日曜美術館「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」(2020.08.09)

長崎に原爆が落ちた日からちょうど75年目の日曜美術館は、
戦争で画家への道を閉ざされた学生たちの作品を収集展示する
長野県上田市の「無言館」でした。
現在も、遺族が守ってきた作品を受け継ぎ
次に伝えていくための作業が続けられています

2020年8月9日の日曜美術館
「無言館の扉 語り続ける戦没画学生」

放送日時 8月 9日(日) 午前9時~9時45分
再放送  8月18日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

700点を超える戦没画学生の遺作を所蔵する『無言館』。館長窪島誠一郎(78)が収集をはじめたのは、戦争の記憶の風化が叫ばれた戦後50年1995年のことだった。半世紀の時を越え、若き画家たちの作品と出会った瞬間の衝撃。そこには50年の歳月の重みがあった。絵の中に込められた “熱き思い” と半世紀という時間の中で確実に劣化していく絵の運命。そのリアルを伝えるか。修復家山領まりと窪島誠一郎の戦いを見つめる。(日曜美術館ホームページより)

出演
窪島誠一郎 (無言館館長)
山領 まり (アトリエ山領)
中右恵理子
西原 紀恵
有田 貴美
工藤 正明


野見山暁治と窪島誠一郎 無言館のはじまり

無言館を初めて訪ねた小野さんが「教会みたいですね」という建物は、
確かに教会を思わせるとがった屋根の建物でした。
中の薄暗くて静かな雰囲気も、そう思わせるのかもしれません。

「戦没画学生達は反戦のために絵を描いていたわけではない」という考えのもと
戦争をテーマにした作品や反戦のメッセージのある作品はありませんが、
ケースの中には生前の写真や手紙などの資料も展示されているようです。
(作者は出征した先で亡くなった方もいれば、復員後に亡くなった方もいます)

この美術館がつくられたのは、洋画家の野見山暁治さんの提案でした。
1938年に東京美術学校に入学した野見山さんは
終戦前に病気で帰国したことで死を免れますが、
そのことで「大きな忘れ物」をしたと考えていたそうです。

館長の窪島誠一郎さんは夭折した画家の作品をあつめる
信濃デッサン館(2018年閉館。「KAITA EPITAPH 残照館」として2020年再開)を
開いていた時、野見山さんから
戦争で死ななければ才能を発揮していたに違いない仲間たちの絵が
消えてしまうことへの危惧と残念さを聞かされました。
「絵描きは絵さえ残ればまだ死んでいない」という言葉に共感し、
戦争で亡くなった画学生の作品を探して収集したそうです。
そして1997年5月2日に「戦没画学生慰霊美術館 無言館」が開館しました。


無言館の収蔵品

画学生たちが描いた作品は、大切な人や家族の姿を描いたものが多いようです。

可愛がってくれた祖母を描いた蜂谷清《祖母の像》、
4つ違いの妹和子と里芋の葉を描いた太田章《和子の像》、
周囲の反対を押し切って結婚した妻の姿を描く佐久間修の《静子像》など。

居間で団らんする家族と彼らを描く作者自身の姿もある伊澤洋《家族》は、
実際の家よりも裕福に描かれているそうです。

無言館では現在も寄贈品の受け入れが続いています。
原昌子さんが寄贈したのは、2歳で出征した父親(原藤雄)が描いた自画像や
奥さんの肖像など人物画3点。
手元に残しておいた作品ですが、先のことを考えて
「お仲間の中に置いていただく方が幸せかな」と決断したそうです。
立派な巻紙に記された家族への手紙も添えられていました。
最後の方に「昌子ちゃんへ」で始まる
当時2歳だった原さんへのメッセージもありました。

窪島さんは原さんのような作品を守ってきた遺族を駅伝でいう「第1走者」
自身を「第2走者」にたとえています。
戦争の終わりから無言館ができるまでおよそ50年。
その後第2走者の窪島さんが走り始めて25年。
さらに第3走者、第4走者とつながていくビジョンが
窪島さんには見えているのかもしれません。

受け入れられた作品で展示しきれないもの、また修復が必要なものは
収蔵庫「時の倉」に保管されます。(こちらは非公開)
ここは専門家の手になる本格的な収蔵庫で、
現在およそ600点(資料を含む)が収蔵されているそうです。


アトリエ山領の修復

東京都武蔵野市にあるアトリエ山領では、
無言館に寄贈された作品の修復を毎年10点以上手がけています。
2020年7月26日に亡くなった山領まりさんは、
無言館を支えた中心人物であると同時に日本における絵画修復の先駆者でもありました。
(取材は2020年1月)

遺族のもとにあった作品が保存に適した環境に置かれることは稀ですから、
その多くは表面に剥落や亀裂ができてしまいます。
その損傷をどのように直すか、山領さんたちは試行錯誤を重ねたそうです。

たとえば、最初期に手がけられた興梠武の《編みものする婦人》。
調査票の写真を見ると、あちこちが浮き上がり、
既に剥がれ落ちた部分も目立っていました。
最初の修復で元の状態に近づけるために
似た色を作って剥落した部分を埋めてみたところ、
「ものすごくわざとらしくて」邪魔なものを入れてしまったように見えたため、
いちど取り除いて欠損した部分をそのままに、
これ以上の剥落がないようにしました。

無言館の入り口を入ってすぐの場所に飾られている
大貝彌太郎の《飛行兵立像》は、丸められた状態で長年保管されていた結果
特別に損傷が激しい「重症患者」だったそうです。
もとは写実的な作品だったようですが、
現在は白い部分が圧倒的に多く、抽象画のように見えました。

損傷を経てきた時間として尊重し、
出来る限り遺族から手渡された状態をとどめる方針です。


画学生たちの青春

取材時に修復が終わったばかりだった中村萬平の裸婦像《霜子》は
中心に折りたたまれた跡が残っていてキャンバスが裂けそうになっており、
裏から糸を貼る補強が必要でした。
モデルは後に中村の奥さんになった人で、
中村が満州に出征したあと長男を産んですぐ亡くなりました。
中村の戦死はその1年後だそうです。

現在《霜子》のちょうど向かい側に展示されている日高安典の《裸婦像》。
モデルだった女性は美術学校でモデルのアルバイトをしていた人です。
無言館が開館して2年目に来館者用の「感想ノート」に
当時のこと、《裸婦像》を描いた時のこと、日高の真摯な態度などについて
メッセージを遺してくれたそうです。
作者の日高は出征後上官から特別に許可をえて
軍務のかたわら《ホロンバイル高原》などの絵を描いていました。

当時の、今の若者と変わらない青春を送り、その中で絵を描いただろう画学生たちを
「ただ単に戦争犠牲者という館に押し込めといて」正しく遇していると言えるのか、と
窪島さんは問いかけます。


戦没画学生慰霊美術館 無言館

長野県上田市古安曽字山王山3462

火曜休館

9時~17時

一般 1,000円
高・大学生・障がい者 800円
小・中学生 100円

二展示館に併設の「オリーヴの読書館」「絵本のあるれすとらん」は入場無料
KAITA EPITAPH 残照館は土日月のみ営業、入館料は無料

公式ホームページ