19世紀末から20世紀初頭のウィーンで活躍した画家のエゴン・シーレは、
自分の不安定な内面をそのまま表現したような「表現主義」の画家として知られています。
女性を描いた作品には家族や恋人など関係の深い女性たちも登場し、
彼女たちが画家の人生に与えた影響を垣間見ることができます。
エゴン・シーレとは?
エゴン・シーレ(1890-1918)は、オーストリア近郊の都市トゥルンで生まれました。
シーレ家は元々北ドイツの出身で、牧師・官吏・軍人などを出した中産階級の家です。
父親のアドルフはトゥルン駅の駅長で、一家は駅舎内で暮らしていた時期もありました。
アドルフは息子にも鉄道技師になることを期待していましたが、
勉強が苦手だったシーレは1905年に父が亡くなった後画家の道に進みます。
ウィーン工芸学校を経て16歳でウィーン美術アカデミーに入学したシーレでしたが、
アカデミーの保守的な授業が合わず、不満を抱えていました。
そんな時、1907年に出会ったのが、グスタフ・クリムト(1862-1918)です。
クリムトはシーレより30歳近く年上ですが、ウィーン工芸学校の先輩にあたります。
当時オーストリア画壇のボス的存在だったクリムトはシーレの才能を認め、
モデル代を立て替えるなどの援助を行いました。
クリムトからの評価を受けたことが自信につながったのか、
1909年に仲間たちと前衛グループ「新芸術集団(Neukunstgruppe)」を結成したシーレは、
卒業を待たずに美術アカデミーを退学しました。
シーレが表現主義的な独自の画風を確立したのは1910年頃、20歳の時です。
「表現主義」とは20世紀初頭にはじまった近代美術の運動で、
主観的なイメージをそのまま表現しようとするものです。
筆の跡が見えるようなガサガサっとしたタッチや、
感情的にゆがめられた形態が表現主義の絵画の特徴です。
シーレの個性が際立つ作品は当時の美術の王道からは外れた前衛的な物でしたが、
コレクターや評論家の目に留まりました。
経済的援助など便宜を図ってくれるパトロンに恵まれたシーレは、
第1次世界大戦に召集されたときもスケッチや作品の構想をする余裕があり、
ウィーン転属後は制作を再開して発表の機会を持つこともできました。
シーレの評価は国際的に高まり、1918年の第49回ウィーン分離派展で成功をおさめた後は
クリムト(1918年2月に没)に代わるオーストリア画壇の第一人者となりましたが、
同年の10月31日にスペイン風邪で亡くなりました。
エゴン・シーレの女性像とシーレをめぐる女性たち
シーレと言えば、荒々しいタッチや力強い線で描かれた
奇抜なポーズの人物を思い浮かべる人も多いことでしょう。
28年の生涯で160点以上も描いたという自画像はもちろん、
パトロンの肖像画やモデルを使ったドローイングの中でも、
特にインパクトがあるのが女性を描いた作品です。
古典主義の「女神のような裸体」とは違った裸体の表現を追究し、
過激なポーズを斬新な視点から描いたり(梯子に登ってスケッチしたこともあったとか)、
産科医の友人の好意で病院の患者をモデルにしたりといった実験的な試みも行っています。
シーレの芸術は保守的な層から見ると受け入れがたいものがあったようで、
1911年に恋人のワリーと移住したクルマウ(現チェスキークルムロフ)では
屋外でのヌードデッサンなどが地元の人々に受け入れられず
3か月で退去することになっていますし、
(クルマウはシーレの母の故郷で、親戚も住んでいたのですが…)
その後親戚の別荘があるウィーン郊外のノイレングバッハに移った時は
少女誘拐の容疑で(実際は家出少女の保護だったと言われています)3週間拘束され、
その容疑は晴れたものの「わいせつ画を頒布した罪」で3日間の禁固刑になっています。
シーレが残した女性像は多くが匿名のモデルを描いたものですが、
(プロのモデルを頼むお金がなくて、近所の子供をモデルにしたこともありました)
中にはシーレと縁がある女性をモデルにした作品や肖像画もあります。
家族・恋人・妻など、女性たちとシーレの関係を投影しながら作品を鑑賞すると、
また違った魅力が見えてくるかもしれません。
(写真のカードは左から妹ゲルティ、恋人ワリー、妻エーディトを描いたもの)
母マリー・ソウクップ・シーレと妹ゲルトルーデ(ゲルティ)
シーレの母マリーはもともと富裕な建築業者の娘で、
夫の死後はわずかな寡婦年金で3人の子どもを育てています。
気丈な女性であり、敬虔なカトリック教徒でもありました。
シーレが美術アカデミーへの進学を望んだときは
親戚一同の反対を押し切って息子を後押ししたマリーですが、
堅実で信心深い母と芸術家気質の息子とはそりが合いませんでした。
後になると金銭問題などから、2人の親子関係はますますこじれていくことになります。
悲痛な表情で目をつむる母親、母の腕の中で恐怖しているような子どもを描いた
《母と子》(1912)のような不穏な母子像を描いたシーレは、
母という存在に対して愛憎入り混じった複雑な感情を持っていたのかもしれません。
シーレは母親との関係こそ良くありませんでしたが、
姉のメラニーと妹のゲルトルーデ(ゲルティ)とは仲が良かったそうです。
後にウィーン工房のモデルになるゲルティのことが特にお気に入りだったシーレは、
早くから彼女をモデルにした絵を描いていました。
(その中にはヌードモデルもありました)
この兄妹はとても親密で、大人になってからも家族に内緒で2人切りで旅行をしたり、
ゲルティの婚約者にシーレが嫉妬したりといったエピソードがあり、
2人は近親相関的な深い関係にあったとされています。
恋人ワリー・ノイツェル
クリムトのモデルだったワリー・ノイツェル(ヴァリーとも。本名ワルブルガ)と
シーレが出会ったのは、1911年のことでした。
この時シーレは21歳、ワリーは16歳。
画家とモデルとして知り合った2人はやがて交際し、同棲するようになります。
ワリーはシーレにとって最も長く関係が続いた恋人であり、
多くの作品のモデルとなりました。
ただし当時、結婚していない若い男女が一緒に暮らすのは外聞の悪いことで、
シーレがクルマウに受け入れられなかった理由のひとつにもワリーとの関係があります。
ノイレングバッハでシーレが拘束されたときも面会に通って画材を差し入れるなど、
公私にわたるパートナーとしてシーレを支えたワリーでしたが、
シーレが同じ中産階級の女性と結婚を決めたことで2人の関係は破局を迎えます。
もっともシーレは結婚後もワリーとの関係を続けるつもりだったようで、
「年に1回妻ぬきで旅行に行く」などと内容の契約書を渡そうとしたそうですが、
ワリーは(当然ながら)これを拒否し、二度と会うことはありませんでした。
シーレと別れたワリーは従軍看護師の訓練を受けてクロアチアに派遣され、
現地で猩紅熱にかかって23歳で亡くなりました。
妻エーディト・ハームス・シーレ
1914年、シーレはアトリエの向かいに住んでいたハームス家の姉妹と親しくなりました。
この姉妹の妹が後に妻になるエーディトです。
2人は1915年の6月17日に結婚しましたが、
この時のヨーロッパは第1次世界大戦(1914-1918)の真っただ中でした。
シーレは結婚式の4日後に召集を受けてオーストリア=ハンガリー帝国軍に入ります。
…とはいっても、パトロンの口利きもあって前線には送られず、
エーディト同伴で(さすがに同居はできませんでしたが)
事務や捕虜収容所の警備など、ある程度自由がきくポジションに回されました。
1917年にウィーン転属になってからは制作も再開できるようになり、
エーディトと共に暮らすことができるようになりますが、
シーレの周囲にはモデルをはじめとする女性たちが絶えず、
エーディトにとっては気の休まらない生活だったようです。
(シーレはエーディトの姉アデーレとも関係があって、彼女がモデルの作品もあります)
その後エーディトは妊娠しますが、妊娠6か月でスペイン風邪にかかり、
1918年の10月28日に子どもともども命を落とします。
そして妻をかいがいしく看病していたシーレも同じ病気に感染して、
3日後の10月31日に亡くなりました。
シーレは画業の後半には自然主義的な作風に移行しており、
エーディトをモデルにした作品は写実的で穏やかなものが多いようです。
「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展 ― ウィーンが生んだ若き天才」(東京都美術館)
2023年最初の日曜美術館でも紹介された注目の展覧会。
シーレの評価が今ほど高くなかった1950年代から作品を収集し続けた
レオポルド夫妻のコレクションをもとに2001年開館したレオポルド美術館は、
220点以上のシーレの作品を所蔵することから
「エゴン・シーレの殿堂」と呼ばれています。
写真はオリジナルグッズのドリップコーヒー「エゴン・シーレブレンド」。
東京・恵比寿に本店がある猿田彦珈琲監修のブレンドです。
概要
東京都台東区上野公園8-36
2023年1月26日(木)~4月9日(日)
9時30分~17時30分 (入場は閉館の30分前まで)
※特別展開催中の金曜日は20時まで開館
特別展は月曜休室(祝日・振替休日の場合は開室し、翌平日休室)
一般 2,200円
大学生・専門学校生 1,300円
65歳以上 1,500円
平日限定ペア割 3,600円()
小学生・中学生・高校生・18歳以下 無料(日時指定予約が必要)
※大学生・専門学校生は、1月26日~2月9日に限り入場無料(日時指定予約が必要)