《ひまわり》といえば、南フランスのアルルで描かれた
花瓶に活けたひまわりの連作7点が有名ですが、
フィンセント・ファン・ゴッホはこれ以前にもパリで
ひまわりの花だけを机に置いた4枚の静物画を描いています。
11枚の《ひまわり》をたずねて
この本の中で著者は
花瓶のひまわり(1~7)と机に置かれたひまわり(A~D)、
計11点を訪ねます。
(数字・アルファベットは著者の推測する制作時期の順で、この本の中での通称)
とはいっても《ひまわり》を見に行く旅行記ではありません。
美術館への問い合わせをすっかり忘れて旅に出た結果
ベルン美術館が所蔵する《ひまわりA》が外国に貸し出し中だったり、
そこで聞いた貸出先が間違っていて
すぐ近くに展示されていたのを知らずに通り過ぎてしまったりといった
エピソードも充実していますが、これは挿話のようなもので、
どちらかと言えばゴッホによる制作背景や、
その後の絵をめぐるエピソードに重きが置かれています。
SOMPOの《ひまわり》の価格とその影響
なかでもSOMPO美術館が所蔵する《ひまわり5》については
第7章「東京の〈ひまわり〉と贋作論争」、
第8章「東京の〈ひまわり〉と絵画の化学分析」の2つの章を使って、
来歴の謎から2000年代初頭におこなわれた鑑定結果まで細かく触れています。
《ひまわり5》は1987年3月、安田火災海上(現、損害保険ジャパン)に
2,475万ポンド(当時の為替レートで約53億円、手数料込みで58億円)で落札されて
日本にやってきました。
現在であればゴッホの代表作の値段として納得の金額ですが、
当時としては前代未聞・歴代最高の落札価格を記録しました。
むしろ現在につながる絵画の市場価格の高騰はこの取引をきっかけに始まり、
盗難被害が頻発するようになったそうです。
1988年の12月には《ひまわりD》も被害にあいました。
問題の中心となっている贋作論争も、この「歴史的」落札価格で
突然世界中から注目を集めたことをきっかけに始まったようです。
失われた《ひまわり》と武者小路実篤の白樺美術館
また現在見ることができない2作品についても
それぞれ1章を割いて、そこに至るまでの経緯を詳しく紹介しています。
1948年以降個人蔵であることは間違いないのに、その「個人」が特定できず、
展覧会で公開されてもいないため行方が知れない《ひまわり1》、
そして文学者の武者小路実篤をはじめとする
文芸・美術雑誌『白樺』の同人たちが計画した「白樺美術館」のために
実業家の山本顧彌太が購入し、1945年8月の神戸空襲で焼失した
《ひまわり2》(通称「芦屋のひまわり」)です。
《ひまわり2》は1920年に日本に到着しました。
武者小路たちはほかにも会員からの寄付などで資金を集め
ミレー、セザンヌなどの作品を購入していましたが、
1923年の関東大震災とその後の不況という状況で美術館構想は立ち消えになり
昭和の戦争で《ひまわり2》は失われます。
《ひまわり5》が日本にやってきたのは、
戦争が終わり復興を遂げた後のバブル時代のことでした。
《ひまわり》の影響力
もしも《ひまわり2》が焼けず、白樺美術館が実現していたら、
それ以降の《ひまわり》の物語も大分違ったものになっていたことでしょう。
安田火災海上が熾烈な競り合いを制して《ひまわり5》を購入したのは、
当時入館者数が伸び悩んでいた東郷青児美術館(現、SOMPO美術館)の目玉として
世界的な知名度のあるゴッホの作品がふさわしいと考えたからだそうです。
既に「ゴッホのひまわり」が日本にあった場合、
インパクトが弱いと考えて別の作品を探したかもしれません。
絵画の市場価格が突然跳ね上がって世界の注目を集めることもなく、
いくつかの絵画盗難事件は起こらなかったかもしれません。
本文中のエピソードを勝手につなぎ合わせた空想にすぎませんが、
11枚の《ひまわり》をめぐる物語を辿っていると
そんなことを考えずにはいられなくなります。
著者はフェルメールに興味を持ってオランダに通ううちに
同じオランダの画家であるゴッホにも惹かれるようになり、
いかにもジャーナリストらしく、
その周辺について調べずにはいられなくなったそうです。
小さなきっかけから興味をひかれ、
いつの間にかそれについて調べたり思いを巡らせたりするようになる。
これもまた、名画の影響力かもしれません。
まだそれほど興味がないし、見たこともないという人も、
すでに《ひまわり》を見ている、好んでいるという人も、
著者と共に11の《ひまわり》を訪ねることで
新しい疑問や発見があるのではないでしょうか。