日曜美術館「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂」(2020.11.08)

写実的な木彫作品の作り手としてデビューし、
のちに抽象的な「陶彫」作家として世界でも高い評価を受け、
人生の終わりまで作品を作り続けた
辻晉堂(1910-1981)の生涯と芸術にスポットを当てます。
京都市立芸術大学(現京都市立芸術大学)で教えを受けた外尾悦郎さんによると、
晉堂とスペインの建築家アントニ・ガウディには共通点があるんだそうです。

2020年11月8日の日曜美術館
「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂」

放送日時 11月 8日(日) 午前9時~9時45分
再放送  11月15日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

陶土を用いた彫刻「陶彫」で知られる彫刻家・辻晉堂。陶芸と彫刻の境を越えて生み出される独創的な抽象作品は、1958年のべネチア・ビエンナーレ展にも出品されるなど、国際的に活躍した。その一方で辻は、京都にあった美術専門学校で後進の指導にも情熱を傾けた。教え子の一人だったサグラダ・ファミリアの主任彫刻家・外尾悦郎が語る、異才の彫刻家の知られざる素顔とは?(日曜美術館ホームページより)

出演
外尾悦郎 (サグラダ・ファミリア主任彫刻家)
宮永東山 (陶芸家)
辻茜 (辻晉堂長女)


写実彫刻から抽象彫刻へ、そして登り窯との出会い

辻晉堂と書いて「つじ しんどう」と読むそうです。
本名は為吉といい、1938年に仏門に入って晉堂と改名しました。

農家の長男として鳥取県伯耆町二部に生まれた辻晉堂は
二部尋常高等小学校(現伯耆町立二部小学校)を卒業後、
大工に弟子入りして働きながら写生や彫刻を独学で勉強しました。

21歳で美術の道を志し、上京。
独立美術研究所でデッサンを学びました。
このころ、絵画よりも立体に興味を持つようになったそうです。
2年後に日本美術院展にはじめて作品を出品し、
以来、木彫作品を発表してたびたび入選しています。

当時の作品は写実的なもので、肖像彫刻の依頼を受けることも多かったようです。
東京美術学校(現東京藝術大学)の教授だった
平櫛田中(1872-1979)にも高く評価され、
39歳のときに田中の推薦を受けて京都市立美術専門学校の教授に就任しました。

田中は初期の晉堂と同じく写実的な木彫作品で知られている人ですが、
晉堂自身は戦後から鉄やセメントを使った抽象彫刻を制作しています。
そして京都の有名な焼き物の町・東山で登り窯と出会い、
彫刻を窯で焼くことを考えたのが
彼の代名詞ともいえる陶彫のはじまりだったそうです。


陶彫作家として

生徒のひとりで制作を手伝っていた宮永東山さんによると、
晉堂の作品は窯の中でも直接火にあおられる
「火前」に置かれると決まっていたそうです。
この場所は本来焼物を置く場所ではなく、
火力が安定しない上に炎の勢いで置いた物が倒れる(当然壊れる)こともあり、
そうなると一緒に入っている他の焼物まで巻き込まれるおそれがあったため、
共同で窯を使う人たちの理解を得るのも大変だったとか。

また陶磁器が焼かれる時に縮む(これが原因で割れることもある)のを防ぐために、
陶土に匣(陶磁器を灰や強い火から守るための鉢)を砕いて混ぜることで
縮みにくい土を作るなど工夫を凝らしたそうです。
様々な問題を乗り越えて実現した陶彫作品は独特の表情を持っています。

組み立てて登り窯まで運ぶ途中で割れてしまった《牡牛(牛)》などは、
割れたまま焼き上げて接着剤でつなぐという方法で完成したそうです。
晉堂はこれらの作品を「陶芸」とは思っておらず
あくまでも「彫刻」と位置づけていたようですが、
だからこそ陶芸の常識にとらわれないやり方ができたのかも知れません。

1958年の第29回ベネチア・ビエンナーレ国際美術展には
《沈黙》《馬と人》《山の人》《牡牛》(以上、1957)
《寒山》《巡礼者》《蛙》(以上、1958)の7点の晉堂作品が出品され、
「彫刻の自由な言語の再発見」と高く評価されました。


登り窯の規制と晩年の作品

高度経済成長期を迎えた1960年代、
急激な経済成長とともに進行した公害問題が問題視されるようになりました。
水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくの
四大公害訴訟が起きたのが1960年代後半です。
様々な規制が実施され、京都の登り窯もその対象となってしまいました。

この時期につくられた《目と鼻の先の距離について》(1965)は
正面から見ると普通の人の顔に見えますが、
横から見ると鼻と口が異様に長く飛びだしている不思議な作品です。
これは陶芸用の電気窯を使った初めての作品で、
宮永さんによれば「登り窯がなくなることは想定してたであろう作品」だそうです。

1968年の大気汚染防止法によって、京都市内の登り窯は廃止。
晉堂は自宅に設置した電気窯を使って制作に取り組むようになります。
長女の茜さんによると温度が低い電気窯に苦戦し、
グラフ用紙に温度変化を記録するなど試行錯誤を繰り返していたそうです。

1970年代に制作された
《カラカサのオバケ》(1974)《オマンマの塔》(1977)などは、
迫力のある陶彫(最大は《牡牛》の170cmだそうです)に比べると小ぶりで
愛嬌のある姿をしています。
この頃の晉堂は

彫刻という考えを
放棄することによって
自然に無理をしないで
物を作る事になった

と語っています。
陶芸でも彫刻でもない「粘土細工」の
《老人の日の老人》(1979)、《緑陰読書》(1979)、
猫、酒、本など好きな物ばかり集めた20㎝四方の小部屋
《泥古(でこ)庵》(1979)には、
本人の姿も写されています。

環境や条件が変わっても、その時々ですぐれた作品を作り続けていた晉堂は、
71歳で亡くなる前、入院生活の中でも
「退院したらまた作品を作る」と言って、病気で腫れた手をさすっていたそうです。


外尾悦郎さん(サグラダ・ファミリア主任彫刻家)が語る師の姿

外尾悦郎さんは、彫刻の材料を買うことができないほど困窮していた学生時代、
既に世界で活躍していた晉堂に目をかけられていたそうです。
樹齢300年の木を譲られたこともあり、
祇園の一力(芸妓さんを呼んで飲食するお茶屋さん)で
海老の天ぷらを山ほどご馳走になったこともあるんだとか。

大学を卒業した外尾さんが海外に旅立つ前に、
日本美術家連名の会員に推薦したのも晉堂でした。
資金も伝手もない彫刻家が海外で活動する上で、
日本の美術家であることの証明書は大きな力になったことでしょう。

1978年、スペインのバルセロナにわたった外尾さんは
アントニ・ガウディ(1852-1926)が設計し今も建設途中の
世界文化遺産サグラダ・ファミリアの彫刻に携わるようになります。
(なんと、今年で42年目)
方針の違いで周囲の人たちと反目した時も、
自分の道を突き進んだ師匠の存在は支えになったそうです。

ガウディは生前、
「まず初めに愛情がある、次に技術が来る」と言ったそうです。
良い技術が生まれるためには、まず愛情を注がなければならない。
優れた建築をたくさん残したガウディの言葉だと思うと、
より説得力がある気がします。
辻晉堂もまた、技術にとらわれることなく
愛情をもって新しい境地を切り開いていった人でした。

晉堂に学びガウディの事業に参加している外尾さんは、
この2人は「同じ懐の深さを持った存在」と感じているそうです。


「生誕110年記念 異才 辻晉堂の陶彫」美術館「えき」KYOTO

ジェイアール京都伊勢丹7階

2020年10月31日(土)~11月23日(月・祝)

休館日はジェイアール京都伊勢丹に準ずる

10時~19時30分
※入場は閉館の30分前まで

一般 900円
高・大学生 700円
小・中学生 500円

公式ホームページ