日曜美術館「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々〜」

2020年4月12日の日曜美術館は「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々」でした。
中止になった「法隆寺金堂壁画と百済観音」展(東京国立博物館 本館)の会場から、
金堂壁画と向き合った人々の姿と焼損した壁画が再現されるまでの軌跡をたどります。

2020年4月12日の日曜美術館

「法隆寺の至宝〜金堂壁画をよみがえらせた人々〜」

放送日時 4月12日(日) 午前9時~9時45分
再放送  4月19日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

日本人の心のふるさと、法隆寺。金堂には、飛鳥時代の珠玉の仏像とともに、世界に比類のない仏教壁画が伝えられてきた。明治、大正、昭和と真摯に仏の姿を模写し、壁画に向き合い続けた画家たち。記録事業の際、ひそかに貴重なカラー写真での撮影に挑戦していた撮影技師。ひとりひとりの熱意が、戦後思いがけず火災で焼けた金堂壁画の再現へとつながっていった。開催中止が決まった東京国立博物館の展覧会の様子も紹介する。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
有賀 祥隆 (美術史家)
篠原ともえ (デザイナー・アーティスト)

出演
荒木かおり (文化財修復・絵師)
稗田 一穂 (日本画家)
山内 崇誠 (文化財撮影技師)


法隆寺金堂壁画(ほうりゅうじこんどうへきが)とは

奈良県の斑鳩町にある法隆寺は、幾つもの伽藍が集まっている仏教施設です。
創建は7世紀(飛鳥時代)。
中でも西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群として
すべての建物が国宝に指定されています。
その中心となる金堂(本尊を安置する場所)の堂内を飾る装飾のうち
外陣(一般の人々が拝礼する場所)の土壁に描かれた壁画が
「法隆寺金堂壁画」と呼ばれるものです。

1号壁 釈迦浄土図
2号壁 菩薩半跏像
3号壁 観音菩薩立像
4号壁 勢至菩薩立像
5号壁 菩薩半跏像
6号壁 阿弥陀浄土図
7号壁 観音菩薩立像
8号壁 文殊菩薩坐像
9号壁 弥勒浄土図
10号壁 薬師浄土図
11号壁 普賢菩薩坐像
12号壁 十一面観音立像

の12面で構成される(描かれている主題については異説あり)これらの仏画は
ゲストの有賀先生によると「前にも後にもない、そのくらい優れた仏教絵画」
おそらく当時トップクラスの絵師による質の高いもので、
国宝のさらに上「至宝」と呼ばれているとか。

仏像の周りに仏画を配置するのは、
お参りに来た人たちが一目見て理解できるように仏の世界を示すためだそうです。
飛鳥時代と言えば現在使われている文字が作られた時期よりも前。
(万葉仮名は8世紀、ひらがなは8世紀末から9世紀に誕生したと言われています)
公式文書が漢文で書かれていた頃ですから、
一般の人々に教えを広めるためには目に見える形が必要だったのかもしれませんね。


明治の金堂壁画記録事業と大正~昭和の仏画師鈴木空如のこと

仏の世界を知らしめるために当時最高の絵師が腕を振るっただろう金堂壁画は
1000年以上の時が過ぎても人々を引き付け、
明治時代には日本美術に興味を持ったヨーロッパの人々からも注目されました。
1884年にイギリスの外交官アーネスト・サトウの依頼で
大阪の絵師桜井香雲(1840-1902)が9号壁の模写をおこなっており、
これは現在大英博物館に所蔵されています。
外国人からの評価が高まったことで金堂壁画の価値が徐々に認められるようになり、
1887年頃には政府が12面すべての模写を桜井香雲に依頼しました。
これにはシミや傷などもそのまま写し取る「現状模写」がおこなわれ、
2年がかりで完成したそうです。

コレクターや国からの依頼というわけではなく、
自発的に金堂壁画の模写をおこなったのが仏画師の鈴木空如(1873-1946)でした。
1922年、1932年、1936年と生涯で3度、12面すべての模写を実寸で行っています。
(合計36枚!?)
25歳で東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)に入学し、
卒業した後は画壇に属することなく、
仏教美術の研究と金堂壁画の模写に没頭したそうです。
その原動力は10代の時に出征した日清戦争での体験や
一人娘を5歳で亡くしたことだったかも知れませんが、
仏画から読み取れることはありません。
仏画は感情(邪念)をこめたり描く人の個性をだしてはならず、
線も均一な太さの線(鉄線描)で描き切るのだそうです。
空如も模写をするにあたって大量の下図を残しており、
線の描き方にこだわっていたことが見て取れます。

ゲストの篠原ともえさんも写仏の経験があり、
絵に感情が入ってしまったりすることが難しいと話していました。


昭和15年(1940)の模写事業から金堂の火災まで

1934年、文部省(当時)に法隆寺国宝保存事業部がつくられ、
「昭和の大修理」と呼ばれる伽藍の解体修理が開始されました(1954年に完了)。
明治の初めごろには既に劣化や表面の剥落がはじまっていた
金堂壁画の保存も考えられるようになり、
1935年には京都の便利堂が壁画の写真を撮影しています。
1939年には法隆寺壁画保存調査会が設置され、
美術・歴史・自然科学など様々な分野から壁画の保存が検討されました。
壁画そのものを保存するのと並行して現状模写の制作計画が立てられ、
1940年に開始された模写事業では
4名の日本画家がそれぞれ数名の助手を使い、分担して模写作業を行いました。
このうち3名は東京の画壇からの参加であり
京都画壇の入江波光(1887-1948)は参加のために文部省に陳情したと
波光の孫で文化財修復の専門家である荒木かおりさんが語っています。
(荒木さんは波光の助手として参加した川面稜一(1914-2005)の娘でもあります)

この事業は第二次世界大戦で日本が戦時体制に入ったために
1942年ごろから1945年の終戦直前まで一時中断。
そして1949年の1月26日、
金堂に火災が発生し金堂壁画がひどく焼損したことで中止を余儀なくされました。
オリジナルの壁画は土壁に白土を塗った上に彩色したものだったために
形はそのまま残りましたが、
彩色のほぼ全てが失われて輪郭だけが黒っぽく残っている状態でした。
これらは1951年に建てられた焼損金堂壁画収蔵庫に収められ、
特別な機会に限定公開されています。
現在はさらに一般公開する準備が進められているそうです。

火災の原因は模写の際に持ち込まれた電気座布団ではないかと言われていますが、
模写作業の照明として使われた蛍光灯から出火した説や放火説などもあって
真相は分かっていないようです。
文化財保護委員会(現文化庁)と国家消防本部(現消防庁)は、
1955年に火災のおきた1月26日を文化財防火デーに定めました。


文化財保護法の成立と昭和42年(1967)の再現模写事業

金堂壁画の焼損は国内に衝撃を与え、文化財保護に関する議論が活発になりました。
この事がひとつの契機となって、1950年に
文化財の保護と活用、国民の文化的向上、世界文化の進歩への貢献を目的とする
「文化財保護法」が成立します。

そして1967年に
日本画界の大御所であった安田靫彦(1884-1978)等を中心としたチームが組まれ、
金堂壁画再現模写事業が開始されました。
和紙に原寸大写真を印刷したものを下図とし、細かい点描を打って彩色。
完成した絵をパネルに嵌め込んで金堂の壁に取り付けたそうです。

模写にあたっては鈴木空如の模写が重要な参考資料とされました。
また1935年の記録撮影の際、
原寸大のモノクロ写真のほかにカラー写真が撮影されていて
火災で失われた色彩が記録されていたために
元の絵に限りなく近い再現が可能になったそうです。
当時の日本ではカラーフィルムが普及しておらず、
カラー写真はフィルターを用いた4色分解によって撮影されました。
カラー撮影は便利堂の主任技師だった佐藤浜次郎の独断で行われたそうです。

新しい壁画は1968年2月に完成し金堂に設置されます。
何かのタイミングがずれて要素がひとつでも欠けていたら
再現模写の完成はなかったかもしれません。


東京国立博物館「法隆寺金堂壁画と百済観音」展(開催中止)

この展覧会では現在の金堂壁画のほかに歴代の優れた模写や
国宝・百済観音をはじめとするゆかりのある仏像が一堂に会する予定でしたが
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、中止が決定しました。
チケットの払い戻しは緊急事態宣言が解除され次第開始、
展覧会の公式図録やグッズ類の販売は検討中だそうです。

番組内ではそれぞれの模写を見比べて、
鈴木空如の3度にわたる模写では
最初のものが傷や汚れがはっきりと再現されているのが
回数を重ねるごとに損傷は薄められ仏の姿がはっきりと描かれるようになっている点や、
初めて蛍光灯が使われた1940年の模写事業でつくられたものは
ロウソクに頼っていたそれまでの模写よりも背景が明るく
衣装の細かい模様まで写されている点が話題となっていました。
自分の目で確かめられなかったのは本当に残念です。

会場内の様子は、公式ウェブサイトで公開している動画(36秒)でも
少しだけ見ることができます。