日曜美術館「落慶 唐招提寺御影堂 〜鑑真和上と障壁画〜」(2022.6.12)

唐招提寺の開祖・鑑真和上の姿を写した《鑑真和上坐像》をお祀りする開山堂は、
もとは興福寺の塔頭として作られた歴史ある建物です。
2022年3月に竣工を迎えた開山堂を、柴田祐規子さんが訪ねました。
(修学旅行以来だという小野正嗣さんは留守番です)

2022年6月12日の日曜美術館
「落慶 唐招提寺御影堂 〜鑑真和上と障壁画〜」

放送日時 6月12日(日) 午前9時~9時45分
再放送  6月19日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

6月5日、約1250年に及ぶ唐招提寺の歴史に新たな一頁が加わる。御影堂の7年に及ぶ修理が完成、落慶法要が行われるのだ。開祖・鑑真の命日の開山忌では、久しぶりに国宝・鑑真和上坐像が公開される。8Kで丹念に撮影した映像も含め、鑑真和上坐像を細部まで鑑賞。御影堂内を彩る東山魁夷渾身の障壁画空間を味わいながら、〈寺を信仰する人々の寄進を重ねて成り立ってきた〉唐招提寺ならではの歴史の物語をひもとく。(日曜美術館ホームページより)

出演
内藤栄 (大阪市立美術館館長)
小林雄一 (美術院主任技師)
尾﨑正明 (茨城県近代美術館館長)


唐招提寺の開祖・鑑真和上について

唐招提寺を開いた鑑真(688-763)は、唐時代の中国・揚州に生まれ、
「江南第一の師」と称えられた高僧です。

742年に日本からの留学僧に願われて
日本に渡り仏教の戒律を伝えることを志したのですが、
妨害にあったり船が難破したりと様々な事情から失敗すること12年間に5回。
その間に視力を失いながらも、6回目の挑戦で日本に到着したのは753年。
鑑真は65歳になっていました。

その後10年で天皇をはじめ多くの人に戒律を指導したほか、
唐の先進的な文化や知識を伝え、貧民の救済にも取り組んだ鑑真は、
763年6月6日に76歳で死去しました。

現在も律宗の総本山として崇敬を集める唐招提寺は、
鑑真が759年に開いた戒律を学ぶ修行の道場です。


唐招提寺・御影堂を訪ねる

仏教美術の専門家で鑑真にも造詣が深い内藤栄さんの案内で、
今年3月に修理が終わった御影堂を訪れた柴田さん。
鑑真に生き写しの肖像彫刻《鑑真和上坐像》が安置されるこの伽藍は、
鑑真和上の命日である6月6日の前後3日間だけ公開されます。

国宝・鑑真和上坐像(8世紀)

実際にこの像に向き合った柴田さんは、
「本当に鑑真さんが座っているくらいのイメージ」があったと言います。
日本最古・再興の肖像彫刻と言われる《鑑真和上坐像》には
それほどの力があるということでしょうか。

白いものが混じる髭や、衣の意図の色まで細やかに再現されている彫像は、
なぜか表面の所どころに仕上げの荒い部分があります。
同じ脱活乾漆技法(粘土で作った原型に麻布と漆を貼り付け、乾かして粘土を出す)
で制作された興福寺の阿修羅像(8世紀)の均一に滑らかな表面に比べると、
明らかにザラザラ・ゴツゴツとした部分があります。

「御身代わり像」(円寂1250年の記念事業として作られた模像)
の制作にかかわった小林雄一さんによると、この不均一は
表面の仕上げに使う木屎(こくそ。漆と木屑などを混ぜて作るペースト)を
ヘラを使わずに手の指でのばすことで生まれたものでした。

わざわざ指先を使って像を作ったからには、
作者は「体に触れるような」感覚で鑑真の姿を写したいと願った人たちで、
つまり身近にいたお弟子さんではないか、というのが小林さんの推測です。

内藤さんのお話では、
先生の像を作ってお祀りする習慣はもともと中国から来たもので、
従来の日本には存在しなかったそうです。
《鑑真和上坐像》は日本で初めて作られた生前の姿をとどめる写実的な彫像として、
多くの肖像彫刻の手本となりました。


東山魁夷の御影堂障壁画(襖絵)

御影堂にある5つの部屋を飾る襖絵は
1970年に東山魁夷(1908-1999)に依頼されたものです。
62歳で依頼を受けた魁夷は、
それから10年をかけて68面の襖絵を描きあげました。
(坐像がしまわれている厨子の扉絵も魁夷作だそうです)

《濤声》《山雲》ともに1975

御影堂の中でもっとも広い「宸殿の間」には、
日本の海を描いた襖絵《濤声》が並んでいます。
壁一面に広がる海の風景を、柴田さんは「突然海が始まりました」と表現しました。

絵巻のように右から見ていくと、
岩に打ちつける沖の荒波がだんだん穏やかになり、静かな浜辺にたどり着く、
鑑真の渡航をイメージした構成になっています。

緑がかった明るい色の波を越えて奥の「上段の間」に続く襖を開くと、
今度は霧深い山の風景となります。
群青を焼いて黒くした暗い藍色は、昼も薄暗い山の深さを表しているかのよう。
山の峰から落ちる滝の音も静かに聞こえるような気がします。
(描かれた滝なので、実際に音がするわけではないのですが…)

《濤声》と《山雲》は、どちらも彩色で日本の景色を描いたもの。
失明し、実際に日本の地を見ることがなかった鑑真に捧げられました。


《揚州薫風》《黄山暁雲》《桂林月宵》すべて1980

《鑑真和上坐像》が安置されているのは、
御影堂の北側に並ぶ3部屋の真ん中にあたる「松の間」。
この部屋は鑑真の故郷である揚州の湖が墨で描かれ、
湖に浮かべた舟から風に揺れる柳の枝を眺めているような趣です。

西側の「桜の間」には、仙人が住むという伝説がある山を描いた《黄山暁雲》、
東側の「梅の間」には、豊かな川が流れる《桂林月宵》と、
中国を代表する景勝地が、やはり墨で描かれています。

東山魁夷は当初、
これらの部屋の名前から桜・松・梅を使った構想を練っていたことを
1973-74年ごろのエッセイに書いています。
(新潮選書『唐招提寺への道』に収録)

ところが《濤声》《山雲》にかかっていた1972年9月、
それまで自由に行き来ができなかった日本と中華人民共和国が
共同声明を発表して国交を結び(日中国交正常化)、両国の交流が可能に。
魁夷も1976年に「日本文化界代表団」の一員として中国へ渡航しています。
現在の襖絵の構想は、中国の風景を目にして作られたものでした。

彩色画を得意とした魁夷ですが、
中国の風景は「水墨でなければ表現しがたい」と考えて
あえて墨一色の表現を選んだそうです。

近代の日本画が専門の尾﨑正明さんは、これらの作品について
1970年代初頭には行けると思いもしなかった中国との交流が可能になり、
実際に風景を見て、その中に身を置くことがなければ描けなかった絵だと語っています。

小野さんは「内側にある記憶の中の故郷の風景」と
「見えないけれどリアルな日本の風景」が同時に存在することで
「鑑真さんそのものがこの絵によって表現されている」と感じたと語っています。


重要文化財・御影堂の歴史と鑑真和上の伝えた仏教思想

一乗院宸殿の移築から御影堂平成の大修理まで

坐像と襖絵が収められている御影堂は、もとの名前を「一乗院宸殿」といいます。
興福寺の塔頭(本寺の境内にある小寺)で、
出家した皇族・貴族の子弟が住む場所として江戸時代初期に建てられました。

それが何故唐招提寺にあるのかというと、きっかけは明治の廃仏毀釈。
これによって興福寺の境内が奈良公園となり、
一乗院も県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われることになりました。
土足で出入りできるように畳を外してあった地方裁判所時代様子が
当時の写真に残されています。

昭和30年代(1950~60年代初頭)には取り壊しが決定した建物を
《鑑真和上坐像》安置のために譲り受けたいと申し出たのが
唐招提寺の第81世長老・森本孝順(1902-1995)でした。
1964年に鑑真和上没後1200年記念事業として移築復元され
本来の姿を取り戻した一乗院は、現在まで大切に伝えられています。

2000年代には地盤沈下や雨漏りなどが問題となったため、
文化財保護のための2016年から保存修理事業が開始されます。
2022年3月31日に建物が竣工し、
その後およそ2か月をかけて、像の遷座や障壁画の設置などがおこなわれました。
6月5日には平成の大修理が完了したことを祝って落慶法要が営まれています。


御影堂地下に残る瓦窯と唐招提寺の思想

軒下の板を一枚外すと、
その下には瓦を焼く窯の遺構(奈良時代末~平安時代初め)が残っていました。
内藤さんによると、これは唐招提寺の経営を考えるうえで興味深いもの。
鑑真の私寺として生まれた唐招提寺は
皇族や有力貴族などのパトロンがいたわけではないので、
建物を建てるにしても修復するにしても、
自力でやらなければならないことや
信者からの寄進に頼ることが多かったそうです。

敷地自体、天武天皇の皇子・新田部親王(?-735)の邸宅があった場所が
鑑真に下賜されたもの。
宝蔵や経堂(どちらも国宝)は、旧宅の倉庫を改造した建物です。
同じく創建時からある講堂は、平城京の庁舎「東朝集殿」を移築しました。
仏像の多くも寄附を集めて作られています。

鑑真やその教えを慕う人たちの寄進で成り立つあり方は、
官立の仏教道場として造営された当時の寺院の中では珍しいものでしたが、
仏教の開祖である釈迦の時代には、
仏教者の生活を信者が支えるのは一般的なあり方でした。
(現在も仏教が盛んな国では日常的に托鉢が行われています)

唐招提寺は、鑑真が奈良時代の日本に
釈迦の時代(紀元前6世紀ごろ?)以来の仏教の姿を伝え、
御影堂の移築もまた、代々受け継がれてきた教えを実践する一環として行われたと
内藤さんは指摘します。

もちろん鑑真の教えは
寄進を「受ける」だけではなく「与える」ことでもありました。
(寄進をする人も徳を積むことで恩恵を受けるわけですが、それはそれとして)

内藤さんによると、5度の失敗にくじけることなく来日した理由は
仏教経典のひとつである『梵網経』にあるそうです。
「仏教者が訪ねてきたら最大限もてなさなければならない」という戒があり、
鑑真は戒を守って日本から訪ねてきた僧侶の頼みに応じ、
己の持つすべてを日本の地に伝えてくれたといいます。
「教えを守っただけ」というと軽いように感じますが、
鑑真の人生を見る限り、なみの人間にできることではありません。

日本に限らず、全世界のあらゆる仏教者に対して
できる限りのことをするという信念をもって活動した鑑真は
(渡航に失敗し続けた12年の間にも、各地で伝道や教化に励んでいたそうです)
「仏教者として自分に厳しく、それを実行された方」であると、内藤さんは語っています。

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