日曜美術館「七転八虎不二 〜変容する画家 タイガー立石〜」(2021.6.13)

タイガー立石、またの名は立石大河亞、本名は立石紘一。
安住や現状への満足を拒否して常に新しい場所に乗り出していった
アーティストの世界を探索します。
小野さんと画家の山口晃さんは、千葉市美術館で開催中の
「大・タイガー立石展」の会場から、立石の作品を年代順に回りました。

2021年6月13日の日曜美術館
「七転八虎不二〜変容する画家 タイガー立石〜」

放送日時 6月13日(日) 午前9時~9時45分
再放送  6月20日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

「絶えずアナーキーであることが一番正しく保てた」。1964年、東京オリンピックの年にゲリラ的ハプニングで現れ、時空を飛び越える不思議な視覚表現を発信し続けたタイガー立石。「売れっ子になりそうな危機」を感じると名前も住まいも変え、ジャンルすら捨ててしまう。ポップアート、漫画、工業デザインのイラストレーター、絵本作家、陶芸家。たえず変容し、七転八倒し続けた、立石のミラクルワールドへ、ようこそ!(日曜美術館ホームページより)

出演
小野正嗣 (作家、早稲田大学教授)
山口 晃 (画家)
松本弦人 (グラフィックデザイナー)
祖父江慎 (ブックデザイナー)


ポップアーティスト・立石紘一の登場

「立石大河亞自筆年譜」(1993年の個展のために手書きされたもの)によると、
立石紘一(1941-1998)は太平洋戦争開戦の13日後にあたる1941年12月20日、
福岡県田川市の炭鉱町に、炭鉱員の次男として生まれました。
(年譜には「次男なのに紘一」と書いてあります)
少年時代は、食糧難から戦後復興、高度成長期と、
時代が目まぐるしく移り変わっていった時期でした。

1961年に上京し、武蔵野美術短期大学デザイン科に入学。
初期の油彩画《立石紘一のような》(1964)には、
少年時代に影響を受けた戦争、映画、マンガなどの要素がコラージュされています。

1964年から66年頃まで中村宏(1932-)とともに
「観光芸術研究所」として活動していました。
この頃、従来の様式に反抗する芸術活動と言えば
絵画や彫刻のような形式の枠を超える表現が主流でしたが、
観光藝術研究所は「絵画」の形にこだわっていたそうです。
フォトジャーナリスト平田実(1930-2018)が撮影した写真
《「路上歩行展」と通勤者たち(東京駅~京橋界隈)》には、
自作の油絵を高々と掲げて通勤の人ごみの中を歩く姿があります。

ポップアートの芸術家として登場した立石紘一は、
時間の経過を視覚的に表現した《汝、多くの他者たち》1964、
中国の衛星がパチンコのくぎを打ち込まれた日本列島を見下ろす《明治百年》1965
(この前年に中国が初の原爆実験)などの大作を発表。

黒澤明の映画からタイトルをとった《荒野の用心棒》(1966)は
黒沢映画の主人公が岩山の上に立ち、
その見降ろす先では銃を構えた銃を構えた白人至上主義団体と、
国家元首の旗を掲げ偃月刀をもった虎の軍団が激突しようとしている様子を描き、

Courageous Chinese Clan VS. KuKlux Klan
荒野の用心棒
Koichi Tateishi 1965

というクレジットも添えられています。

マンガをコラージュしたり、マンガじみた世界を描いたりした立石は、
しまいには本当にマンガの世界に飛び込んでいきました。


ナンセンスギャグ漫画とタイガー立石

どうせポップアートをやるんだったら
いっそポップスということで
じゃあマンガをはじめよう

と、注目の若手アーティストから漫画家へ転向した立石紘一。
少年雑誌で連載したナンセンスギャグ漫画は大人気になりました。
自筆年譜によると、タイガー立石と改名したのは1967年のこと。
立石は寅年で、作品の中でも好んで虎を描いています。

純粋美術と漫画やイラスト、デザイン、映画などの融合を考え、タイガー立石というペンネームにする。

公私ともに交流があり、影響を与えあった漫画家の赤塚不二夫(1935-2008)は、
1998年放送の日曜美術館で、タイガー立石と共作した
「御前試合全国大会 剣豪分布地図」を紹介し、立石のすごさについて語っています。

人間の顔を描くとき、普通なら目の位置をずらしたり眉毛を下げたりと
人間の顔の範囲内で個性を出そうとしますが、
立石の場合は「こいつを顔にしたらどうなるか」と、
色々なものを持ってきて顔にしてしまう。
そんな立石の影響で、赤塚さんのマンガは変わったそうです。
立石がいなかったら『バカボン』などの名作は生まれなかったかもしれず、
もしかすると日本マンガ界の大恩人と言えるかもしれません。

台詞のない立石のマンガは、
フランスのサブカルチャー雑誌にも掲載されました。
『プレクサス』誌に掲載された「THE ENDLESS TIGER」は、
虎が丸まって西瓜のような果実になり、
それが割れるとそこから虎が生まれ…という、
のちの絵本『とらのゆめ(こどものとも)』(1984年11月号)にも登場する
幻想的な作品です。

若いころからタイガー立石の大ファンで
学生時代に『とらのゆめ』を買い求めた松本弦人さんは、
2019年に憲法の条文と戦後のアート作品を組み合わせた
『日本国憲法』(TAC株式会社)の中にタイガー立石の作品をとりいれました。
「第23条 学問の自由は、これを保証する。」
見開き1頁の右側に条文が、左側に立石の絵(《無題》1983)が入っています。
23条の「当たり前のことを超然という姿勢」と
立石作品や絵の中の虎の「超然」ぶりを重ねて、
この組み合わせが生まれました。


タイガー立石、イタリアへ―コマ割り絵画とイラストレーション

「プロとして成り立っていたが、だんだん収入増大。売れっ子になりそうな危機を感じて海外移住を考える。」

「白紙に戻し、また絵をかきはじめる。
ミラノ・スカラ座裏通りのアパートで制作。
画面を分割し、ストーリー性や時間的要素をとりいれた新絵画を開発。」

1969年、立石はイタリア語も分からなければ知り合いもいない状態で
イタリアへ移住しました。
そこで生み出された新しいスタイルが、
移住の翌年に発表された《約束の時間》(1970)など「コマ割り絵画」です。
敬愛する星新一(1926-1997)の「ショートショート的な表現」を
視覚的に実現する試みでした。

新しい表現方法としてシルクスクリーンをとりいれ、《Cubic Worlds》(1973)、
《Cabbage Moon》(1979)、《Moon’sSatisfaction》(1979)などを制作。
イタリアのほかパリやニューヨークでも個展を開催しています。

マンガのようにコマ割りされた画面の中でストーリーが進行していく絵画は、
場面を静止画のように切り取る西洋絵画の世界では
画期的なものだったかもしれません。

また、イラストレーターとしても活動し、
医学事典や地質学、建築といった「硬い」ジャンルにも絵を提供しています。
山口晃さんが「たまらんなぁ」と言うのは、
ファブリ社の図鑑『世界の発見』の版画下絵(1979)。
世界の土地を、建物や自然物ごと四角く切り取り持ち上げて見せる
(断面の部分には、地下鉄や川も描写されています)
可愛らしくもスケールの大きな作品です。

ミラノ生活10年目の立石の手帳には、
その時うけていた仕事の内容がびっしり描きこまれていました。
そして、繰り返される「徹夜」の文字。
ひっきりなしに仕事の注文があったことがわかります。

ファブリ社専門のイラスタレーターとして仕事。収入増える。編集長より若手を雇ってイラスト会社を作るようにすすめられる。イラストレーターや経営者になることに自己危機を感じる。

そして立石は、再び別転地に向かいました。


タイガー立石の帰国。立石大河亞の誕生

1982年、立石はイタリアでの仕事を捨てて
千葉県夷隅郡の古い民家で新しいスタートを切ります。

当時の立石と交流があった祖父江慎さんは、
タイガー立石のマンガを集めた作品集
『TRA(トラ)』(工作舎,2010)を手がけました。
真ん中あたりで天地が逆になるしかけ、
文字がぐるぐると螺旋を描く著者略歴など、
「普通であることに対して満足しない」
「へそ曲がりであり続ける」立石の世界観を取り込んだ本は、
祖父江さんから見たタイガー立石像を表しているようにも見えます。

素晴らしい画力を使って、あえてギャグっぽい表現をしてみせる。
「「弘法」だけども木からたまに落ちてみるような変な人ですよね」と
祖父江さんは語っています。

年号が平成に代わった翌年、
立石は《明治青雲高雲》《大正伍萬浪漫》《昭和素敵大敵》(いずれも1990)の
3部作を発表します。
自分の絵は「事象や観念の収束された収納棚」だという立石らしく
明治・大正・昭和の人物と出来事をコラージュした画面は、
小野さんが大きい絵なのに「威圧感がない」と言うように
親しみのある世界を展開しているように見えました。

三部作と同年、名前も立石大河亞(たいがあ)と改名し、
全長54m、全6巻の鉛筆画の絵巻《水の巻》(1992)のような
コマ割りのない世界を描いたかと思えば、
ゴッホ、ミロ、岡本太郎など誰もが知っているアーティストとその代表作を
陶芸で表現したシリーズ(1991頃~)を制作するなど、
絶えず新たな制作に打ち込んだ立石。

そんな立石とその作品について、小野さんは「楽しそう」だと言います。
自分自身が楽しんで、それが見る側に伝染していく。
共感を呼び起こす力が強い作品。
そういえば、展覧会場を回る小野さんと山口さんも絶えず笑顔だった気がします。

住処も作品も次々と変えていった立石ですが、
作品を年代順に追いかけていくと
以前の作品との共通点やつながりが見えてくるような気がします。
それについて山口さんは、

彼の中ではきれいに分かれていたと思うんですけど
何かをやって次にいった時に否応なくそれ(前のこと)は次に響いてくる

と言います。
1992年の《七転八虎富士(しちてんばっとらふじ)》は、
虎・果物・虎と永遠のメタモルフォーゼを繰り返す虎の上空に
冠のような富士山の火口が浮かんでいる、
立石がくり返し、常に新しく描いたテーマでした。


大・タイガー立石展 POP-ARTの魔術師(千葉市美術館)

1998年の4月に56歳でこの世を去ったタイガー立石の生誕80周年を記念した大回顧展。

千葉県千葉市中央区中央3-10-8

2021年4月10日(土)~7月4日(日)

千葉市美術館での展示終了後、
青森県立美術館(2021年7月20日~9月5日)
高松市美術館(2021年9月18日~11月3日)
埼玉県立近代美術館(2021年11月16日~2022年1月16日)に巡回予定

10時~18時(金・土曜日は、20時まで)
※入場は閉館の30分前まで

毎月第1月曜日・メンテナンス日は休館

一般 1,200円
大学生 700円
小・中学生、高校生 無料

公式サイト