大給湛子(朝香宮湛子女王)とは? ― 朝香宮邸最後の女主人を知るための3冊の本

朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館本館)の住人といえば、まずこの邸宅の建設を計画した鳩彦王と允子妃の名前があがりますが、夫妻は2人で暮らしていたわけではありません。
特に次女の湛子女王(結婚後は大給湛子)は、夫妻の子どもの中では最も長くこの館で暮らし、邸宅の歴史と切り離すことのできない人物と言えます。
ここでは湛子女王について、そして湛子女王を知るための入門書3冊を紹介します。

大給湛子(朝香宮湛子女王)はどんな人?

朝香宮家の家族

朝香宮鳩彦(あさかのみややすひこ)王(1887−1981)と允子(のぶこ)妃(1891−1933)の間には、4人の子どもがいました。

上から順に、
長女の紀久子(きくこ)女王 (1911−1989。1931年に結婚して鍋島紀久子)
長男の孚彦(たかひこ)王 (1912−1994。皇籍離脱後は朝香孚彦)
次男の正彦(ただひこ)王 (1914−1944。1936年に臣籍降下して音羽正彦侯爵)
次女の湛子(きよこ)女王 (1919−2019。1941年に結婚して大給湛子)
です。

朝香宮家は明治になってから創設された新しい宮家なので、鳩彦王が初代になります。
(鳩彦王の父は、室町時代に成立した伏見宮家出身の久邇宮朝彦親王)
ちなみに「王」「女王」は宮家に生まれた人々の呼称で、時の天皇の子女は男性が「親王」女性は「内親王」と呼ばれます。
(江戸以前は天皇の許しを受けた皇族が「親王/内親王」を許されました)
たとえば明治天皇の第8皇女にあたる允子妃は「富美宮(允子)内親王」でした。

さて、1933年に朝香宮家の邸宅として白金台に建てられた建てられた朝香宮邸。
ここで両親と4人の兄弟姉妹が暮らしていたのかと言えばそんなことはなく、まず長女の紀久子女王は2年前の1931年に鍋島侯爵家に嫁いでいました。
長男の孚彦王・次男の正彦王は陸軍士官学校と海軍兵学校の学生で家にはほとんど帰らず、その後は結婚して別に家を構えます。

庭園美術館の本館に「若宮」の部屋(居間・合の間・寝室)と「姫宮」の部屋(居間・寝室)がそれぞれ1つしかないのが不思議だったのですが、もともと必要なかったようです。 さらに5月の竣工からおよそ半年後の1933年11月に允子妃が腎臓の病気で亡くなり、朝香宮邸の住人は鳩彦王と湛子女王の2人になりました。

大給湛子(朝香宮湛子女王)のこと

湛子女王は第1次世界大戦が終結した1919年の8月2日生まれ。
允子妃が亡くなった時点では14歳でした。
いまの感覚なら中学生くらいの年齢で、軍の仕事で忙しい父に代わり留守宅を取り仕切る女主人になったわけです。
朝香宮邸には通いと住み込みを合わせて30人以上の使用人がおり、もちろん使用人をまとめる立場の人もいたでしょうが…なかなか大変な立場だったと思います。 当時は外国の大使・公使の接待が各宮家に割り当てられていて(朝香宮家はポーランド担当)朝香宮邸は外国からのお客様を迎えて社交を行う公邸でもありました。
湛子女王も、15歳の時には姉夫妻や周囲の人の助けを借りながらパーティーのホステスを務めたそうです。
プライベートでも、女子学習院本科を卒業した後は自宅に先生を招いて、茶道や華道、和歌に習字、フランス語、ピアノ、洋裁、編み物、料理などなど、土日を除いてお稽古事尽くめの忙しい日々でした。

湛子女王は1941年11月7日に3歳年上の大給義龍伯爵と結婚して皇籍を離れます。
夫の義龍氏は松平氏の分家である大給家(徳川宗家の4代目・松平親忠の次男乗元が祖)の養子で、もとは尾張徳川家の3男でした。
そして披露宴は同年の12月8日…日米開戦の当日です。
披露宴の準備中にラジオが開戦を伝えたのをはじめ、軍の関係者が多かった出席者は次々と中座し、当時陸軍中尉だった新郎にも帰隊命令が出る、忙しい式だったようです。

大給家は戦後の華族制度廃止(1947年5月3日)で民間人となります。
湛子夫人も働くことになり、学習院時代の同級生の縁で町田学園(後に品川エトワール女子高等学校。現在の藤華学院)の教員として60歳まで勤めたそうです。
大給湛子氏は2019年8月1日、100歳の誕生日の1日前に亡くなりました。

大給湛子を知るための本3冊

現在の旧朝香宮邸は「住居」というより「建築の芸術品」のように感じられることがありますが、朝香宮ご一家はどのような生活を送っていたのでしょうか?
ここでは宮家の生活の様子や住人の人となりなどを知る手掛かりとして、朝香宮邸と呼ばれていたころの庭園美術館、そして最後の女主人だった大給湛子に関する本から、現在手に入りやすい入門書を紹介します。

『素顔の宮家 ― 私が見たもうひとつの秘史』PHP研究所、2009

大給湛子(湛子女王)による回想録。
幼少期から戦後まで、家族のことを中心に書かれています。
朝香宮家の家族とその暮らしについては特に多くのページがあてられ、鳩彦王と允子妃のこと、白金の前に住んでいた高輪の御用邸について、フランス滞在、帰国後のことなどが娘の視点で綴られます。

ちなみに第1章のタイトルは「開戦当日の披露宴」。
ご本人にとってもインパクトの強い出来事だったことがうかがわれます。

現代の一般人から見ると不可思議に見える宮家のエピソードなどもありますが、ここに書かれている朝香宮家の人々はごく普通の中の良い家族です。
(もちろん立場と財産は人並み以上なのですが…)
著者も本文の最後に「母の姉妹や親族、私の家族は、民間の人と変わらない情愛で結ばれていたと、私は思っています。ただ、その姿は厚いベールで隠れていただけのことでした。」と書いています。

現在は紙の書籍は手に入りにくいようですが、電子版が発行されています。

北風倚子『朝香宮家に生まれて ― 侯爵夫人・鍋島紀久子が見た激動の時代』PHP研究所、2008

『素顔の宮家』を読むなら、こちらも合わせて読むと面白い発見があるのではないでしょうか。

こちらの著者は鍋島紀久子(紀久子女王)の長女で、大給湛子(ここでは「大給の叔母」)の姪にあたります。
タイトルの通りほとんど「鍋島紀久子侯爵夫人」の伝記ですが、実家として頻繁に訪れていた朝香宮家のエピソードも豊富です。

たとえば娘の視点では厳しく怒りっぽい人だったという鳩彦王が孫には甘いおじいちゃまで、著者いわく「私は祖父に叱られた記憶はない」…など、同じ人や物事の別の側面を見ることができます。

東京都庭園美術館協力『庭園美術館へようこそ ― 旧朝香宮邸をめぐる6つの物語』河出書房、2014

6人の文筆家やアーティストが、それぞれの手法で、かつての邸宅の姿やそこにいた人々の営みを再現しています。

この本が出版されたのは2014年11月30日。
2011年から始まった改修工事・管理棟新設工事を経ての一部再開(2014年11月。全面再開は2018年3月)にあわせたリニューアル記念の刊行でした。

  1. 朝吹真理子「かわらないもの」
    美術館の内覧ツアーに参加した著者が、建物の成り立ちから庭園美術館の歴史を振り返る。
  2. 福田里香「母と娘の、たてもの と たべもの」
    朝香宮家の次女・湛子女王(のちに大給湛子)の著書を引きながら、食に関するエピソードを中心に女子目線で 朝香宮邸を 読み解く。
  3. 小林エリカ「はじまり」
     世界史・日本史・そして朝香宮邸の私的な歴史とを織りまぜて、朝香宮邸の「はじまり」がどこにあるのかを探る。
  4. ほしよりこ「デジュネのまえに」(漫画)
    「きく子さん」と「きよ子さん」の姉妹が、レコードの音に導かれて館の中にあるもう一つの世界を探検する。
    (実際の紀久子女王は邸の完成前に嫁いでいましたが、よく「里帰り」していたそうです)
  5. mamoru「そして、すべては残響する」
    庭にある老木の来歴を追っていくことで、老木がたどった土地の歴史を再現する。
  6. 阿部海太郎「ピアノのための小組曲《三つの装飾》」(楽譜)
    「Ⅰ.香水塔」「Ⅱ.モザイク模様の昼下がり」「Ⅲ.楕円形の食卓」からなる邸内の装飾をテーマにした楽曲。

東京都庭園美術館編『旧朝香宮邸物語 ― 東京都庭園美術館はどこから来たのか』アートダイバー、2018

東京都庭園美術館ニュースの連載記事「旧朝香宮邸の歴史を訪ねて」(2000年7月~2011年9月)に、新たな執筆者による書下ろしを加えた単行本。
朝香宮家のはじまりから近年の東京都庭園美術館の活動まで、年代順に全5章の構成です。

朝香宮邸時代や当時の住人については主に第1章の「朝香宮家の人と暮らし 1906-1947」で語られ、この章だけで朝香宮家の始まりから戦後の皇籍離脱までの流れがわかります。

【インタヴュー】大給湛子(朝香宮鳩彦殿下第二女子)に聞く「朝香宮邸の日々」
【コラム】元侍女の回想 ―「御候所」
の2篇も収録され、当時を知る人の貴重な証言を読むことができます。