日曜美術館 選「陶器のボタンの贈り物 三宅一生と陶芸家ルーシー・リー」(2022.8.21 初回放送日は2009.4.19)

20022年8月5日に亡くなった
デザイナー・三宅一生さん出演の回(2009年4月19日)の再放送。
10年来の友人だった陶芸家・ルーシー・リーの思い出と、
彼女から受け継いだ特別な宝物を紹介します。

2022年8月21日の日曜美術館
選「陶器のボタンの贈り物 三宅一生と陶芸家ルーシー・リー」

放送日時  8月21日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 姜尚中(政治学者・東京大学名誉教授) 中條誠子(NHKアナウンサー)

今月亡くなったファッションデザイナーの三宅一生。世界的に活躍していた80年代に出会ったのが、イギリスを代表する陶芸家ルーシー・リー。洗練された形だけでなく、手に取った時の感触まで考え抜かれた作品にみせられた。三宅は、ロンドンに彼女を訪ねて語り合う度に、新しい意欲に満ちたという。ルーシー作の陶器のボタンから発想した服をデザインしたこともある。ふたりの11年におよぶあたたかな交流をひもとく。(日曜美術館ホームページより)

出演
三宅一生 (デザイナー)
長尾智子 (フードコーディネーター)


三宅一生とルーシー・リーの出会い

訪問のきっかけは写真集

三宅一生さんがルーシー・リーという存在を知ったのは、
1984年にロンドンはコヴェント・ガーデンの書店で見つけた写真集でした。

1973年のパリ・コレクション初参加以来
世界的なデザイナーとしてキャリアを重ねてきた三宅さんですが、
当時はちょうど自分のやりたい仕事に迷っていた時期だったそうです。
そんな時に写真で見た作品に「心が洗われるようなもの」を感じた三宅さんは、
市内にあるリーの工房兼自宅を訪ねます。

本で見たものより「もっとピュア」なリーさんの作品を見学して
お手製のチョコレートケーキとコーヒーをごちそうになった三宅さんは、
帰り際に作品を一つお土産にもらいました。
丸形の鉢を両脇から少し押しつぶしたような形の白い《ボール》(1965)は、
その日三宅さんが見た中でもっとも引きつけられた作品だったそうです。


ウィーン生まれのルツィエが「イギリスのルーシー・リー」に

ルーシー・リー(1902-1995)は、本名をルツィエ・ゴンペルツといいます。
1900年代初頭、クリムト、シーレ、マーラー、フロイトなど
新しい芸術や文化の担い手が活躍していたウィーンで、
ユダヤ人の医者の家に生まれました。

1922年にウィーン工業美術学校に入学。
最初は絵画や彫刻などを学ぶ予定でしたが、
途中でロクロに魅せられたために陶芸に転向したそうです。
1926年に学校を卒業した後は
ブリュッセル万博(1935)の金メダルをはじめ、国際的な賞を次々と受賞しました。

1938年にドイツ軍がオーストリアを併合し、
リーはナチスのユダヤ人迫害を逃れてイギリスへ亡命。
ロンドン市内に工房を構えて(三宅さんが訪問した工房です)作陶を再開しますが、
戦争中は「キャベツとジャガイモが主食」というほど苦しい生活だったようです。

ルーシー・リーが再び評価され国際的に活躍するようになるのは、
戦後の1950年代以降のことでした。


ルーシー・リーの陶器

使うことで魅力を増す作品

この時の日曜美術館では、
スタジオ内にさりげなく《スパイラル文花瓶》(1972頃)が飾られていたり、
司会のお2人とゲストの三宅さんが《コーヒーセット》(1966)を使って
実際にコーヒーを味わったりと、作品を実際に使う場面がありました。

飲むときにフチの存在を感じないというカップの口当たりや
ソーサーの裏に塗られた白い釉薬の滑り止め効果など、
見るだけではわからない器の良さが伝わってきます。

非常に薄手でシンプルな形をしているリーの作品は
一歩間違えると緊張感のある技巧的な作品になりそうですが、
指で作りだすわずかな歪み、釉薬や線刻(編み針を使って付けるそうです)の効果が
器に表情を加えることで、穏やかでほっとするような雰囲気を出しています。

姜さんが「人が作ったのに自然が作ったような」と評価するこれらの作品ですが、
リーにも自身の表現に迷って「これで良いのか」と葛藤した時期があったようです。


試行錯誤と迷いの時代

リーがイギリスに亡命した時期は、
日本の民芸運動を主導したバーナード・リーチ(1887-1979)を筆頭に
東洋の陶磁器を理想とする陶芸の全盛期でもありました。
登り窯を使った重厚な陶器が得意で、
電気窯を使って薄く繊細に作るリーの陶器は相容れないものに見えたようです。

大御所のリーチに「あまりにも薄すぎて陶器らしくない。人間味がない」と
酷評されたリーは10年ほどかけて自分の作品を模索し
その中では厚手の作品も作っていますが、
最終的には本来の薄い作品でリーチにも認められるようになりました。

この番組が放送された時、三宅さんは自らの呼びかけでオープンした
デザイン美術館「21_21 DESIGN SIGHT」(東京・港区)で
ルーシー・リー、ジェニファー・リー、エルンスト・ガンペールの3人展である
「U-Tsu-Wa/うつわ」展(2009年2月~5月)を開催していましたが、
リーが作った厚手の重い作品(日本の土瓶に似た形のポット)は
展示できなかったそうです。
三宅さんはこの作品に、当時のリーの迷いを感じると言います。


三宅一生と陶器のボタン ― ルーシー・リーの贈り物

大戦中の生活を支えた「代用ボタン」

リーは戦時中、陶器の代用ボタンを作って生活を立てていました。
ボタンの形に型抜きした粘土を焼きあげたボタンは、
普通の大きさから豆皿と間違えるくらい大きいものまで
さまざまな大きさや形があります。
型で抜いた後に指でへこみや歪みをつけたもの、
様々な釉薬で彩られたものもあり、
リーにとっては作陶のための実験でもあったようです。

三宅さんがこのボタンを見せてもらったのは、
リーと出会ってから3年たったころでした。


イッセイ・ミヤケとルーシー・リーのコラボレーション

リーの陶製ボタンから発想を得た三宅さんは、
1989-90年のイッセイ・ミヤケ秋冬コレクションに
リーのボタンを使った服をデザインしました。

無駄な端切れを出さず、
たっぷりした布が重なり合う三宅さんのデザインを
さらにボタンで留めることで全体に表情がつき、
着る人の体をゆったりと包みます。
試着した中條さんによれば
「生き物に包まれているような安心感」があるとのことでした。

リーは、40年以上前のボタンが新しい作品として蘇った驚きと喜びを
手紙に書いて三宅さんに送っています。
それから間もない1990年、リーは脳卒中で倒れて作陶を続けられなくなり、
さらに5年後の1995年に亡くなりました。

リーの死後、遺言によって
たくさんの陶器のボタンが「大切な友達」である三宅さんに送られました。