
このきっかけは、明治時代に阿修羅像の腕が欠けていたことです。
(直されていない所を見ると、西金堂が失われた1717年の火事の際に壊れたのでしょう)
阿修羅像は1902~05年頃に補修されて現在の姿になるのですが、
修復される前に写真家の工藤利三郎が撮影した写真と比べると数本の腕が欠け、
合掌している腕も右の掌から肘近くまでの部分がありません。
さらに左手の傾きや脇の下の角度も違っていて、
写真の角度で腕を付け足すと合掌の形にはならないと思われました。
現在の阿修羅像の合掌は体の真正面よりもやや左に寄っていることもあり、
もしかしたら本来は合掌していなかったのが
明治期に誤って今の形に変えられたのでは、と考えられたのです。
(山岸公基「阿修羅の手」『月刊奈良』38-11、1998)
これもまた2009年におこなわれたCTスキャン画像解析から始まる一連の調査の結果、
工藤利三郎が撮影した時点で阿修羅像の腕の付け根に古い傷を補修した痕跡があったこと、
そのために腕の角度が変わっていたことが分かりました。
(矢野健一郎「阿修羅は合掌していた」『阿修羅像のひみつ』)
作られた当初の阿修羅像はきちんと体の真正面で合掌していたのが、
どこかの時点で行われた修復が完全ではなかったために
現在も少々歪みが残っている、という状態のようです。
(阿修羅像の合掌は現在も少しだけずれています)
現在の阿修羅像は国宝(正確には国宝《乾漆八部衆立像》のうちの一体)ですから、
修復と言ったら天平時代につくられた元の姿を取り戻すことと考えられていますし、
現在の状態に手を加えることは文化財保護法によって制限されています。
ところが明治より前の時代、仏像は「信仰の対象」でした。
壊れれば(予算と人手があれば)すぐに補修したでしょうし、
その際も「寸分の狂いもなく元あった通りに」とは考えられていなかったはずです。
阿修羅像の腕をめぐる調査結果には、
人の仏像に対する考え方が移り変わっていく様子が表れているようで、
興福寺の阿修羅像はそういった意味でも魅力ある仏像だと思います。
なお工藤利三郎が撮影した補修前の写真は
1908年刊行の写真集『日本精華』第1輯(精華苑、1908)に収められていて、
国立国会図書館のオンライン利用者登録をしていればPCなどから閲覧することができます。
NDL-ONLINE 『日本精華』第1輯(阿修羅像は 25/107)