日曜美術館「山と原野とスケッチと〜農民画家 坂本直行〜」(2023.1.22)

北海道土産の定番・六花亭の包装紙の作者として知られ、
地元では「ちょっこうさん」と親しまれる画家・坂本直行。
日高山脈を描き続けた山岳画家であり、
20年以上も十勝の原野を切り開きながらスケッチをつづけた農民画家でもあることは
意外と知られていないかもしれません。
日曜美術館は、大自然とともに生き絵を描き続けた坂本の人生を振り返ります。

2023年1月22日の日曜美術館
「山と原野とスケッチと〜農民画家 坂本直行〜」

放送日時 1月22日(日) 午前9時~9時45分
再放送  1月29日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
朗読 小林エレキ

北海道土産の「花柄のお菓子の包装紙」でおなじみの画家・坂本直行。北海道を南北150キロに渡り貫く雄大な「日高山脈」に魅せられ、日高の山々が見渡せる原野を耕しながら絵筆をとり続けた農民画家として知られる。坂本龍馬の一族の末裔ゆえの家との確執。開墾生活での壮絶な自然との戦い。とりつかれたように登った北海道の山々。貴重なスケッチやエッセイ、映像を味わいながら、「山と原野」を愛した画家の生涯に迫る。(日曜美術館ホームページより)

出演
前田由紀枝 (坂本直行を調査)
小柳雄貴 (広尾町教育委員会)
高瀬佳郎 (坂本直行と同時期に入植)
中村晴彦 (北大山岳部の後輩)
新妻徹 (北大山岳部の後輩)
金井哲夫 (坂本直行の知人)


坂本直行の足跡 ― 龍馬の甥、山岳画家になる

坂本直行と坂本龍馬の関係

坂本直行(1906-1982)は、坂本龍馬(1836-1867)の甥の孫にあたります。
坂本直行の祖父・坂本直寛は坂本龍馬の長姉(高松千鶴)の息子で、
のちに竜馬の兄(坂本権平)の養嗣子になりました。
この直寛の代に坂本家は北海道に移住しており、
直行は直寛の長女・直意と婿養子の坂本弥太郎の次男として、
1906年に釧路で生まれました。

木材商を営んでいた弥太郎は息子たちに役人や学者になることを期待していて、
実際のちに直行の兄は旧満州の技官、弟は東北大学の教授になるのですが、
直行は全く別の道に進みました。


坂本直行が日高山脈に出会うまで

直行は幼いころから自然の美しさに惹きつけられていました。
8歳で札幌に転居した後も山遊びや草花に親しみ、
9歳くらいで草花のスケッチをするようになったそうです。

直行が登山に熱中するようになったきっかけは
中学1年の学校行事で蝦夷富士(羊蹄山。標高1993m)に上った時で、
この時の体験を綴った文章は「僕の絵の山」というタイトルで
画文集『原野から見た山』(朋文堂、1957)に収録されています。
(最近では2021年に山と渓谷社より文庫版刊行)

北海道帝国大学(現在の北海道大学)に進学し、山岳部に所属すると、
直行は3年に間に北海道内にあるほぼすべての山を制覇しました。
パーティーを組んで計画を立てて…といったことはまったく考えず、
毎週各地の山に出かけては、急いで登ってスケッチに励んでいたそうで、
常識外れの登山スタイルは20以上も下の後輩である中村晴彦さんにまで伝わっています。

1927年に大学を卒業すると、直行は東京の園芸会社に就職。
父親の支援を受けて札幌で温室園芸の会社をおこす予定だったのですが、
1929年の世界恐慌の影響などもあって資金を出してもらえず失敗しています。
将来を見失った後、直行はひたすら山に登り続け、
そして1930年に友人の誘いで訪れた十勝の広尾郡広尾村で日高山脈に出会い
「激しい魅力」を感じました。


坂本直行の開拓時代(広尾郡広尾)

日高の山々に魅せられた直行はそのまま友人の牧場で働き、
1936年に広尾村字下野塚に25ヘクタールの原野を買って本格的に入植します。
結婚もして、5男2女に恵まれました。
直行は畑を耕す合間にスケッチをし、
さらに当時は避難小屋や登山道がなかった日高山脈に分け入ってスケッチをしています。
山岳部の後輩である新妻徹さんによると直行は「山が呼んでる」と言っていたそうで、
日高の山に深くほれ込んでいたことが分かります。

とはいえ、山々は美しいばかりではなく過酷な面も持っています。
1940年1月15日、直行の後輩にあたる北大山岳部のグループが遭難し、
9人いたうちの8人が死亡する事故が起きました。
死亡者の中には直行が直接登山を教えた後輩(有馬洋)も入っており、
捜索に駆け付けた直行は遺体を掘り出した後声をあげて泣いたといいます。
数か月後、開拓生活の中で絵具を満足に買うことが出来なかった直行は
油絵の具を使って朝焼けに染まる日高の峰々を描きました。
(直行は高価な絵具を買うお金はなかったので、いつも鉛筆を使っていたといいます)
キャンバスを用意する余裕がなかったのか、ベニヤ板に直接描かれた絵の裏には、
「洋君の霊に捧ぐ」で始まるメッセージがクレヨンで書かれています。

開拓地での生活もまた厳しいものでした。
やせた火山灰交じりの土壌で、霧が深く日照も限られており、
ジャガイモやソバなど特定の農作物しか植えることが出来ません。
自分と家族が食べるだけの収穫も確保できず
借金ばかりがどんどん膨れ上がっていく中で、
挫折して去っていく開拓民も多くいたといいます。
坂本家も常に借金があり、極貧の生活が農業を離れるまで続きました。
現在はすっかり植物の生い茂る藪になっている入植地は、
「山岳画家 坂本直行翁 入植の地」の立て札だけが残っています。


坂本直行、山岳画家になる

家計は常に火の車。
さらに長男は農業とは別の道を選んで東京の大学に進学しました。
そんな中、1956年に彫刻家の峯隆(1913-2003)が訪ねてきたことが転機となります。
峯は酪農家の銅像のモデルを頼みに来たのですが、
直行の絵を高く評価し、画家として生計を立てることを勧めます。
1957年に開催された札幌個展の会場を用意したのも峯でした。
この個展は大成功をおさめ、以後は毎年開催されています。

直行はこれまで趣味として絵を描いていたために
それで生計を立てるという考えはありませんでしたが、
1959年の東京個展から専業画家になり、1960年に開拓地を離れ、
札幌にギャラリーを構えます。

単なる山の絵ではなく、実際に登っている時の空気を感じられるような直行の絵は
山の愛好家を中心に大評判になりました。
当時を知る金井哲夫さんによれば、あまりによく売れるために個展の会場でも
普通に1列の横並びで展示したのでは追い付かず、
2段3段と壁びっしりに飾らなければならないほどだったそうです。

百姓を借金でやめた今も
山の絵描きになったんですけど 対象はやっぱり自然ですから
小さいときからの自分の意志は ずっと通してきたつもりでいます

と語った坂本直行は1982年の5月、膵臓がんで75歳の生涯を閉じました。
最後の作品となった未完の風景画《原野の柏林と日高山脈》には、
生涯を通して「もう何千枚描いたかわからない」という日高山脈の姿がありました。


坂本直行と六花亭(もと帯広千秋庵)

小田豊四郎との出会いから生まれた『サイロ』表紙絵と花柄包装紙

帯広千秋庵(現在の六花亭)が1960年1月に創刊した『サイロ』は
十勝の小中学生の詩を集めた雑誌です。
この発刊にあたり、小田豊四郎(1916-2006。六花亭の創業者)は
直行に表紙やカットを依頼しました。
直行は「そういう美しい仕事は、ぜひ無償で参加させて下さい」と語り、
小田は百年の知己を得た思いがしたといいます。
直行は創刊号から亡くなる2か月前まで『サイロ』の仕事を続けました。
『サイロ』の表紙絵は601号から十勝在住の画家・真野正美に引き継がれ、
いまも刊行されています。
(2023年1月に第757号)

そして1961年から、直行自身も気に入っていたという山野に咲く草花の絵が
帯広千秋庵の包装紙に採用され、
1977年に「千秋庵」の暖簾を返して「六花亭製菓」となって現在に至るまで、
北海道はもちろん全国の人に親しまれています。


六花の森

十勝六花は
エゾリンドウ、ハマナシ、オオバナノエンレイソウ、カタクリ、
エゾリュウキンカ、シラネアオイの6種を言い、
もちろん直行が描いた包装紙にも登場しています。

六花の森は、この十勝六花などの植物が
実際に咲ける場所を、との思いから生まれた
100,000平方メートルの庭園施設です。
園内には六花亭の製菓工場、レストラン、お土産売り場なども。
点在するギャラリーはクロアチアの古民家を移築したもので、
坂本直行をはじめ地元の作家の作品を鑑賞できます。

坂本直行が文字と絵をコラージュした原画7点に加えて
壁紙にも包装紙を採用した「花柄包装紙館」、
十勝六花など、北海道の植物・山々の作品を展示する「坂本直行記念館」のほかにも、
山岳の作品を展示する「直行山岳館」
スケッチブックを展示する「直行デッサン館」
未完の風景画《原野の柏林と日高山脈》を展示「直行絶筆館」、
また『サイロ』の表紙絵を展示するギャラリー、野外彫刻など
アートと自然を一緒に楽しむことができます。

六花の森の概要

北海道河西郡中札内村常盤西3線249-6

4月下旬から10月中旬に開館
(冬季は休館)

一般 800円(600円)
小中学生 500円(300円)
※( )内は20人以上の団体料金

六花亭公式ホームページ
(六花の森のページは「施設のご案内」の中にあります)

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