日曜美術館「自然児、棟方志功〜師・柳宗悦との交流〜」(2020.07.26)

民衆の暮らしの中から生まれた美に注目し、
「民藝」という言葉を生み出した柳宗悦(やなぎ むねよし 1889-1961)と
版画家・棟方志功(むなかた しこう 1903-1975)の交流、
そこから生まれた作品を紹介します。
東京駒場の日本民藝館では、柳、そして河井寬次郎、濱田庄司という
棟方が師と仰いだ3人の人物とのつながりに注目した
「棟方志功 師との交感」が開催中です。

2020年7月26日の日曜美術館
「自然児、棟方志功〜師・柳宗悦との交流〜」

放送日時 7月26日(日) 午前9時~9時45分
再放送  8月 2日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

海外で数多くの賞に輝き、“世界のムナカタ” と呼ばれた版画家、棟方志功。昭和10年代、まだ全く無名だった棟方を見出し、大版画家に導いた人物がいる。民芸の美を提唱した柳宗悦である。自由な本能に従い、全身でぶつかるように彫る棟方を “自然児” と呼んで、その天才を開花させた柳。番組では、棟方志功の代表的な版画作品を、柳宗悦の文章とともに紹介しながら、柳と棟方、二人の25年にわたる魂の交流を描く。(日曜美術館ホームページより)

出演
杉山享司 (日本民藝館学芸部長)
石井頼子 (棟方志功研究家)

この時紹介された作品は3年後、東京国立近代美術館で開催された「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」でも多くが展示され、2023年10月8日の日曜美術館「棟方志功 板の生命を活かす」でも取り上げられました。
柳との交流を軸としたものとはまた違った切り口からの解説が楽しめます。


棟方志功と柳宗悦の出会い

《大和し美し》

柳が展覧会(国画展)で棟方の《大和し美し》(1936)を見たのは1936年のことでした。
「実に、前代未聞の作にぶつかったのだ」と感じ、
同年に設立する日本民藝館のために、250円(当時の金額)で購入したそうです。
以来25年にわたる師弟の交流は、この時から始まりました。

青森の刀鍛冶職人の息子として生まれ、1924年に上京した棟方は、
ゴッホのような油彩画家をめざして帝展などに作品を出品していました。
29歳で版画家としての道を選びましたが、
柳と会ったころは経済的にかなり苦しかったそうです。
《大和し美し》は、詩人の佐藤一英が1933年に発表した
同名の詩に感銘を受けて3年がかりで完成したもの。
柳に評価された棟方は、かぶりつくようにして喜んだそうです。

その後完成した日本民藝館をはじめて訪れた棟方は、
部屋の正面に飾ってあった大鉢(鉄絵緑彩松文大鉢)に目を奪われ、
柳からそれが「君のお父さんと同じ」職人の仕事であることを聞かされます。

棟方の研究者で棟方の孫でもある石井頼子さんによると、
棟方の中には職人の父親を尊敬する気持ちと、
それとは相反する「職人じゃ仕方がない」「偉い芸術家でなければいけない」
という気持ちがあたそうです。
その父親が「偉い先生」である柳に高く評価されたことは
棟方にとって本当に嬉しいことだったろう、と石井さんは話しています。

もちろん民藝運動を主導した柳にとっては、
職人の仕事こそ評価するべきものでした。
棟方の作品についても、「体全体で仕事をすることを知っている」
職人の子だからこそ描けるものだと言っています。


棟方志功の仏教作品と柳宗悦のかかわり

《華厳譜》《東北経鬼門譜》《二菩薩釈迦十大弟子》

柳や日本民藝館のメンバーとの交流から、
棟方は仏教をテーマにした大作に挑戦するようになります。
初期の作品《華厳譜》(1936)は、華厳経の世界を23図で表現したもので、
毘盧遮那仏を中心として、他の図が対になるように作られた意欲的な物でしたが、
柳は《薬師如来》などの5点が気に入らず、彫り直しをすすめました。
その結果、たとえば《薬師如来》は《大日如来》と対になっていた構図から
まったく違ったものになりましたが、
柳に「絶対的な信頼感」(石井)をもっていた棟方は喜んで応じたといいます。

翌年発表した《東北経鬼門譜》(1937)も、厳しい評価を受けた作品です。
120枚の版画をつないだ6曲1双(6枚つづりの屏風が左右1対となった形)の屏風は
当時凶作に見舞われていた故郷の東北に奉げられたもので、
「日本の美の世界に板画としての美の柵を立てよう」とも思っていた大作でしたが、
柳はその意気込みは認めるものの
「板画としてもっとも成功しているのは、左右両端の黒子の人物である」と言って、
自分が気に入った部分3か所だけを別刷りで掛軸に仕立てたそうです。
(これ以来、黒い体の人物像は棟方作品の代表的な存在になりました)

「言う人も言う人ですし、それに対応する棟方も、どちらもすごいなって思います」
と石井さんは言います。

棟方作品によくみられる裏彩色(紙の裏から色を差して表面ににじませる技法)も、
柳の助言で取り入れられました。
それまでの棟方は板画の美しさは白と黒の対比にあるという考えでしたが、
観音菩薩の33の姿をあらわした《観音経曼荼羅》(1938)で赤い色が加わってから
現在のわたしたちにはお馴染みの
ほんのりした色づかいが多用されるようになったそうです。

柳は厳しいばかりではなく、助言やはげましを惜しまない師でもあったようです。
《僧(伝教大師像)》(1938)を制作中だった棟方が
東京国立博物館で見かけた興福寺(奈良)の《須菩提像》に
ショックを受けて、手紙(1938.1.12付)に
「自分の惨めさをはだかにされて正月早々泣きました」と書いた時は、
「君自身、君からもっと自由に迸り出る作を」とはげまし、
棟方はこのことをきっかけに代表作のひとつである
《二菩薩釈迦十大弟子》(1939)を制作したと言います。

この作品は後に1955年の第3回サンパウロ・ビエンナーレで版画部門最高賞、さらに
1956年の第28回ヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリの国際版画大賞を受賞し、
棟方は「世界のムナカタ」として脚光を浴びることになります。


棟方志功と柳宗悦の共鳴

《鐘渓頌》《茶韻十二ヶ月板画柵》《心偈頌》《再誕の柵》

1945年、棟方は一家で富山県の福光町に疎開しました。
同年7月に柳が福光町を訪ね、2晩ほど滞在したそうです。
疎開先で制作され、戦後すぐ仕上げられた《鐘渓頌》(1945)も、
その時に話くらいは出ていたかもしれません。(勝手な想像ですが)

黒い体の人物と白い体の人物がそれぞれ赤(代赭)と青(群青)に彩色された板画に、
柳は代赭には茶、群青には青の表装をほどこして市松模様の屏風に仕立てました。
それぞれの色に対応した表装が板画を引き立てるデザインは
「2人のコラボレーション」であり、
「心の通い合った共鳴している世界」だと杉山享司さんは言っています。

《鐘渓頌》全24図にあらわされた人物のうち、半分ほどが裸婦の姿です。
体が黒かったり花柄に覆われていたりするので分かり難いのですが、
よく見ると裸体の輪郭線やヘソ、乳首があります。
戦時中「これからは裸婦を描いていこう」と決意した棟方は、神仏や自然など
なにか大きなもの、計り知れないようなものを女体の形であらわしました。

また柳は《茶韻十二ヶ月板画柵》(1956)のうち
長方形の画面一杯に文様化されたキリストの姿を描く《基督の柵》を
「今までの作から一枚選ぶならこれ」というほど気に入り、
裏彩色をほどこしたものには紺色の地に金色の線が放射状に伸びている表装を、
同じ板画をモノクロで刷ったものには橙に近い褐色の地に
薄い鼠色の十字を描いた表装を仕立てています。

晩年の柳がリウマチや心臓の持病を抱えて闘病生活を送ることになったとき、
棟方は柳の詠んだ短い歌(心偈)に絵を添えた《心偈頌》(1957)を制作し贈りました。
柳は「君の作で今度のほど静かな名作はない」(1957.6.30付書簡)と称賛し、
それに対して棟方は
「わたくしも大いに大いに先醒(生)と共に話合ってゐるつもりでつづけたいです」(1957.7.3付書簡)
と答えています。
この4年後に柳が亡くなり、7回忌に霊前に捧げられた作品が、
白い輪郭に縁どられた黒い体の裸婦が赤ん坊を取り囲んでいる
《再誕の柵》(1962板 1967招)でした。
これらの作品もまた、優れた美術家と版画家によるコラボレーションと言えるでしょう。


日本民藝館
併設展 棟方志功 師との交感(本館1階)

同時開催
特別展 洋風画と泥絵 異国文化から生れた「工芸的絵画」
併設展 朝鮮の焼物 (本館2階)

東京都目黒区駒場4-3-33

2020年6月9日(火)~9月6日(日)

月曜休館 (祝日の場合は開館し翌日休館)

10時~17時 (入場は閉館の30分前まで)

一般 1,100円 大高生 600円 中小生 200円

入館予約実施中(2020年7月19日(日)~9月6日(日)の期間のみ)

公式ホームページ