明治・大正・昭和と活躍した陶芸家の板谷波山は、
華麗な彩磁や古典を写した青磁など、様々な作品に貪欲に挑戦していった作家です。
波山研究の第一人者である荒川正明先生によれば、
新しい技法を取りこんで自分の表現を追究した波山は「個人作家の第1号」なんだとか。
2023年2月12日の日曜美術館
「完璧なやきものを求めて 板谷波山の挑戦」
放送日時 2月12日(日) 午前9時~9時45分
再放送 2月19日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
日本近代陶芸の最高峰・板谷波山。淡く清らな光の中に高雅な文様が浮かび上がる独特の器は、どのように生み出されたのか。現代でも再現不可能といわれる超絶技巧の謎に迫る。また近年、窯跡から出土した幾多の陶片は、非常に困難な制作に立ち向かっていた波山の妥協なき完璧主義を明かすことになった。スタジオには初公開の傑作も登場。名作の数々とともに比類なき波山芸術の魅力をあますところなく紹介する。(日曜美術館ホームページより)
ゲスト
荒川正明 (学習院大学教授)
出演
齊藤勝美 (陶芸家)
繭山浩司 (美術古陶磁復元師)
板谷波山の経歴
陶芸家になるまで
板谷波山(本名は嘉七 1872-1963)が生まれたのは、茨城県下館市。
全国有数の木綿の産地で、江戸時代には承認による町人文化が栄えた町です。
波山の父・増太郎も醤油醸造業のかたわら雑貨をあきなう商人で、
茶道をたしなみ絵を描く数寄者でもありました。
そんな父の影響で、波山も子どものころから茶道具や絵に親しんでいたそうです。
1889年、17歳の波山は東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。
当時の美術学校には陶芸科がなかったために彫刻科に入り、
木彫の第一人者である高村光雲(1852-1934 高村光太郎の父としても有名)の指導を受けています。
写実を重視する光雲のもとで立体表現を磨いたことは、のちの作品に大きく影響しました。
美術学校を卒業した波山は、
1896年に石川県工業学校(現在の石川県立工業高等学校)の木彫科主任教諭として赴任。
1898年には木彫科の廃止にともなって陶磁科を担当し、1903年まで務めています。
波山の教員時代、欧米ではアールヌーヴォー様式が大流行していました。
有機的な動植物文様や曲線を使った装飾様式は、
第5回パリ万博がおこなわれた1900年頃から日本でもはやるようになり、
波山もパリやロンドンのデザイン誌を入手してアールヌーヴォーの研究をしていたようです。
地域ごとの集団の中で修業を積む伝統的職人とは違った経歴を持つ板谷波山は、
まさに明治を代表する陶芸家と言えるでしょう。
陶芸家として独立と、それを支えた人々(妻・まる、轆轤職人・現田市松)
1903年、波山は陶芸家として独り立ちするため東京の田端に引っ越しました。
経済的には非常に苦労をしたようで、
器を高温で焼くことができる西洋式の「三方焚口倒焔式丸窯」は
工業学校の嘱託や内職の代金で少しずつレンガを買い自作したそうです。
窯の完成(1906年)には奥さんの協力が不可欠だったため、
現在板谷波山記念館(茨城県)に移築されているこの窯は
「夫婦窯」とも呼ばれているんだとか。
1895年に結婚したまる婦人(1869-1958 旧姓鈴木)は、
共立女子職業学校(現在の共立女子大学)の一期生で、
玉蘭の号で日本画(跡見玉枝に師事)や陶磁器を制作し、
波山が金沢に赴任していた時は郷里の会津で裁縫学校を主宰するという、
実に行動力のある人だったそうです。
芸術家肌で対面を気にするたちだったという波山とは良いコンビだったのかもしれません。
波山は作陶にあたって、器の形を作る轆轤の作業は専門の職人に任せ、
自分はもっぱら表面の文様と焼成を手掛けていました。
特に1910年から務めていた現田市松(1884-1963)は、
20代の半ばから亡くなるまで50年以上波山の制作をサポートした人です。
(波山にとっては完全に気を許せる相手だったようで、ガールフレンドへの用事まで頼んでいたそうです…)
当時の常識でいえば大分遅くに陶芸の道に入った波山は、
理想の形を作るために修業を積んだ熟練の職人の手を必要としたのかもしれませんし、
轆轤まで手が回らないほどそれ以外の作業が大変だったのかもしれません。
特に波山が開発した「葆光彩磁」は、手間も神経も大いに使う技法でした。
板谷波山の陶芸
葆光彩磁 ― 重要文化財《葆光彩磁珍果文花瓶》と初公開の《葆光彩磁珍花文花瓶》
波山の器には、
浮彫で表現された立体的かつ繊細な文様、
釉薬をかける前の素地に液体顔料をしみこませる釉下彩、
(19世紀のヨーロッパで開発された技法で、絵画のような微妙な色の変化を出せるようになります)
独自に調合した焼くと結晶化する釉薬、といった特徴があり、
見れば「間違いなく波山」と思わせる個性があります。
そんな波山の代名詞ともいえる葆光彩磁は、
表面に艶を出しすぎない「マット釉」を改良した独自の釉薬を使ったもの。
1,230度前後の高温で焼くと透明な釉薬の中に細かい気泡が生まれ、
薄衣をかけたような柔らかい雰囲気になります。
波山は1917年の第57回日本美術協会展に《葆光彩磁珍果文花瓶》を出品して一等賞の金牌を得ました。
高さ51センチの花瓶に桃の実を盛った籠や鳳凰、福の文字などおめでたい図を描き、
青一色に見える余白にもよく見ると細かい模様が施されているこの花瓶は、
後に近代陶芸で初の重要文化財指定を受けることになります。
スタジオでは、先日荒川先生の研究室への持ち込みで発見されたという
《葆光彩磁珍花文花瓶》(大正中期)が公開され、
小野さんいわく「柔らかい光に包まれたよう」な効果を実際に見て体験することになりました。
こちらも仙桃・枇杷・霊芝といった伝統の吉祥の柄を配置しています。
見た目は優雅な葆光彩磁ですが、
葆光彩磁を40年近く研究している陶芸家の齊藤勝美さんが
「芸術をこえて神の存在すら感じる」と語るほど、
完成までの道のりは非常に険しいものです。
乾燥した粘土の表面は脆く、細かい文様を彫り込むと触るだけで消えてしまうこともあり、
液体顔料は均一にむらなく塗り重ねようとすれば内側まで色が突き抜けてしまうことも。
特に波山が好んだ青の顔料(硝酸コバルト)は乾くと色が飛んでしまうため
濃淡の塗分けが難しく、わずかな塗り残しになりやすいそうです。
2011年におこなわれた波山の窯跡の発掘調査で出土した破片の数は数千点。
実際に破棄されたものはさらに多かったことでしょう。
波山は大正中期から昭和初期にかけて葆光彩磁を製作しますが、
その後は単色の作品が主流になっていきます。
これは関東大震災や世界大戦などで原料が手に入らなくなったこともありますが、
波山自身の体力の限界もあったのかもしれません。
中国青磁への挑戦《青磁鳳耳花瓶》
波山は青みを帯びた氷のような氷華磁や乳白色に細かい嵌入が入った蛋殻磁などのほかに、
中国の古い名器を写した作品も手掛けています。
特に宋時代の青磁で、中でも古い青銅器の形を伝える鳳凰耳の花瓶に力を入れていたそうです。
2022年4月3日の日曜美術館「神はその手に宿る 復元師繭山浩司」でも紹介された南宋青磁の傑作
《青磁鳳凰耳花生》(銘:万声)を意識したと思われる《青磁鳳耳花瓶》(1944)は
もとの形を残しながら胴の周囲に蓮の花弁を浮き彫りにした作品で、
万声と比べてみると首が短く、彫刻のある胴が長いプロポーションになっています。
中国の古陶磁と波山の作品、どちらも数多く修復した実績があり、
上の番組内でも万声と同型の花入を復元していた美術古陶磁復元師の繭山浩司さんは、
《青磁鳳耳花瓶》は最高の青磁とされる宋の官窯青磁に近づけながら
得意の彫刻を融合させ自分のフォルムを作った作品であると評価しています。
また荒川先生は波山が精魂こめた一点ものの《青磁鳳耳花瓶》は
当時の量産品だった万声を「こえている要素もあろうか」と考えているといいます。
少なくとも、波山が万声をこえる、より良い作品を作ろうと工夫を重ねた結果
(1つ完成するまでに大量の失敗作が出たことでしょう)
《青磁鳳耳花瓶》が完成したことは間違いないと思われます。
理想の焼き物を追究し91歳で亡くなるまで製作をつづけた板谷波山は、
亡くなる10年前の1953年に81歳で、陶芸家としては初の文化勲章を受けています。
「生誕150年記念_板谷波山の陶芸」(茨木健陶芸美術館美術館)
茨城県笠間市笠間2345(笠間芸術の森公園内)
2023年1月2日(月)~2月26日(日)
9時30分~17時 ※入場は閉館の30分前まで
月曜休館
一般 840円(680円)
70歳以上 420円(340円)
高大生 630円(520円)
小中生 320円(260円)
※( )内は、20名以上の団体料金。
※身体障害者手帳等の提示で本人および付き添い者1人無料。
※土曜日は高校生以下無料