日曜美術館「時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」(2024.4.14)

画家・福田平八郎の没後50年を記念する回顧展が、大阪中之島美術館で開かれています。
坂本さんと守本さんは、日本画家の千住博さんとともに会場を訪れました。
千住さんによると平八郎は「日本画の基礎をつくった」「現代日本画はここから始まる」超・重要人物なんだそうです。

2024年4月14日の日曜美術館
「時を超え、自由に 日本画家・福田平八郎」

放送日時 4月14日(日) 午前9時~9時45分
再放送  4月21日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 坂本美雨(ミュージシャン) 守本奈美(NHKアナウンサー)

写実なのか、抽象なのか。大正から昭和にかけて活躍した日本画家・福田平八郎(1892-1974)。時に賛否両論を巻き起こしながら、革新的な日本画を描き続けた。膨大な写生を重ねながら自然を徹底的に見つめ、まるで抽象画のような独特の日本画を追求した。没後50年を機に、大阪中之島美術館で開催されている展覧会場から、傑作の数々を紹介。60年以上、倉庫に眠っていた幻の作品から、時代を超える美の秘密を探る。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
千住博(日本画家)

出演
吉田浩太郎 (大分県立美術館主幹学芸員)
諏訪敦 (画家)
福田敬子 (平八郎の孫)


福田平八郎と《鯉》 「写生狂」の時代

福田平八郎は明治25年(1892)に大分県で生まれました。
18歳の時に地元の大分県立大分中学校(現在の大分県立大分上野丘高等学校)を中退し、京都市立美術工芸学校(現在の京都市立美術工芸高等学校)に進みます。
ちなみに中退の理由は数学の成績が悪くて留年したことだそうで、後に幾何学的な図形を思わせる作品を描いた平八郎が数学嫌いだったのは意外な気がします。

美術学校の教授から「君は自然を客観的に見つめるのがいい」と言われたことから、自ら「写生狂」と名乗るほど写生にのめりこんだ平八郎。
大分県立博物館が所蔵する彼の写生帖は、数百冊に及びます。
年代がわかっている平八郎の作品で最も初期の《野薔薇》(1913)は、小さな花や葉を細密に描き、さらに1cmほどしかないミツバチの脚の形・羽の動きまで描写されています。

平八郎の写実作品の頂点とも言えるのが、29歳の時に描かれた《鯉》(1921)です。
鱗が光に当たって色を変える様子まで克明に描くだけでなく、鯉の影や濃淡で少し濁った水の質感まで描写するこの作品は帝展で特選を受賞し、宮内省(現在は宮内庁)の買い上げになりました。
《鯉》をきっかけに人気画家となった平八郎ですが、やがて大きな壁にぶつかることになります。


福田平八郎と《漣》 写実の限界と転機

《鯉》の3年前に描かれた《緬羊》(1918)は、長崎で見た羊の群れを描いた屏風の作品。
大画面にリアルな羊さんたちが集まっている作品は迫力がありますが、現代写実主義の画家・諏訪敦さんの目にはこの作品は「息苦しい」ものに見えたようです。
平八郎の「全てを描いてやる」という意気込みが、やや空回りしたのかもしれません。

平八郎は30代半ばで写実の限界を感じ、自分の表現を確立できない焦りから体調を崩してしまいます。
行き詰まっていた平八郎の転機は40歳の時。
釣りに出かけた先で、水面に立った漣を見たことがきっかけでした。
平八郎はこのように語っています。

風がさっと来んと
さざなみが立たんのですよ
いい頃合いの風がきて
さざなみが立ってきたから
竿を捨てて
一生懸命写生した (NHKのラジオより)

平八郎は10日がかりで琵琶湖を一周し、大量の写生を描きました。
当時の写生帖を見ると、最初の頃は実際の湖面に近い色を使って魚の姿なども描かれています。
それがだんだん波そのものの形を描くようになり、単純化された構図になっていきます。
そして生まれたのが、平八郎の最高傑作ともいわれる《漣》(1932)でした。

《漣》はプラチナ箔の上に群青の短い線を大量に描き連ねた作品で、抽象画のような見た目が挑戦的すぎたのか、発表当時は厳しく批判されたと言います。
(諏訪さんによれば、波の実態そのものをかたちにした《漣》は間違いなく写実の作品だそうです)
しかしこの中にこめられた平八郎の熱意は並大抵のものではありません。
完成作品(本画)と同じ大きさの下絵(大下図)を見ると、一見単純な線たちがいろいろな修正を加えて配置されていたことが分かります。
また線のひとつひとつには本画に写す際に描き漏らしがないようにチェックした後があり、一筆一筆が熟考の末にこれ以外はないという場所に置かれたようです。


福田平八郎《竹》 新しい時代の日本画

平八郎は1930年から、ジャンルを超えて自由な絵画表現を研究する「六潮会」に参加し、中川紀元(1892-1972)ら洋画家とも交流しています。
西洋美術の展覧会にも頻繁に通って作品を模写するなど、海外の画家からも多くの刺激を受けました。

平八郎がそれまでの日本画になかった表現を吸収していった理由のひとつには、西洋画に押されて日本画が廃れていくことへの危機感があったようですが、彼自身はあくまでも日本画の伝統の基礎に立って自然を描くことを目指しました。

1940年に発表された《竹》は、従来なら緑青で描かれる竹を様々な色・模様で表現したポップな作品ですが、一つひとつは伝統的な技法で写実的に描いているように見えます。
平八郎は京都近郊の竹林を訪ねまわって写生をおこない、それぞれの色を捉えようとしたそうです。

平八郎には、日本画とはただ日本の岩絵の具をつかった絵ではなく「日本の伝統の基礎に立って自然の真髄を描く」ものだという考えがありました。


福田平八郎の《雲》 倉庫に眠っていた問題作

平八郎の孫・敬子(ひろこ)さんの目から見たお爺さんは「ちょっと変わってはるなって感じ」。
画題を求めてどこかに行くようなことはあまりなかったという平八郎は、目の前にある気になったもの(紙テープや天気予報の天気図などなど…子どもが描いた絵まで!)を写生していたそうです。
頂き物の果物もまず写生をするので、描き終わるまで食べられなかったんだとか…
《洋梨》や《うす氷》(富山の銘菓。氷が割れたような形の甘い煎餅)はともかく、《牡蠣と明太子》は悪くならなかったか心配になります。
(写生のスピードが速かったのでしょうか?)

そんな平八郎が1950年に日展に出品した作品が、青い空に立ち上る入道雲を大きく描いた《雲》でした。
青と白の2色で構成された絵は斬新すぎたのか、賛否両論を巻き起こします。

《雲》はその後、倉庫の奥にしまわれて、2014年に大分県立美術館の学芸員・吉田浩太郎さんが平八郎の遺族を調査で訪ねるまで外に出ることはなかったようです。
再発見された《雲》はシミやカビがあって修復が必要な状態でした。
そして修復の過程で、青の部分には日本画の絵の具ではない化学合成染料が使われていたかもしれないとわかったといいます。
平八郎自身は《雲》について何も語らなかったそうですが、日本画はただ日本の絵の具を使った絵ではない、という自身の考えをこの中に実現させたようにも思えてきます。
坂本さんは《雲》に「色々なものを削ぎ落として自由になった」と感じたそうです。


「没後50年 福田平八郎」(大阪中之島美術館)

大阪府大阪市北区中之島4-3-1 大阪中之島美術館 4階展示室

2023年3月29日(土)~5月6日(月・休)
作品保護のため、4月9日(火)〜4月23日(火)は《漣》(重要文化財)の展示休止

10時~18時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館 (4月の1・15・22・29日、5月6日は開館)

一般 1,800円
高校・大学生 1,000円
中学生以下 無料
※障がい者手帳等の提示で本人と介護者1名まで半額

公式ホームページ