日曜美術館「いつもそこに “名画” があった」(2020.12.06)

小野さん、柴田さん、そして俳優の三村里江さんの3人が
岡山県倉敷市の大原美術館を訪れました。
紡績事業で財を成した大原孫三郎が出資し
画家の児島虎次郎が収集したコレクションを基礎として生まれた
日本初の西洋美術中心の私立美術館です。

2020年12月6日の日曜美術館
「いつもそこに “名画” があった」

放送日時 12月 6日(日) 午前9時~9時45分
再放送  12月13日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

90年前に日本で初めて西洋画をいつでも見られる美術館として誕生した大原美術館。始まりは、「日本の芸術界のため」に、海外の絵を集め、見てもらいたいというある画家の思いだった。その思いを受け、地元の実業家・大原孫三郎と息子・總一郎らによってコレクションは拡充されてきた。番組では、とびっきりの名画にまつわる思い出をつづった人々の手記に注目。俳優・美村里江さんによる手記の朗読を交え、美術館の歩みを見つめる(日曜美術館ホームページより)

出演
高階秀爾 (大原美術館館長)
美村里江 (俳優)


三村里江さんと大原美術館を訪ねる

白壁の土蔵が並ぶ道の先に現れるギリシア神殿風の建物が大原美術館です。
入り口に立つオーギュスト・ロダンのブロンズ像
《洗礼者ヨハネ》《カレーの市民―ジャン=デール》に迎えられて中に入ると、
まず目に入るのは紫の振袖を纏った西洋の少女。

この《和服を着たベルギーの少女》(1911)を描いた児島虎次郎(1881-1929)は、
大原孫三郎(1880-1943)に後援されてヨーロッパに留学した画家であり、
大原美術館のコレクションの元となる作品を収集した人でもあります。
スポンサーの孫三郎は何を購入するかについて全て虎次郎に任せていたそうで、
初期の大原コレクションは児島コレクションとも言えるかもしれません。

そんな作品の中で美村さんが気になったのは、
ジャン=フランソワ・ミレーの《グレヴィルの断崖》(1871)。
もともとミレーが好きで、海への憧れもあるという美村さん、
「ここでサンドイッチを食べてみたい」と思わせる海辺の風景に惹かれたようです。
たしかに、いかにも暖かで気持ちよさそうな風景でした。


児島虎次郎・大原孫三郎と大原美術館の誕生

児島虎次郎は21歳で東京美術学校西洋画科に入学し、
大原孫三郎が設立した大原奨学金を受けました。
その後2度の飛び級を経て1904年に卒業。
1908年に留学し、1909年ベルギーのゲント美術アカデミーに入学しました。

印象派など当時最先端だった画風を身に付け
《和服を着たベルギーの少女》でパリのサロンに初入選を果たしますが、
留学するまで本場の油絵に触れたことがなかった虎次郎は
日本人が西洋画を学ぶ限界を感じていたそうです。

そんな時、サロンの重鎮だったエドモン=フランソワ・アマン=ジャンの
《髪》(1912)に惚れこみ、日本の孫三郎に購入を依頼します。
個人としての願いではなく「日本の芸術界のため」、
ヨーロッパに行く機会がない日本の画家たちのために
最先端の西洋画を日本に持ち帰りたいという考えに孫三郎も賛同し、
これ以降もたびたび購入資金を送りました。

虎次郎は最初の留学(1908ー1912)から1923年までに計3回渡欧して
画家としての修行のかたわら収集に励みました。
モネやマティスなど人気作家のアトリエを直接訪ねて購入をもちかけたそうです。
画廊を通してしか絵を売らなかったモネを日本の牡丹を手土産に口説き落とし
《睡蓮》(1906頃)を手に入れたエピソードもあるとのこと。
モネは作品のためにわざわざ浮世絵風の庭を作りあげた人ですから、
この贈り物は喜ばれたことでしょう。

1921年、2度目の渡欧から帰国した虎次郎は
倉敷の小学校(倉敷女史尋常高等小学校)で
第1回「現代仏蘭西名画家作品展覧会」を開催し、
収集した作品27点を展示。
全国から人が集まる大盛況となりました。

高階秀爾館長によると、夜行列車で倉敷までやってきた人の列は
駅から美術館の前まで続いたそうです。
美術館も展覧会も現在のように充実しているわけではない環境で、
西洋画を愛好する人びとがいかに飢えていたか物語っているようです。

虎次郎が47歳の若さで亡くなった翌1930年、
児島虎次郎の功績を記念して大原美術館が開館しました。
(美術館を設計した薬師寺主計も、大原奨学金を受けたひとりです)

1929年にアメリカで始まった世界恐慌の影響で
日本経済も危機的状況に陥っていたときのこと。
大原家の事業も危機にさらされている中での決断だったそうです。

また太平洋戦争のさなか、
武器・兵器製造のための物資不足を埋め合わせるために金属類回収令が出されて
ロダンのブロンズ像に供出の命令が出された時は
ブロンズ像が軍需工場で働く人々に感動を与えていることを訴え、
回収から除外されるよう文部大臣や県知事に交渉し、
ロダン作品を残しておく許可を取り付けています。

孫三郎は公益・文化事業に熱心で、
美術館も社会貢献の一環として重視していたそうです。
美術そのものにはあまり関心がなかったようですが、
美術館に対する強い思い入れはこれらのエピソードから伝わってきます。


大原總一郎と戦後の大原美術館

戦後、孫三郎の息子である大原總一郎(1909-1968)が美術館の運営を引き継ぎました。
「美術館は常に生きて成長しなければならない」という独自の哲学のもとに
フォービスム、キュビスムをはじめとする同時代の作家の作品を収集した人です。

日本ではまだ知られていなかったジャン・フォートリエの《人質》(1944)や
ジャクソン・ポロックの《カット・アウト》(1948-58)、
ピカソの《頭蓋骨のある静物》(1942)、
関根正二(1899-1919)の《信仰の悲しみ》(1918)などは、
總一郎がコレクションに加えたものです。

また20世紀の日本を代表する巨匠のひとりである棟方志功の作品も収集しています。
2人の交流がはじまったのは總一郎29歳、棟方35歳の時。
駆け出しの板画家だった棟方にその場で襖絵を発注したそうです。

1961年に大原家の土蔵を改造して建てられた「工芸館」に
1963年から加わった「棟方志功室」には
10枚1組の大作である《門舞神板画柵》(1941)など
多くの作品が納められていますが、
總一郎が注文した最大の作品は大原美術館にはありません。

倉敷国際ホテルのロビーに飾られている
《大世界の柵・坤―人類より神々へ》(1963)。
高さ2m×幅13mと、棟方の作品の中でも最大の大きさです。
ホテルの開業に合わせてこの作品が注文された時、棟方は60歳。
多忙を理由に板画ではなく絵にしたいと申し入れたものの
總一郎が押し切って板画作品となったそうです。


大原美術館の90年と人びと

番組の中で美村さんは
『2900万人とともに:大原美術館創立70周年によせて』(大原美術館,2000)から、
過去に大原美術館を訪れた人たちのメッセージを朗読してくれました。

誰かと一緒に訪れた思い出、
戦時中に美術館を見て(あるいは訪れて)感じたこと、
直接訪れたわけではないけれど美術館に行った人から聞いた話など、
さまざまな物語が語られ、大原美術館の歴史に深みを添えます。

児島虎次郎の美術に対する気持ちと
大原孫三郎の公共精神から生まれ、受け継がれてきた美術館。
これからも倉敷の町、訪れる人々とともに歴史を紡いでいくことでしょう。


大原美術館

岡山県倉敷市中央1-1-15

毎週月曜日・12月28~31日休館
(祝日・振替休日と重なった場合は開館)

9時~17時
※入場は閉館の30分前まで

一般 1500円
高校・中学・小学生 500円
(本館/分館/工芸・東洋館 共通)

公式ホームページ