《麗子像》は怖い? 本人には似ているのか?

麗子像と言うと「ああ、教科書に出てきた怖い絵ね…」と思いませんか?
(かく言うわたしは、だいぶ長いことそう思っていました)
ところが「教科書の怖い絵」こと《麗子微笑》は、
岸田劉生が娘の麗子を描いた「麗子像」の1枚にすぎません。
そして「怖い」という評価もすべての麗子像に当てはまるものではないようです。

麗子像は怖い? ー 《麗子微笑》

岸田劉生《麗子微笑》1921(東京国立博物館蔵。重要文化財)


暗い色の背景に描かれた、おかっぱ頭の少女。
頭部がやけに大きく横広がりに見える一方で
青い蜜柑を持つ手は極端に小さく、アンバランスに見えます。
笑みを浮かべた表情はひどく老成して仏像か何かのよう。
(岸田劉生はレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》に触発されそうです)

大抵の日本人が「麗子像」と聞いて思い浮かべるのは、
美術の教科書でもおなじみのこちらの一枚ではないでしょうか。
(令和4年の『高校美術』にも収録されていました)

それだけ見る人に強い印象を残す傑作なのは間違いないのですが…
「怖い」「不気味」という感想を抱く人は多いようで、
麗子像が「怖い」イメージになったのは、有名すぎるこの絵の影響と思われます。


麗子像が「怖い」理由

良くも悪くもインパクトのある《麗子微笑》ですが、
この絵は何故「怖い」という印象を与えるのでしょう?
人によって違うかもしれませんが、大きな理由はこの肖像画が、
「あり得ない女の子」を「実際そこにいるようなリアルさ」で描いていることがあります。

《麗子微笑》の大きなおかっぱ頭や小さな手は、
現実の人間としてはかなり不自然です。
(これは多くの「麗子像」とも共通する特徴で、制作当時も指摘されていました)
しかしその一方で、柔らかそうな髪、肌や唇の艶、
毛糸の肩掛けのモコモコした質感などはリアルで、
手を伸ばせば触れるのではないかと思うほど。

この明らかに不自然な子どもが現実的な存在感を持ってそこにいる状況が、
見る者に超自然的な存在と出会ったかのような恐れを持たせるのではないでしょうか。

画中の彼女の視線は右側に流れてこちらを向くことはありませんが、
もしもこちらを向いたらそれこそ怖いと思いますし、
またこの絵にはこちらを向いてもおかしくない臨場感があります。


麗子像とは ー 本人に似ていたり、似ていなかったりする「麗子」たち

国の重要文化財にも指定されている《麗子微笑》は
岸田劉生の作品の中でも圧倒的な知名度を持つ傑作です。
ただし「麗子像」(または「麗子肖像」)はこの一点ではありません。

「麗子像」とは、明治末から昭和初期に活躍した画家・岸田劉生(1891-1929)が
愛娘の麗子(1914-1962)をモデルに描いた一連の肖像画を指します。

劉生の娘にして自身も画家であった岸田麗子についてはこちらの記事もどうぞ。
「《麗子像》のモデル、岸田劉生の娘、そして…岸田麗子とは?」

数え年5歳(満4歳)から数え年16歳(満15歳)までの肖像画がありますが、
岸田一家が神奈川県の鵠沼海岸に転居した翌年の1918年から
関東大震災で被災し京都に引っ越した1923年にかけて描かれた
満4歳~9歳の麗子像が最も多く、
京都に移ってからは数を減らしています。
これは成長とともに親離れの時期を迎えたことに加えて、
麗子が生活の変化などから体調を崩したせいもあるようです。

油絵・日本画・素描のほかにカットや本の装丁など
分かっているだけで70点におよぶ「麗子像」が存在します。
モデルを務めるようになる前の赤ん坊や幼児の麗子を描いた作品も、
広い意味では「麗子像」と言って良いでしょう。


似ている? 麗子像

これらの絵がすべて「怖い」のかと言えばそんなことはなく、
最初の麗子像である《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918、東京国立近代美術館。写真手前)

その4か月後に描かれた素描《麗子六歳之像》(1919、泉屋博古館東京)

など、可愛らしい女の子を写実的に描いた作品も残っています。
これらもよく見れば写真のようなリアリズムではなく
敢えてバランスを崩している部分はありますし、
《麗子六歳之像》などはだいぶ頭が引き伸ばされていることがわかるのですが、
それでも1920年頃までの「麗子像」は、子供らしい姿をしていました。

なお《麗子微笑》に限らず麗子像には右向きのものが多いのですが、
これは劉生が使っていた鵠沼のアトリエでは
窓を背にして座る画家の斜め右側にモデルが乗る台があったからだそうで、
数ある麗子像の中には左や正面向きのものもあります。


似ていない? 麗子像

《麗子微笑》以降の麗子像は、麗子という現実の少女からかけ離れていきます。

《二人麗子図(童女飾髪図)》(1922、泉屋博古館東京)などは
一人の人間という枠も超えて麗子が麗子の髪をいじる現実にない光景が展開され、
「麗子」という概念を自由に遊ばせている感があります。

岸田劉生は画家として駆け出しのころから
自画像、自分の家族、友人とその家族など数多くの肖像画を描き、
創作意欲が旺盛すぎるあまり、モデルを頼んだ友人たちに
岸田の「首狩り」と恐れられたこともあったそうです。
麗子像のイメージを持っていると、気の置けない友人を描いた絵であれば
それこそ大胆なデフォルメを加えられたのではないかと想像しますが、
劉生が実際のモデルからかけ離れた描き方を試みたのは
麗子を描いたシリーズだけでした。

《麗子微笑》を描いたころの劉生は
アルブレヒト・デューラーをはじめとする北方ルネサンスの絵画に傾倒し、
写実的な絵を描く画家として知られていたために、
麗子本人も麗子像のような姿をしていると思っていた人もいたんだとか。
お稽古ごとのお師匠さんが麗子と初めて会った時に
「アー良かった」と胸をなでおろした…なんてことがあったそうです。


最後の麗子像

劉生の最後の麗子像となった2枚の《麗子十六歳之像》(どちらも1929年)は
1926年に転居した鎌倉で描かれ、
以前の麗子像とはまた違う写実的な表現になっています。
髪型もそれまでのおかっぱ頭から
この年に初めて結った日本髪(桃割れ)に変わり、
そうと知らなければ「麗子像」だとは思わないかもしれません。

劉生はこの片方(ふくやま美術館)を写実的に描いているうちに2枚目の構想を得て
それまでにない全く新しい描き方で
やや理想化された2枚目(笠間日動美術館)を描いたそうです。

麗子の成長と劉生の画風の変遷によって生み出された多種多様な麗子像は
この2作でおしまいになりましたが、
劉生が長生きしていれば(享年38歳でした!)
さらに多様な「麗子」が描かれていたのかもしれませんね。