日曜美術館「よみがえる諏訪の仏たち」(2022.11.13)

全国1万の諏訪社の総本社であり
7年ごとに行われる勇壮な御柱祭でも知られる諏訪大社(もと諏訪神社)は、
江戸時代まで広大な神宮寺(神社に付属する寺)を併設していました。
明治の神仏分離で神宮寺とそこに祀られていた多くの仏像は失われましたが、
現在諏訪の地ではかつて神仏が共存した信仰の姿を振り返り今に伝えようとする
「諏訪神仏プロジェクト」が進められています。

2022年11月13日の日曜美術館
「よみがえる諏訪の仏たち 」

放送日時 11月13日(日) 午前9時~9時45分
再放送  11月20日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

江戸時代までの諏訪大社は、境内に多くの仏教寺院が存在する「神仏習合」の空間だった。しかし、明治の「神仏判然令」で仏教施設は破壊され、仏像も散逸した。今、諏訪では失われた仏像を再発見するプロジェクトが進行中。残された庄屋の古文書などから、仏たちの数奇な運命が明らかになってきた。さらに、破壊を免れた仏像の修復も進む。この国の「神仏習合」の歴史は古く千年を越える。よみがえった仏たちは何を語りかけるのか?(日曜美術館ホームページより)

出演
三代沢正 (公立諏訪東京理科大学)
岩崎宥全 (仏法寺住職)
渡邉匡一 (信州大学)
長谷川高隆 (信濃仏像修復所 所長)
備前宥寛 (惣持院住職)
石埜三千穂 (諏訪神仏プロジェクト企画局長)
織田顕行 (飯田市美術博物館 学芸員)
宮坂宥洪 (照光寺住職)
宮坂宥憲 (照光寺)
神山裕子 (神宮寺別当子孫)
神山桂子 (神宮寺別当子孫)
その他、プロジェクト参加者・協力者の方々


諏訪神仏プロジェクト

神宮寺を再現する

かつて諏訪神社(現在の諏訪大社)の上社・下社には
それぞれに神宮寺とその付属寺院がありました。
江戸時代の境内を現した「神宮寺村絵図」(長野県立歴史館蔵)でみると、
神宮寺の面積は神社よりも広い立派なものだったようです。

3年前に始動した諏訪神仏プロジェクトは、
諏訪社神宮寺ゆかりの仏像・寺宝を調査して
かつての神宮寺の全貌を解明しようとするものです。
神宮寺ゆかりの仏像・寺宝を所蔵する寺院・神社・博物館による
同時期一斉公開(現在開催中)のほか、
江戸時代の神宮寺の風景を復元するユニークな試みも行われています。

小野さんと柴田さんは上社の神宮寺跡を訪れ、
AR(拡張現実)で江戸時代の風景を体験しました。
モニターを通して見える当時の建物が並ぶ様子は
現在の広々とした様子とはだいぶ異なっています。
(楽しそうですが、山の中なので足元には気を付けたほうが良いと思います)
このARを開発したのは三代沢正さん等公立諏訪東京理科大学のチームです。

上社五重塔と五智如来坐像(萬福寺)AR再現のこころみ

三代沢さんのチームでは、
現在諏訪市博物館が展示している《五智如来坐像》(萬福寺蔵)の3D化も行っています。
もとは上社の五重塔の本尊だったこの仏像を
様々な角度から画像データから3Dで再現しARの五重塔に配置するのですが、
ここで問題が発生しました。

博物館で展示されているように横並びに並べると、
仏像が堂内の台座からはみ出してしまいます。
とある住職の「五智如来をまつる空間は立体曼荼羅として表される」
というアドバイスを受け、京都東寺の立体曼荼羅を参考に並べなおした結果
仏像は無事に台座の上に収まりましたが、それまでは何体か空中浮遊していたようです。

最終形は「当時あった通り」、そこに戻せなくても最も妥当か
人々の記憶にある形を再現することが目標と三代沢さんは語っています。


諏訪の神仏分離・廃仏毀釈

神仏判然令(1868)と廃仏毀釈

現在五重塔があった場所は空き地になっており、ご本尊も別の場所にあります。
理由は明治はじめの神仏分離と、それによって各地でおこなわれた廃仏毀釈でした。

6世紀ごろ日本に伝来した仏教は元々あった信仰と結びつき、
八百万の神々は仏が化身した姿であるという本地垂迹説が生まれました。
こうして日本では神と仏がまじりあった信仰が根付き、
神社の中にお寺をつくり、仏像がまつられ、社僧がいるという
神仏習合の形が長らく普及してきたのですが、
明治になって神道を国教に定めるにあたり仏教要素を取り除く神仏分離政策がとられ、
1868年(明治初年)3月に「神仏判然令」が出されました。

明治政府の政令をまとめた『太政類典』には、こんな内容がみられます。

仏像ヲ以神体ト致候神社ハ以来相改可申事
(仏像を神社でまつることを改めること)

鐘仏具等ノ類差置候分ハ早々取除可申事
(梵鐘・仏具などを早急に撤去すること)

信州大学の渡邉匡一さんによると
神仏判然令そのものは決して暴力的なものではなかったのですが、
仏像や仏具の撤去に対して「壊す」という選択肢が採られたのがエスカレートして
各地で寺院の破壊や仏像仏具の破壊が行われてしまったそうです。
諏訪の地も、廃仏毀釈の波と無関係ではいられませんでした。

諏訪神社の神宮寺はなぜ失われたのか

大正期におこなわれた廃仏毀釈の実態調査をまとめた
『明治維新 神仏分離史料(上中下巻)』
(村上専精・辻善之助・鷲尾順敬共編、東方書院、1926-1927)の中巻に、
諏訪地方でおこなわれた神仏分離の記録が残されています。

村の庄屋や村役人の日記によると、
6月の半ばに新政府の役人が神仏分離の通達に来て
神宮寺取り壊しのために人足を集めたものの
地元の人々の激しい反発もあって手が出せず、
(「手を出したら打ちころす」という声も上がったそうです)
農繁期を理由に秋まで延期することになりました。

猶予期間の間、村の人々は神宮寺を守るために手を尽くします。
この中心になった仏法紹隆寺(仏法寺)に伝わる
神仏分離への対応記録「両社仏閣・社僧寺院御廃一派諸般記」には、
仏法寺が神宮寺の堂塔を各地の寺に移転する計画を立て諸々の費用も工面したうえで
諏訪を領有する高島藩に許可を願い出たことが記録されています。
残念ながら許可は下りず、その年の秋に神宮寺は破壊されました。

移転の許可が下りなかった理由は、当時の高島藩の微妙な立場にありました。
幕末の高島藩は藩主の諏訪忠誠が老中を務める(1864-1865。長州征伐に反対し罷免)
など、佐幕派(討幕派に対して幕府を支持する派閥)でしたが、
1868年の戊辰戦争では新政府軍についています。
つまり高島藩は新政府側にとっては新参だったため、
勝手な行動が後で問題になるような事態を避けたかったようです。

神宮寺にあった仏像の一部は破壊され、一部は別の寺へ移されました。
(地元のお寺に移された仏像は100体に及びます)
仏法寺におさめられた《文殊菩薩騎獅像》(室町時代以前、上社神宮寺普賢堂旧蔵)は
左目を削られた痛々しい姿で、廃仏毀釈の跡をとどめています。


諏訪信仰を伝える御仏たち

諏訪市内にあるお寺に避難した仏像たちは長い間そのまま保存されていましたが、
20年ほど前から調査が進められています。
その中には、諏訪神社を軸として神と仏が共存する古い信仰を伝えるものもありました。
(これらの仏像は諏訪神仏プロジェクトの中で公開されています)

仏法寺の「諏訪大明神」普賢菩薩騎象像

旧神宮寺の仏像を調査する過程で注目を集めたのが、
仏法寺の《普賢菩薩騎象像》(台座鎌倉時代、像安土桃山時代、上社神宮寺普賢堂旧蔵)。
廃仏毀釈運動が激しかった時期は、神宮寺村の土蔵に隠されていました。
当時は両目と髻を失った状態でしたが、現在は元の姿に復元されています。

修復の際内側から諏訪上社の本尊「諏訪大明神」であることを示す書付が見つかり、
普賢菩薩でもあり諏訪大明神でもある
本地仏(ほんじぶつ)として信仰された像であることがわかりました。

仏法寺住職の岩崎宥全さんによると、
もとは秘仏として隠されていた普賢菩薩像をまつるために
仏法寺の普賢堂が建てられたのは先々代の住職の時。
(1978年に高野山真言宗東京別院の本堂を移築)
先代の住職の時に仏像が修復されました。
今回の公開は、仏像を守り伝えてきた人々の積み重ねの上に実現したと言えます。

惣持院の御正体

御正体(みしょうたい)とは懸仏(かけぼとけ)ともいって、
円形の板に仏像を取り付けたもの。
神仏習合の思想に基づいて平安時代ころから作られていました。
丸い板は神が宿る鏡を意味し、平安時代には鏡そのものに仏を刻んでいたそうです。
鏡などに宿って直接姿を見せることがない日本の神は
仏の形をとることで人々に姿を現すようになりました。

惣持院にある御正体
《十一面観世音菩薩像》(江戸時代、下社神宮寺旧蔵)は直径30cmほどで、
上部にある穴にひもなどを通して壁に掛けていたと思われます。
実は20年ほど前の長野県の調査で神宮寺の仏像として報告されていたにもかかわらず、
先代の住職が県の調査があったことを家族に伝えていなかったために
行方不明になりかけていました。
現住職の備前宥寛さんがたまたま
床の間においてあった厨子を開いたおかげで見つかったそうです。


宝光院に伝わる神仏習合の形

宝光院は町の人々によって管理される小さなお堂です。
蔵に保管され年に数回まつられている
《金銅薬師如来立像》(鎌倉時代、下社春宮観照寺旧蔵)も、
町内の人によって受け継がれてきました。

宝光院は堂内の飾りつけに江戸以前の伝統が残っており、
調査にあたったプロジェクトメンバーを驚かせています。
天井から四方に下げられた白い切り紙は、神道で神々の依り代として使われるもの。
ご本尊の不動明王の前には神が宿る鏡と、仏の5つの知恵を現す五色の御幣が飾られ、
古い神仏習合の形を色濃く残しています。

照光寺の「諏訪大明神」千手観音菩薩

下社で「諏訪大明神」としてまつられていた《千手観音菩薩立像及び両脇侍像》
(中尊平安~室町時代、両脇侍・厨子江戸時代、下社神宮寺千手堂旧蔵)は、
現在も照光寺の秘仏として60年に1度御開帳されるものですが、
このプロジェクトのために特別公開が決定しました。
厨子の中におさめられている高さ12㎝ほどの観音菩薩と脇侍の毘沙門天・不動明王は
小さいながらも細かいところまで繊細に作りこまれています。

諏訪大社の神宮寺で代々住職を勤めていた神山家には、
これと瓜二つの《十一面観音立像及び両脇侍像》(江戸時代)が伝わっています。
厨子のデザインはほぼ同じ、つくりと大きさもよく似ていて、
違いは中尊(中央のメインとなる仏)が十一面観音になっていることくらいです。
仏教美術が専門の織田顕行さんは、
この像が作られた時期(推定1680年頃)に大きな災害などがあって、
普段拝めない秘仏にかわる(助けを求めやすい?)仏像が必要とされたのではないか、
という仮説を立てています。
もしかすると今後の研究で明らかになるのかもしれません。

神山家のご先祖にとって神と仏に対する信仰は同じものだったはずで、
片方だけをないことにはできなかったために
下社の本地仏にそっくりな仏像を大切にしていたのではないか…と
小野さんは想像しています。


諏訪信仰と仏たち
〜諏訪上下社神宮寺由来仏像一斉公開〜
(略称:諏訪神仏プロジェクト)

企画局長である石埜三千穂さんは、
このプロジェクトを「定着させていきたい」と語っています。
今回を基礎としてこれから先も調査・研究を積み重ねていきたい、
ほかの地域のモデルケースにも、と
プロジェクトはまだまだ続いていくようです。

諏訪地域社寺25箇所、諏訪市博物館、下諏訪町立諏訪湖博物館

2022年10月1日(土)〜11月27日(日)

詳しい場所と日程は公式サイトで公開中
(寺院によって公開日が異なります)