マリー・ローランサンとココ・シャネル ― 《マドモアゼル・シャネルの肖像》をめぐるエピソード

2つの世界大戦にはさまれた1920年代のフランス・パリで強い個性を放った人々の中に、
画家のマリー・ローランサンと、ファッションデザイナーのココ・シャネルがいました。
2人の生誕140周年にあたる2023年を記念する「マリー・ローランサンとモード」展には、
ローランサンが描いたシャネルの肖像画も来日します。

1920年代は、それまでの社会のあり方が大きく変わって
女性の社会進出も進んだ時代です。
ローランサンとシャネルは、そんな時代に成功を収めた新しい女性でした。

マリー・ローランサン(1883-1956)

マリー・ローランサンが画家を目指すまで

画家のマリー・ローランサンは、1883年のパリで
ポーリーヌ・メラニー・ローランサンの婚外子として生まれました。
父親は他に正式な家庭がありましたが、
ローランサン母子の生活は援助していたようです。

良家の子女が通う学校に通ったローランサンは、
18歳頃から画家になることを希望するようになります。
母が希望した女子高等師範学校への入学準備をやめて、
国立セーブル製陶所の絵付け講習に通い、
パリ私立の学校でデッサンを学びます。
そして1904年、私立アンベール画塾で本格的に絵画を学びはじめました。
生涯の友人となる画商で作家のアンリ=ピエール・ロシェと出会ったのもこの頃です。


マリー・ローランサン 洗濯船の頃

アンベール画塾には後にパブロ・ピカソ(1881-1973)と並んでキュビスムの第一人者となる
ジョルジュ・ブラック(1882-1963)がいて、
新しい芸術運動に関心を持っていたローランサンは
彼の影響でキュビストの仲間に加わるようになります。
ローランサンの初期作品には古典的で写実的なものやキュビスムの要素が強いものなど、
いわゆる「ローランサンらしい」絵からかけ離れたものが多くあります。

ローランサンは1907年頃から、前衛的な芸術家たちが集まる集合アトリエ
「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」に出入りするようになります。
互いの作品に大きな影響を与えあった
詩人のギヨーム・アポリネール(1880-1918)と出会い恋愛関係になったのも、
洗濯船で開かれたピカソの個展に出かけたのがきっかけでした。
ピカソはアポリネールに「君のフィアンセに出会ったよ……」と言って
ローランサンを紹介したそうです。
アポリネールとの仲は1912年に破局しますが、その後も友人関係は続きました。

ローランサンの作品は1910年頃からキュビスム特有の暗い色を離れて
明るいグレー・ピンク・青・緑などが多く使われるようになり、
やがて抒情的な女性像をはじめとするローランサン独自の世界が描かれるようになります。


ドイツ貴族との結婚と破局

新進の画家として順調に歩みを進めていたローランサンでしたが、
私生活では1912年にアポリネールと別れ、
翌1913年に母のポーリーヌを亡くしました。
そんな時、ロシェの紹介でドイツ人のオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と出会い、
1914年の6月22日に結婚します。
そして新婚旅行を楽しんでいた同年7月28日に、
第1次世界大戦が勃発しました。

ドイツとフランスが開戦すると、
結婚でドイツ国籍となったローランサンはフランスにいられなくなりました。
また夫のフォン・ヴェッチェンはドイツに帰国すると出征しなければないため、
2人は新婚旅行先のアルカション(ボルドー近郊の町)から
中立国のスペインに亡命します。
終戦後の1919年にドイツに移住しますが、
戦争中にアルコール依存となったフォン・ヴェッチェンとは1921年に離婚。
ローランサンはひとりでパリに戻ります。
フランスに残していた全財産は戦時中に敵国財産として没収されており、
1からのスタートでした。


マリー・ローランサンの1920年代から30年代

1920年代から30年代にかけては、ローランサンが画家として精力的に活動した時代です。
フランスに帰国した年に開かれた戦後初の個展は大成功をおさめ、
1923年頃からは上流階級の女性たちに人気の肖像画家として社交界にも進出しました。
女性の立場が強くなったこの時代に、
ローランサンは女性がほしがる女性像を描ける画家だったのです。

1929年に世界恐慌がはじまったことで世界中に不安な空気が漂い始めた頃、
ローランサンも華やかな世界から距離を置いて、制作に打ち込むようになりました。
1937年には長年の功績が評価され、
フランスの最高位勲章であるレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を受賞しています。

第2次世界大戦以後のローランサン

1939年9月3日に第2次世界大戦がはじまり、
開戦の翌年にフランスはドイツに占領されました。
ローランサンも1944年に自宅の高級アパルトマンを占領ドイツ軍に接収され、
友人の持ち家に仮住まいしながら制作をつづけました。
戦後に返還訴訟を起こし、1955年に自宅に戻ることができたローランサンは、
養女に迎えた家政婦のシュザンヌ・モロー=ローランサンに世話をされ
73歳で亡くなるまでこの家で暮らしています。


ココ・シャネル(1883-1971)

ガブリエル・シャネルがココ・シャネルになるまで

ココ・シャネルの出生名は、ガブリエル・シャネルといいます。
1883年、5人の兄弟姉妹の次女として、ロワール県の町ソーミュールに誕生しました。
シャネルが12歳の時に母親が亡くなり、
行商人だった父親はシャネルと姉をコレーズ県のオーバジーヌにある孤児院に預けました。
この時、妹は親戚の家に、弟たちは農家の養子に出されています。

17歳の時、シャネルは姉妹と一緒にムーランの寄宿舎に送られ、
やがて寄宿舎を出て洋裁店で働くようになります
その一方でカフェ・コンセール(歌が楽しめる酒場)の歌手としてデビューし、
この頃の持ち歌から「ココ」という愛称が付きました。
(シャネル本人は、父親がつけたあだ名だと言っていたそうです)

シャネルの最初の店のパトロンになったエチエンヌ・バルサンは、
歌手時代のシャネルの取り巻きのひとりでした。


デザイナー・シャネルの出発

1908年に開いた帽子店は大繁盛し、
シャネルはバルサンを通じて知り合ったアーサー・カペルの出資を受けて
1910年にカンボン通り21番地に新たな帽子店を開きます。
(現在のシャネル本店があるカンボン通り31番地には1919年に移転)

1913年、ノルマンディーのリゾート地ドーヴィルに新しく開いた店で
洋服も販売するようになり、シャネルの店には
当時の女性ファッションの常識から外れた動きやすくゆったりした服が並びました。

1914年に第1次世界大戦がはじまると、
ドーヴィルに疎開してきた上流階級の女性たちが活動的な服を求めるようになり、
シャネルの服は大流行します。


ココ・シャネル 1920年代の活躍

シャネルは事業を拡大し、多くの職人を使う成功者となりました。
1920年代はシャネルのブランドロゴとして有名な
CとCを組み合わせたマークが登場した時期であり、
香水「No.5」が発売(1921年。1924年に香水会社を設立)され、
シャネルの提案するリトル・ブラック・ドレスが世界的なブームとなった時期でもあります。

シャネルはビジネスで活躍するかたわら、
女友達で芸術サロンを主宰するミシア・セール(1872-1950)の縁で
芸術家への支援活動にも乗り出しました。
1922年のセルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)への援助をはじめ、
音楽家のイゴール・ストラヴィンスキー(1882-1971)や
詩人のジャン・コクトー(1889-1963)と親しく交際し、援助しています。


第2次大戦後のスイス移住

第1次世界大戦のときは
時代に合わせたデザインを作り出して時の人となったシャネルですが、
1939年に第2次世界大戦が勃発すると、
香水とアクセサリー部門だけを残して店を閉めてしまいます。
(パリのオートクチュールでこの時店を閉めたのはシャネルだけでした)

パリがドイツ軍に占領されていた時期、
シャネルはナチスの報道担当だったドイツ人と交際していたために、
戦後「対独協力者」の容疑をかけられることになりました。
(英独の単独講和をめざす作戦に従事したとも言われています)
1945年、シャネルはフランスを離れてスイスに移住します。

ココ・シャネルのパリ帰還

1954年にパリに戻ってからしばらくの間、
シャネルに対する評判は「時代遅れ」というものでしたが、
アメリカで大絶賛されたことがきっかけとなって再びモードの中心に返り咲きました。

1971年に87歳で永眠するまで仕事を続けたシャネルは、
亡くなる直前に会った友人との別れ際にも
「会いたかったらカンボン通りにいらっしゃい」と言ったそうです。


マリー・ローランサンとココ・シャネル ― 《マドモアゼル・シャネルの肖像》の行方

ともに1883年生まれのローランサンとシャネルは、
1920年代にはともに働き盛りの40代。
シャネルもローランサンに肖像画を依頼しましたが、
できあがった作品が気に入らなかったようです。

《マドモアゼル・シャネルの肖像》1923

青と黒のドレスを着た女性(シャネル)が膝の上に犬を抱き、
物憂げな様子で椅子にもたれかかっています。
向かって右奥にはもう1匹の犬が飛び跳ね、顔の近くを白い小鳥が飛んでいます。

とても美しい絵だと思うのですが、
この肖像画を見たシャネルは「似ていないから」という理由で
受け取りを拒否し、書き直しを要求しました。
ローランサンは腹を立てて、こう言ったそうです。

シャネルは、そりゃいい人よ、でも所詮はオーベルニュの百姓娘だわ。この百姓娘には、わたしは譲歩しないつもりなの。
(フロラ・グルー著、工藤庸子訳『マリー・ローランサン』新潮社、1989)

パリ生まれ・パリ育ちのローランサンは、
芸術の事で田舎者にあれこれ言われる筋合いはない! とばかりに
描き直しを断固拒否。
《マドモアゼル・シャネルの肖像》は
画商でコレクターだったポール・ギヨーム(1891-1934)のもとへ行くことになりました。
(ローランサンとギヨームは、アポリネールを通じて知り合ったと言われています)

相容れないかと思われた2人ですが、
ローランサンはこの騒動の後、シャネルの店のお得意さんになったそうです。


《マドモアゼル・シャネルの肖像》のその後 ― 現在はオランジュリー美術館所蔵

1965年にギヨームの未亡人だったジュリエットが
《マドモアゼル・シャネルの肖像》を含む美術コレクションを
オランジュリー美術館に譲渡しました。
このコレクションにはローランサンがジュリエットを描いた
《ポール・ギヨーム夫人の肖像》(1924)などローランサンの作品のほかにも
モディリアーニ、マティス、ピカソ、ルソーなど
同時代を代表する画家の作品が並んでいます。

ジュリエットはギヨームの死後再婚したジャン・ヴァルテルにも先立たれており、
コレクションに2人の夫の名前を冠することを譲渡の条件としました。
そのため、この絵を含むコレクションは
「ジャン・ヴァルテル=ポール・ギヨーム・コレクション」と呼ばれています。


マリー・ローランサンとモード(東京・京都・名古屋)

《マドモアゼル・シャネルの肖像》は、2023年に来日します。
2023年はマリー・ローランサンの生誕140周年にあたり、
国内外の優れたコレクションが公開される予定です。

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「マリー・ローランサン美術館 ― 長野から東京移転、そして閉館…現在は?」

東京展Bunkamura ザ・ミュージアム

東京都渋谷区道玄坂2-24-1

2023年2月14日(火)~4月9日(日)

3月7日(火)休館

10時~18時 (入場は閉館の30分前まで)
※毎週金・土曜日は21時まで

一般 1,900円
大学・高校生 1,000円
中学・小学生 700円
※前売り券は200円引き
※障がい者手帳の提示で本人及び付き添い者1名半額(当日窓口のみ)

公式ホームページ

京都市京セラ美術館

京都市左京区岡崎円勝寺町 124

2023年4月16日(日)~6月11日(日)

月曜休館

10時~18時 (入場は閉館の30分前まで)

一般 2,000円
大学・高校生 1,500円
中学・小学生 700円
※前売り券は200円引き
※障がい者手帳等の提示で本人および付き添い者1名無料

公式ホームページ

名古屋市美術館

名古屋市中区栄2-17-25 芸術と科学の杜・白川公園内

2023年6月24日(土)~9月3日(日)

月曜休館

9時30分~17時 (入場は閉館の30分前まで)
※金曜日は20時まで

(詳細未定)