日曜美術館「友よ!我らの美しき野は… 画家・三岸節子と長谷川春子」(2023.7.16)

ともに明治生まれの女性洋画家・三岸節子と長谷川春子の人生と男性社会との戦いを、作品を通して振り返ります。
小野さんは三岸の生家跡に建てられた記念館と長谷川の作品が奉納されている神社を訪れ、2人の作品に向き合いました。

2023年7月16日の日曜美術館
「友よ!我らの美しき野は… 画家・三岸節子と長谷川春子」

放送日時 7月16日(日) 午前9時~9時45分
再放送  7月23日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

日本の女性画家の草分け・三岸節子と長谷川春子。二人は姉妹のように手を取り合い、男性社会の壁に挑んだ。だがやがて戦争が二人の友情を引き裂いていく─。激動の時代、“描くこと”こそが、新たな地平を切り開く道であると信じ、絵筆に人生を賭けた節子と春子。今回は、3月に放送し、大きな反響のあったBS1特集「春子と節子」の映像を交えながら、二人が残した「作品」の数々を、新発見の絵も含め、じっくりとご紹介する。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
吉良智子 (美術史家)

出演
丹野汀 (一宮市三岸節子記念館学芸員)
長谷川和光 (春子の甥、作曲家)
田村邦明 (筥崎宮宮司)


三岸節子と長谷川春子の出会い

1905年生まれの三岸節子と1895年生まれの長谷川春子の交流は、三岸の作品に感動した長谷川がバラの花束を持って訪ねたことが始まりだったそうです。
当時の三岸は夫を亡くし、3人の子どもとアトリエ建設の借金を抱えていました。

三岸節子

三岸節子(1905-99)は、現在の愛知県一宮で毛織物業を営む大地主の吉田家に生まれました。
先天的に足が悪かった三岸は、後に本人が「因習と封建制でかびのはえたような古めかしい家」と語った家の中で生きづらい思いをし、それが洋画の道に進む原動力となったようです。
実家の倒産後、両親に逆らって油絵を学ぶために上京した三岸は、1922年から女子美術学校(現在の女子美術大学)で学び、首席で卒業します。
1924年に洋画家の三岸好太郎(1903-1934)と結婚しますが、1934年に夫が急逝。
生活に苦労し絵もなかなか買い手がつかない、そんな時に長谷川が三岸を訪れました。

長谷川春子

三岸よりも10歳年長の長谷川春子(1895-1967)は、東京の日本橋で裕福な弁護士の家に生まれました。
姉(作家で女性の地位向上運動を牽引した長谷川時雨)のすすめで25歳から日本画を学び鏑木清方に師事しますが、すぐに油絵に転向して梅原龍三郎の指導を受けるようになります。
1929年から2年間パリに留学して藤田嗣治(当時のパリで成功をおさめた数少ない日本人)らと交流し、また現地で2度の個展を開きました。


油絵を選んだ理由

三岸節子と長谷川春子はどちらも洋画家の道を選んでいます。
女性アーティストの研究者である吉良智子さんは、花嫁修業の一環とみなされていた日本画に対して、当時日本に紹介されて日が浅かった油絵には新しくて自由なイメージがあり、女性である2人はそこに希望を見出したのではないかといいます。

当時女性は官立の東京美術学校(現在の東京藝術大学)を受験することができず、私立の学校は花嫁学校のようなもので、画家になりたくても教育を受ける機会が限られていました。
そもそも親・親戚の反対や周囲の好奇の目などがあり、女性が画家を目指せる環境も整っていません。
そんな中で洋画家を目指した三岸と長谷川は、どちらもそれまでの女性がやっていなかったことを切り開いて女性画家の地位向上を目指した人でした。

三岸節子《自画像》と長谷川春子の《俳優の像》

三岸の初期の作品で春陽会の団体展で入選した《自画像》(1925)は、美術館で作品の前に立った小野さんが迫力を感じた強いまなざしが特徴。
世間の求める女性像を外れて自分の意志や内面への問いかけを形にしたような挑戦的な作品です。
(団体展の入選は女性画家初の快挙でした)

三岸の自画像と合わせて日曜美術館で紹介された長谷川の《俳優の像》(1933)は現在のわたしたちから見ればごく普通の男性の胸像ですが、女性が油絵を描くのはもちろん、白人の男性をアジア人の女性が描くという、従来の「見る者と見られるもの」「描くものと描かれるもの」関係を逆転した新しい挑戦の産物でした。


三岸節子・長谷川春子の戦争と決裂

七彩会と三岸節子の《月夜の縞馬》

1936年に三岸と長谷川は他5人の女性画家とともに「七彩会」を結成し、展覧会を開催しました。
三岸が出品した《月夜の縞馬》(1936)は、月に向かって立つ2頭のシマウマを群集が眺めているというもの。
よく見るとシマウマに見えたのは縄に絡みつかれた白馬です。
男性が優位な社会や画壇の中で受けた抑圧と、その中で自分はどう生きていくべきか、という心情を感じさせるこの作品は、自分を押さえつける周囲への宣戦布告のようにも見えます。

戦争の始まりと戦争協力

七彩会結成の翌年に、日中戦争(1937-45)が勃発。
翌年には国家総動員法が施行され、日本は戦争の時代を迎えます。
軍部は国民の戦意をあおるために有名画家を戦地に派遣して戦争画を制作させ、全国で戦争画展を開催しました。
長谷川はこの頃、慰問使節の一員としてたびたび戦地を訪れています。

女流美術家奉公隊と三岸・長谷川の決別

長谷川は陸軍の指導をうけ、1943年に「女流美術家奉公隊」を結成し委員長に就任します。
女流美術家奉公隊は1943年9月に少年兵の募集を目的とする「戦ふ少年兵」展を開催。
戦時下における理想的軍国少年の図は母親やその子どもたちには受け入れられましたが、美術関係者からは酷評されたそうです。

三岸も長谷川に誘われて女流美術家奉公隊の委員になっていましたが、芸術よりも民衆に対する戦意高揚を重視する軍の意向と合わず奉公隊を離れることを決めました。
このことで三岸と長谷川は決裂し、長谷川は三岸を「非国民」だと非難したそうです。


長谷川春子の《大東亜戦皇国婦女皆働之図》

吉良さんによれば、長谷川には、戦争を女性画家の地位向上に利用しようという考えがあったようです。
当時の女性画家は、画家の団体でも「会員」になることができず「一般出品者」か高くても「会友」より上のランクに進むことができず、ステップアップが厳しい状態。
そんな中で国家プロジェクトである女流美術家奉公隊の活動に参加することに、長谷川は大きな意味を見出していたのでしょう。
(もちろん参加者にはそれぞれの考えがあり、絵具の配給を受けられるなどの理由で参加した人もいたはずですが)

三岸の脱退後に奉公隊の女性画家25人と共作した《大東亜戦皇国婦女皆働之図》(1944。全2枚)は、幅3mの大画面に戦時下の社会で働く女性たちの姿が描かれています。
(長谷川は軍需工場を担当)
小野さんが「(描かれている場面は)女性の人たちが排除されてきた領域ですよね」と語るように、いわゆる「銃後」は家庭だけが居場所だった女性たちが社会的な役割を担う場でもありました。
《大東亜戦皇国婦女皆働之図》のうち、「春夏の部」は筥崎宮に、「秋冬の部」は靖国神社遊就館に所蔵されています。

三岸節子の《祝祭 東亜建設を寿ぎて》

女流美術家奉公隊と距離をとった三岸節子は、室内画や静物画など戦時色の薄い作品を残す一方で《祝祭 東亜建設を寿ぎて》(1942)のように間接的な戦争画も描いていて、吉良さんはそこに時局との距離感を図ろうと揺れ動く心情を読み取っています。
《祝祭 東亜建設を寿ぎて》は、白いドレスの女性たちが動物たちと踊る、ギリシア神話を思わせる風景で、あまり日本的な雰囲気を感じない作品でした。

1945年の8月に終戦を迎えると、三岸はその1か月後に戦争中に描き貯めた作品を展示。
東京で誰よりも早い個展の開催となりました。


三岸節子と長谷川春子の戦後と晩年の大作

長谷川春子の《源氏物語絵巻 五十四帖》

長谷川春子は女性画家で唯一「戦争責任を負うべき画家」として名前があがっています。
画壇の一線から退き随筆などで生計を立てるようになった長谷川について、甥の長谷川和光さんは「ほとんど追放ですよね」と語っています。
長谷川は毒舌家としても知られていますが、自分の境遇に関して野口は何も言わなかったそうです。

長谷川は最晩年に、源氏物語の全館を書写して場面ごとに絵を添えた《源氏物語絵巻 五十四帖》(1958-65)を制作。
パステルや岩絵の具を使った優しく柔らかいタッチの作品は、完成後に筥崎宮へ奉納されました。
長谷川は《源氏物語絵巻 五十四帖》の完成から2年後に死去しました。
葬儀には三岸も駆けつけたそうです。

三岸節子の《さいたさいたさくらがさいた》

三岸は1954年にフランスに転居し、自分の絵を更に追究します。
1989年に20年にわたるフランス生活から帰国して、神奈川県の大磯町にある自宅兼アトリエで制作をつづけました。

《さいたさいたさくらがさいた》(1998)は、アトリエのそばに立つ山桜の老木を3年がかりで描いたもの。
実際に見た小野さんは、渦を巻くような枝垂桜の迫力に「93歳でこんな力強い絵が描けるんですか」と感嘆しています。
三岸は完成の翌年に死去しました。

三岸節子の戦いと、長谷川春子の和解 ― 小野正嗣さんの印象

小野さんは《源氏物語絵巻 五十四帖》と《さいたさいたさくらがさいた》を見比べて、前者に世界との和解を成し遂げた調和と静かさを、後者に最後まで戦い続けた力強さを感じたと言います。
対照的な印象は、戦時中に体制の中で足場を固めようとした長谷川と、距離を取って独自の道を行こうとした三岸のあり方とも重なる気がします。

どちらの立場が正しいと決めることはできませんが「過去の女性アーティストたちの歴史にまだまだ学ぶところは多いと思います」という吉良さんの言葉の通り、自分の生き方を全うした2人のアーティストは、わたしたちに様々なメッセージを遺してくれているようです。


一宮市三岸節子記念美術館と筥崎宮 ― 日曜美術館で紹介されたゆかりの地

一宮市三岸節子記念美術館

三岸節子の生家跡に建てられ、1998年に記念館としてオープンしました。

愛知県一宮市小信中島字郷南3147-1

9時~17時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館(祝日・振替休日は開館)
祝日の翌日は休館(土日をのぞく)
年末年始(12月28日~1月4日)休館
その他展示替え期間など休館

一般 320円
高大生 210円
中学生以下無料
(以上、コレクション展の観覧料。特別展・企画展はその都度異なる)

公式ホームページ

筥崎宮

筥崎八幡宮とも称し、創建は西暦921年とされます(諸説あり)。
謡曲にも登場する歴史の古いお宮です。

福岡県福岡市東区箱崎1-22-1

公式ホームページ