上村松園の重要文化財《母子》―『青眉抄・青眉抄その後』の表紙を飾る、「母と父をかねた」人への追慕

上村松園の作品には、母親の姿を描いた作品群があり、東京国立近代美術館が所蔵する重要文化財《母子》もそのひとつです。
松園が「私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。」と語った母・仲子の亡くなった年に描かれた《母子》は、母への追慕を形にしたものと言われています。

上村松園《母子》(重要文化財)1934

額装 168×115.5cm 絹本彩色
東京国立近代美術館所蔵
2011年6月に重要文化財指定
国指定文化財等データベース」に詳細があります。

絵の中心は赤ん坊を抱いた若い母親。
(お歯黒と青く剃り上げた眉で、既婚の子どもを産んだ夫人だとわかる)
腕の中の赤ん坊はこちらに背中を向けて指をしゃぶっているようです。
背後には花鳥や雷文を描いた簾(すだれ)が下がっているので、季節は夏でしょうか。
2人の着物も母親が薄い青の縞、赤ん坊が薄い黄色に扇を散らした柄と、いかにも涼しげです。
母親は松園の息子・上村松篁の妻たね、そして赤ん坊は松篁とたねの息子の上村敦(当時1歳)がモデルだと言われています。

なお2023年5月現在、重要文化財に指定されている近代作品のうち女性の作品は松園の《母子》と《序の舞》(1936。2000年6月に重要文化財指定)のみです。
この理由としては近代の美術が男性を中心に回っていたこと(制作・消費ともに)、女性が画業に打ち込むことが困難な時代・社会的背景などが考えられます。
重要文化財の選定基準は時代ごとの人々の嗜好や社会状況の変化に左右されるため、近い将来近現代の女性作家の作品から新たな重要文化財が生まれるかもしれません。

上村松園によるもうひとつの重要文化財《序の舞》については、こちらの記事もどうぞ。
上村松園《序の舞》― 東京藝大が所蔵する美人画の最高傑作


上村松園が生まれ育った京都・四条通の風俗

「母親と子ども」という主題は絵画の世界で非常にポピュラーですから、これも最初から母子像として構想されたのかと思いきや、制作のきっかけになったのは背景にある簾の方なんだそうです。

母子

祇園祭りの時でしたでしょうか、ずっとずっと昔のことです。中京の大きなお店に、美しい、はん竹の簾(すだれ)がかかっておりました。その簾には、花鳥の絵が実に麗しく、彩色してありましたので、頭にはっきり残りました。
ある年、あの簾を配して何か人物を描いてみようと思いつきました。いろいろの人物をあの記憶の簾の前に立たせて見て、もっとも心に適ったのが母子(おやこ)の姿でした。これが、昭和九年、帝展出品の《母子》になったのでございます。

「画筆に生きる五十年」『青眉抄その後』
初出は『婦人の友』1937年10・11月号
青空文庫

明治初めの京都に生まれ育った松園は随筆の中でもしばしば当時の風俗を懐かしみ、古いものが失われていくこと、特に女性の服装・化粧・髪型などが近代化していくことを嘆いています。

そうした町中の店先などに見る人たちの風にも、あの頃はどちらかというと、江戸時代の面影が半ば残っていて一入なつかしいものがあった。
先年(昭和9年)帝展に出した《母子》は、あの頃への思い出を描いたものであるが、言わば、わたくしひとりの胸の奥に残された懐かしい思い出なのである。
ああした一連の風俗画は、わたくしひとりに描くことをゆるされた世界のような気がする。

「四条通附近」『青眉抄』
青空文庫

親子愛だけではなく、古き良き時代への回顧だけでもない。
母子の姿と過去への追憶という普遍的なテーマが重なり合ったことで、この作品の奥行きが生まれたのでしょうか。


上村松園と「青眉(せいび・あおまゆ)」の思い出

着る物やその着こなし、髪型、化粧の仕方でどういった立場の人か見分けがついた時代の女性風俗を巧みに描いた松園は眉を描くのにも並々ならぬ思いがありました。

美人画を描く上でも、いちばんむつかしいのはこの眉であろう。
口元や鼻目ことに眉となるとすこしでも描きそこなうと、とんだことになるものである。

「眉の記」『青眉抄』
青空文庫

現代では「眉毛の処理に失敗した」と見られるかもしれない「青眉」は松園が生まれ育った時代には当たり前の風俗で、明治以降に消えていったもののひとつでした。
松園はもちろん青眉そのものの魅力についても一家言ありましたが、青眉に対する思い入れは自身の母親の思い出からも影響を受けていたようです。

青眉というのは嫁入りして子供が出来ると、必ず眉を剃り落としてそうしたものである。
これは秀でた美しい眉とまた違った風情を添えるものである。
結婚して子供が出来ると青眉になるなどは、如何にも日本的で奥ゆかしく聖なる眉と呼びたいものである。
(略)
私は幼い頃のいちばんものごとの記憶のしみ込む時代に母の青眉をみて暮らしていた故か、その後青眉の婦人を描くときには必ず記憶の中の母の青眉を描いた。
私のいままで描いた絵の青眉の女の眉は全部これ母の青眉であるといってよい。青眉の中には私の美しい夢が宿っている。

「眉の記」(同上)

松園の母・仲子は、画家・上村松園の最大の理解者であり、支援者でもありました。


上村松園が『青眉抄』に綴った母への思慕

上村松園の母 ―「母と父をかねた」人

上村松園の父は松園が生まれる2か月ほど前に亡くなり、母の仲子は夫のはじめた葉茶屋を引き継いで繁盛させ、2人の娘(松園と4つ年上の姉)を育てました。
商売上手で書画の心得もあり、今でいう店の看板やお茶のラベルも自ら筆を振るったとか。

松園の画学校入学の際、親類や知人がこぞって「女が絵の学校に入るなんて」と責めた時も松園の味方をして好きな道に進ませたと言いますから、相当しっかりした意志の強い人だったようです。
この時反対した人たちも意地悪で行ったわけではなく「女の子はお針や茶の湯など、嫁入りに箔がつくものを習うべき」という「常識的」な意見だったようですが、仲子がそれに従っていたら松園という画家は生まれていなかったことでしょう。

父の顔を知らない私には、母は「母と父をかねた」両親であった。
(略)
あのとき親類の言うとおりにしていたら、私など今頃、このようにして絵三昧の境地にいられたかどうか判らない。
(略)
私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと闘えたのであった。
私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。
(略)
私の制作のうち「母性」を扱ったものがかなりあるが、どれもこれも、母への追慕から描いたものばかりである。

「母への追慕」『青眉抄』
青空文庫

松園が画家として一人立ちできるようになると仲子は店を畳み、松園が仕事に打ち込めるように家の中を取り仕切るようになります。
松園の息子である松篁もほとんど仲子の手で育てられ、常に二階の画室にこもっていた松園のことは「二階のお母さん」と呼んでいたそうです。

仲子は孫の松篁が結婚する直前に脳溢血に倒れ、7年後の1934年に亡くなりました。
仲子の死後に描かれた《母子》と《青眉》(どちらも1934年)をはじめ、母を描いた松園の作品が増えるのはこの後のことだそうです。

《青眉》は公益財団法人吉野石膏美術振興財団の所蔵で、ホームページの「吉野石膏コレクション」から画像検索ができます。


上村松園の随筆『青眉抄』と《母子》


松園の随筆集『青眉抄』は1943年に六合書院から上梓されました。
(内容は松園の語りから文章に起こされたもので、インタビュー集に近いかもしれません)
この中には上で引用した「眉の記」「母への追慕」など母・仲子への思いを綴った文章が多く見られ、この本がきっかけとなって松園を献身的に支えた強く優しい母のイメージが作品とあわせて広まったようです。

『青眉抄』はその後も三彩社(1972。1990に新装版)、講談社文庫(1977)から出版されています。
1986年には雑誌などに発表された文章を集めた『青眉抄その後』が求龍堂から刊行され、同じく求龍堂の復刻版『青眉抄』(1995)と合本した『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』が2010年に刊行されました。
この『青眉抄・青眉抄その後』の表紙には青眉の女性を描いた《母子》が採用されています。
作品そのものを表紙に取り上げているものは案外少なく、『青眉抄・青眉抄その後』以外には講談社文庫の表紙に二階堂美術館所蔵の《雪中美人》(1946)が使われているのみ。
(《雪中美人》は眉も生え揃っていて《母子》の母親と比べるとだいぶ若く見えます)
他は草花の絵などが多く、書籍装丁の好みの変遷を感じます。

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