写楽 ー 謎の浮世絵師は誰? 秘密の仕掛人・蔦屋重三郎

江戸時代に活躍した浮世絵師の中でも特に謎めいた存在である東洲斎写楽。
近年では能役者・斎藤十郎兵衛だという説が注目されていますが、
正体は未だ謎に包まれています。
写楽の正体を本当に知っているのは、版元にして仕掛人だった蔦屋重三郎だけかもしれません。

写楽という浮世絵師

東洲斎写楽といえば、喜多川歌麿・葛飾北斎と並ぶ浮世絵界のスーパースターです。
ところが歌麿・北斎に比べると写楽の情報は圧倒的に少なく、今もその正体は解明されていません。

謎の浮世絵師・東洲斎写楽

経歴、不明。
家族構成、不明。
人となりも、もちろん不明。
謎の多い浮世絵師の実在を示すのは、短い活動期間で残した作品だけです。

絵師・写楽が活動したのは1794(寛政6)年5月〜1795(寛政7)年1月の正味10か月。
(途中に閏月が入る)
その後の消息もわかりません。

活動期間内に版元の蔦屋から発表した浮世絵は、役者絵・相撲絵などおよそ145図ありますが、作風やクオリティが短期間で変化しているため、すべて同じ絵師が描いたのかは疑問視されることもあります。


写楽の画風

写楽の作風は、勝川春章が創始した浮世絵の一派・勝川派の流れを汲んでいます。
勝川派は春章以来「似顔絵」と呼ばれる写実的な役者絵や相撲絵で人気を博した流派です。
写楽は勝川派の写実的な表現をベースに上方の絵師の作風を取り入れ、さらに顔やしぐさの特徴を大胆かつ印象的に描写しました。

写楽の代表作は、何といっても歌舞伎役者の顔を大きく描いた「大首絵」です。
よほど詳しい人でない限り、写楽の絵と言えば顔の特徴や表情を誇張した肖像画を思い浮かべるのではないでしょうか。

絵葉書になっても、顔の形・パーツごとの特徴・表情まで、役者自身の個性がはっきりと出ていることがわかります。

これらの役者絵は一般的な浮世絵よりも大きい大判(タテ39cm×ヨコ27cm)で、背景は黒一色に雲母の粉をひいて光らせる黒雲母摺(くろきらずり)。
個性の強い人物と合わせて一目見たら忘れられないインパクトがあります。

大判・黒雲母摺の個性的な役者絵は、寛政6(1794)年5月から6月に発表されました。
第二期(寛政6年7月〜10月)以降の写楽は全身像の役者絵が中心になり、サイズも小さく、雲母摺も使われなくなっていきます。
初期の作品と違いすぎるという理由から、第三期(寛政6年11月〜閏11月)・第四期(寛政7年1月)の作品は、別の絵師または複数の職工が写楽のスタイルを真似て描いたという説もあります。


写楽は何故消えたのか

写楽の絵は今見てもインパクトがありますが、極端に誇張された表現は見方によってはグロテスクでもあります。
写楽の活動期間が短いのは、この表現がより男前に(女形なら美人に)描いてほしい役者に嫌がられたせい、という説もあるほど。
写楽後期の作品には、役者の名前を取り違えて書くなど明らかな間違いもあって、芝居関係者の協力は得られていなかったようです。

同時代にも

写楽 これまた歌舞妓役者の似顔を写せしが、あまり真をかかんとて あらぬさま書きなさせしかは 長く世に行はれず一両年にて止む。
(大田南畝『浮世絵類考』)

という評価があり「あまり真をかかんと」しすぎたことがマイナスに働いたとされています。
芝居関係者に嫌われたのでなくとも、個性が強すぎたことで飽きられるのも早く、ブームが過ぎた後は人気が無くなったのかもしれません。


写楽は誰?という秘密

写楽の正体は誰なのか…この謎には様々な人が挑戦していますが、有力な説はあるものの完全な解明には至っていません。
2025年の大河ドラマ「べらぼう」では、写楽がどんな設定で登場するのかは見どころの一つになることでしょう。

写楽の正体は斎藤十郎兵衛?

浮世絵師の伝記を集めた『増補浮世絵類考』(斎藤月岑著、1844)には「俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀 阿波公の能役者也」とあり、写楽は阿波蜂須賀家のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛(1763-1820)だと書かれています。
この説は裏付けするものが見つからなかったために誤りと考えられていましたが、近年になって斎藤十郎兵衛の実在が確認されたこと、さらに江戸の文化人について記した『諸家人名 江戸方角分』で八丁堀の地蔵橋あたりに「写楽斎」なる浮世絵師が住んでいたことがわかり、十郎兵衛説に注目が集まりました。
残念ながら、今のところ写楽と斎藤十郎兵衛が間違いなく本人(または別人)であるという証拠は見つかっていませんが、今後の研究によっては写楽の正体に大きく近づくことができるかもしれません。

写楽の候補は他にもいて、当時の流行作家だった山東京伝、有名になる前の葛飾北斎、また写楽は1人の絵師ではなく複数の人物による合作だった…などなど、様々な説があります。
写楽の正体ではないかと言われた中には、写楽の絵を売り出した版元・蔦屋重三郎の名前もありました。


写楽の謎と蔦屋重三郎

蔦屋重三郎(1750-1797)は、江戸中期の出版界をリードした人物です。
電子メディアが存在しない時代では最先端の情報の発信元であり、流行の仕掛け人でもありました。

重三郎は、吉原細見(色町のガイドブック)で江戸の出版界に乗り出し、その後も狂歌本・絵本・錦絵・黄表紙(洒落・滑稽・風刺などを含む大人向けの読み物)など、大衆が求める本を次々と出版・販売して江戸で有数の版元になりました。
ところが1787年に江戸幕府の老中(幕政を主導する最高職)に就任した松平定信がおこなった寛政の改革で質素倹約・綱紀粛正の命令が庶民にもおよび、江戸の出版界も様々な制約を受けるようになります。

1791年、山東京伝の洒落本・黄表紙3冊が風紀を乱したと摘発され、著者の京伝は手鎖50日、版元の重三郎も罰金刑を受けて経営を縮小することになりました。
写楽の浮世絵が売り出されたのはその3年後で、経営の柱である黄表紙をお上に取り締まられた重三郎による巻き返し作戦の一環だったようです。

寛政の改革では芝居も取り締まりの対象になり、興行を許された三座(中村座・市村座・森田座)も経営難のため控櫓(三座に何かあって休業した時に代わって興行できる都座・桐座・河原崎座)に興行権を譲ることになります。
写楽の役者絵はこの控櫓の興行に合わせて売り出されました。
控櫓に権利が移ったことで、それまで役者絵の実績のなかった写楽(と蔦屋)が参入する余地があったようです。
(三座にはそれ以前から実績ある版元や絵師が付いていたので)

役者絵の世界に華々しく打って出た蔦屋は大躍進…と行けばよかったのですが、その後写楽は姿を消し、蔦屋も役者絵から撤退します。
蔦屋重三郎は写楽を売り出した3年後の1797年に亡くなりました。

写楽の正体は誰なのか、写楽の作と言われている浮世絵は全て同じ人が描いたものなのか…
写楽を世に出した重三郎なら間違いなく知っていたはずですが、結局謎は謎のまま残されています。