《吉備大臣入唐絵巻》のあらすじ ― 吉備真備超人伝説!?

2022年東京都美術館で、
1932年にボストン美術館の所蔵になった《吉備大臣入唐絵巻》が展示されました。
(2022年7月23日~10月2日)

第1巻の頭から第4巻の終わりまですべてを一度に見ることができる
贅沢な展覧会ですが、
12世紀に筆で書かれた文章を
(恐らく、一流の書家によるものでしょうけれど…)を
すらすら読める現代人は少数派だと思います。
わたしの場合は単体でわかる文字が幾つかある程度で、
文章全体を読み解くのはとても無理でした。

絵巻物は見るだけでだいたいのストーリーが理解できるようになっていますが、
それだけでは細かい筋がわかりにくいのも事実。
さらに《吉備大臣入唐絵巻》は第1巻冒頭の詞書(文字パート)と
結末にいたる後半部分が失われています。

それでも「わからない」と嘆く必要はありません。
絵巻の元になった説話(口承で伝わった民話・伝説などの物語)が残っているため、
文字がわからない・続きが紛失しているなどの問題があっても
現代のわたしたちは失われた後半も含めた
《吉備大臣入唐絵巻》の内容を知ることができるのです。


《吉備大臣入唐絵巻》のあらすじ

主人公は遣唐使として中国に渡った吉備大臣(吉備真備)。
唐で客死した阿倍仲麻呂の亡霊の協力を得て、
唐の人々から押し付けられる難題を解決していきます。

詞書は『日本の絵巻3 吉備大臣入唐絵巻』(中央公論社、1987)より。
絵巻に書かれている文字はほとんどが平仮名ですが、
こちらでは漢字を当てられて読みやすくなっています。

第1巻あらすじ 唐に渡った吉備大臣が幽閉される

唐に到着した吉備大臣ですが、
その才知を恐れた唐の役人たちによって
生きて出る者はいないという高楼に閉じ込められてしまいます。

(詞書は欠落)


第2巻あらすじ 鬼(阿倍仲麻呂)と会う

閉じ込められた吉備大臣のところに、鬼がやってきますが、
術で姿を隠した大臣に叱られて衣冠を身につけて再び現れます。
鬼の正体は、過去に遣唐使として唐につかわされた阿倍仲麻呂でした。
仲麻呂はこの楼に閉じ込められて飢え死にしたと言います。
大臣から日本に残した子孫の消息を聞いた仲麻呂は大いに喜び、
お礼に唐の国のことをすべて教えて差し上げようと約束するのでした。

夜中ばかりにはなるらむと思ふ程に、雨降り風吹きなどして、身の毛立ちて覚ゆるに、乾の方より、鬼の伺ひ来る。
吉備身を隠す符を作りて、鬼に見えずながら、吉備の曰く、
「いかなる者ぞ、我は是れ、日本国の王の御使ひなり。王事、盬(もろ)きことなし。鬼何ぞ伺ふや」
と言ふに、鬼答へて曰く、
「最も嬉しきことなり。我も日本国の遣唐使にて、渡れりし者なり。物語りせむと思ふ」
と言ふに、吉備答へて曰く、
「会はむと思はば、鬼の貌(かたち)を変へて来るべし」
と言ふに、鬼帰り去りて、衣冠をして出で来り。吉備会ひぬ。
鬼先づ曰く、
「我は是れ、日本の遣唐使なり。我が子孫安倍氏侍りや。この事聞かむと思ふに、今に叶はぬなり。我は吉備にて、来りて侍りたりしに、この楼に登せられて、食ひ物を与へざりしかば、飢え死にてかかる鬼となりて、この楼に住み侍るなり。人を害せむ心なけれども、環が姿を見るに堪へずして、死に遭ひたるなり。我が国の事を問はむとするにも、答ふることなし。今日幸いに貴下に会ひ奉りたり。喜ぶところなり。我が子孫は官位は侍りや」
と言ふ。大臣詳しく有様を語るを聞きて、鬼大きに喜びて曰く、
「この恩には、この国の事を、皆語り申さむと思ふなり」
と言ふ。
大臣喜びて「最も大切なり」と言ふに、夜明けなむとすれば、鬼帰りぬ。



第3巻あらすじ 『文選』の試み

翌朝、吉備大臣が平気でいるのに驚いた唐人たちは、
難解な『文選』を読ませて笑いものにしようと考えます。
(『文選』は南朝・梁の昭明太子が編纂した全30巻の詩文集。六朝文化の傑作)
鬼にこれを知らされた大臣は、鬼に『文選』について教えてもらおうと考えますが、
鬼もわからなかったため、かわりに宮中の講義所に連れていくことを提案します。
大臣は「飛行自在の術」を心得ていたので、鬼の案内で講義所に侵入。
学者たちの話を盗み聞いて一計を案じ、鬼に古い暦を用意してもらいます。

その朝に、楼を開きて、唐人食ひ物を持て来るに、大臣事なくてあるを見て、唐人愈々怪しむ。また、
「この日本の使ひ、才能人に過ぎたり。書を読ませて、その誤りを笑はむ」
と言ふなり。
この由を鬼来て告ぐ。
吉備、「いかなる書ぞ」と問ふに、
鬼の曰く、「この国に極めて読み難き書なり。『文選』といふなり」。
大臣の曰く、「その書伝へ聞きて、語り給ひてむや」と言ふに、
鬼、「我は叶はじ。貴下を相具して、彼の沙汰の所へ至りて、聞かせむと思ふなり。それに楼を閉ぢたるは、いかがして出で給はむずる」と言ふに、
吉備の曰く、「我は飛行自在の術を知れり」
と言ひて、楼の隙より共に出でて、『文選』講ずる帝王の宮に至りぬ。
三十人の博士夜もすがら読むを聞きて、帰りぬ。
鬼の曰く、「聞き得たりや」。
大臣の曰く、「聞きつ。古き暦十余巻尋ねて与へてむや」
と言ふに、鬼即ち、求め与へつ。

吉備大臣を試すために『文選』を携えてやってきた勅使は、
楼の中で妙なものを見つけます。
大臣はあらかじめ、古暦の裏に『文選』の文章を書いたものを
そこら辺に散らしておいたのでした。
難解で格調の高い文章が無造作に書き捨てられているのを見た勅使が驚くと、
大臣は「日本の誰もが暗唱する『文選』という本ですよ」と答え、
ついでに勅使が持ってきた『文選』も、
「自分の本と見比べたい」と言って借りてしまいます(返しません)。

吉備これを得て、『文選』の上帙十巻が端々を、三、四枚づつ書きて、楼の内に破り散らしつ。
その後一両日を経て、『文選』三十巻を具して、博士一人勅使として楼に来りて、心み(試み)むとするに、『文選』の端々を散らし置きたるを見て、唐人怪しみて曰く、
「この書は、いづれの所に侍りけるぞや」と問へば、
「この書は、わが日本国に『文選』といひて、人の皆口付けたる書なり」といふ。
唐人驚きて、持て帰る時に、吉備の曰く、
「我が持ちたる本に見合はせん」と言ひて、『文選』をばかり取りつ。



第4巻あらすじ 命を懸けた囲碁の勝負

次に唐人たちは、囲碁の勝負を挑んで
吉備大臣が負けたら殺してしまおうと考えました。
やはり鬼によってこのはかりごとを知らされた大臣ですが、
碁がどんなものか知らなかったため、
天井の格子を碁盤に見立てて碁を研究し、
たった一晩で会得してしまいました。

さてまた、唐人議して曰く、
「才は有りとも芸は有らじ。碁を打たせて心み(試み)む」と言ひて、
「白き石をば日本の人に打たせ、黒き石をば我ら打ちて、碁の形につけて、日本の使ひを殺さむ」と相議す。
鬼、またこの由を告ぐ。大臣これを聞きて、「碁とはいか様なるものぞ」と尋ぬれば、
「三百六十一目あるものの、聖目九侍るなり」と言ふ。大臣、夜もすがら天上(天井)の組入に向かひて、案じ得たり。

一晩で碁を覚えてしまった吉備大臣ですが、
対戦相手も本場を代表する碁の名人ですから、なかなか勝負がつきません。
そこで大臣は隙を見て、相手の石をひとつ吞み込んで隠してしまいます。
勝負に負けた唐側が石を数えてみると、ひとつ足りません。
占い師によって大臣が石を飲み込んだことが発覚しますが、
大臣も譲らないので訶(呵)梨勒丸(インド原産の植物が原料の下剤)を飲ませて
証拠の石を出そうとしますが、
大臣が術で石を腹に封じ込めてしまったので見つかりませんでした。
結局、大臣の勝利で決着となりました。

次の日、案の如く、碁の上手を遣はして打たするに、勝負なし。
その時に、吉備、唐の方の黒石を一つ盗みて、呑みつ。
勝ち負けを争ふ折、唐人負けぬ。
「怪しき事なり」とて、石を数ふるに、足らず。
よりて占ふに、「盗みて呑めるなり」と占ふ。
吉備、大きに諍(あらが)ふに、然(さ)らば呵梨勒丸(かりろくがん)を服させて、出ださむとするに、吉備、又封じ留めて、出ださず。遂に勝ちぬ。



失われた後半部分のあらすじ

現在の《吉備大臣入唐絵巻》はここで途切れていますが、
元になった説話「吉備入唐間事」(『江談抄』巻第3、雑事)や、
戦後発見された写本「吉備大臣物語」(大東急文庫所蔵)があるために
内容を推測することができます。

これらによると、吉備大臣はこの後食物を与えられなかったり、
またもや難解な詩を読まされたりといった試練にあうのですが、
日本の神仏や鬼の仲麻呂の助けで難を逃れ、
ついには唐の太陽と月を双六の筒に封じ込めてしまいます。
国中が混乱に陥ったため、唐の人々は大臣を解放し、
大臣は宝物をもって日本に帰った…という結末になります。
なお、持ち帰った宝物の中には借りっぱなしの『文選』もありました…

絵巻が制作された時代は日宋貿易がおこなわれていた時期。
才知と超能力で唐人たちに一杯食わせる展開は、
中国に朝貢国(つまり格下)と見なされていた日本人の対抗心の現れなんだとか。


《吉備大臣入唐絵巻》のモデル・吉備真備はどんな人?

さて、絵巻の中では才知と超能力を駆使して活躍した吉備大臣。
実際にはどんな人だったのでしょうか。
モデルとなった吉備真備(695-775)は
実際に2回唐に渡っているのですが、
その時はまだ「大臣」ではありませんでしたし、
最初に遣唐留学生として渡航した時点では「吉備」でもありませんでした。

2度の渡航、左遷を経て大臣に

吉備真備は
吉備地方(いまの岡山とその周辺)の豪族の出身で、
元の名字は「下道(しもつみち)」といいました。

716年に21歳で遣唐留学生に選ばれ、翌17年に入唐。
儒学・兵学・天文学・音楽などを学んで最先端の知識を取り入れています。
共に留学したメンバーには、阿倍仲麻呂(701-770)もいました。

735年に帰国てからは、
留学の実績を高く評価され、順調に昇進を重ねていきます。
そして746年に「吉備朝臣」の姓を与えられ、改姓。
彼が「吉備真備」になったのはこの時でした。

皇太子(阿倍内親王)の教育係に任命されるなど重用されていた真備ですが、
藤原仲麻呂(706-764)が台頭すると勢力争いに敗れて、
750年に九州地方へ左遷されます。

751年、真備は遣唐副使に任命され、再び唐へ向かいました。
(この時、唐の官僚になっていた阿倍仲麻呂と再会しています)

753年に帰国した真備は
またもや九州の別地方に左遷されたりしていますが、
天皇と対立した藤原仲麻呂が乱を起こすと、その平定に手柄を立てて復権。
中納言・大納言を経て766年には右大臣となり「吉備大臣」と称されました。

《吉備大臣入唐絵巻》超人伝説も納得?

当時の日本で、地方豪族の出身者がここまで出世をするのは異例のことです。
また近世以前に学者から大臣にまで出世したのは
真備のほかにもう一人、菅原道真がいるだけ。
藤原氏との勢力争いに敗れて左遷先で没した道真に対して、
真備は2度唐に渡って無事に戻り、さらに左遷から返り咲いて、
老齢を理由に引退した後81歳で亡くなっています。

吉備真備が実際に活躍した時代から説話が記録されるまで、およそ400年。
超人・吉備大臣の伝説はその間に形作られたようですが、
現実の真備も(超能力者ではないにしても)かなり凄い人だったようです。


《吉備大臣入唐絵巻》いわく…「『文選』が読めない奴は超人でも駄目!」

絵巻の中で様々な超能力を披露する吉備大臣ですが、
こういった超能力が根本的な解決になることは滅多にありません。

姿を隠したり空を飛んだりできるなら
監禁された楼から脱出できそうなものですが、しません。
碁の勝負を決めた一手は「相手の隙を見て石を呑み込む」というもので、
超能力は不正のごまかしに使われます。

吉備大臣の勝利は、そのほとんどが
『文選』を講じているのを聞いただけで理解して書き写し、
(きっと文字も美しかったのでしょう…)
一夜漬けで覚えた囲碁で棋聖クラスの達人と互角の勝負を繰り広げる、
本人の知力と教養によるものでした。

恐らくこの話の肝は、
「超能力者だろうと中国の文化を身につけていない奴は駄目」
ということなのだと思います。
姿を消せても、空が飛べても、呑み込んだ碁石を下から出さないようにできても…
『文選』を読めず、囲碁のルールを知らないような輩は野蛮人であって、
文化を身につけている人間から見れば「取るに足らない格下」なのです。

中華たる我々の文化こそが至高である! という価値観を
世界スタンダードにまで押し上げてしまったのが中国の凄い所。
別の国であるはずの日本人にとっても、
その価値観の中にある文化で唐を上回ることだけが「勝利」の方法だったのです。

文化は超能力にも勝る力…そういう意味では、
2022年の「ボストン美術館展 芸術×力」で《吉備大臣入唐絵巻》が展示されたのは
これ以上ないほど相応しいチョイスだったと言えましょう。