2020年4月19日は日本と西洋の美術史に見える「疫病」の美術です。
疫病に直面すれば負の側面が現れ、それでも乗り越える力を生み出そうとする…
何百年も前から変わらない人の心とそこから生み出された美術の歴史をたどり、
疫病の守り神として最近話題のアマビエにも注目します。
スタジオは小野さんがモニター出演、
他の出演者もパソコンのモニターから出演という珍しい回ですが、
今の状況が続けばこれが普通になるのかも知れません(!?)
(2021年2月7日 午前9時からアンコール放送)
2020年4月19日の日曜美術館
「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」
放送日時 4月19日(日) 午前9時~9時45分
再放送 4月26日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
「疫病」をテーマとした美術をとりあげ、人間はどのように疫病と向き合い乗り越えてきたかを探る。小池寿子さん(西洋美術史)は中世ペスト期のイタリア壁画を読み解き、疫病の流行を経てルネサンスが準備されたと語る。山本聡美さん(日本美術史)は疫病を〈鬼〉の姿で表した絵巻を例に、可視化することで制御し病と折り合おうとしたと解説。ネットで護符として流行の妖怪「アマビエ」も登場、〈心が前に向く美術〉をご一緒に。(日曜美術館ホームページより)
出演
山本聡美 (日本美術史家/早稲田大学教授)
小池寿子 (西洋美術史家/國學院大學教授)
長野栄俊 (福井県文書館司書)
疫病とは何か?
「疫病」とは、細菌やウイルスによって引きおこされる「感染症」
(または「伝染病」)が爆発的に広まった時の呼び名です。
感染症は限定した地域にとどまっている場合は「風土病」と呼ばれ、
感染源となるものが運ばれて新しい土地で大流行すると「疫病」になります。
現在の新型コロナウイルス(COVID-19)の大流行はまさしく「疫病」なのです。
伝染性の病気はワクチンなど有効な対処法がみつかるまで
感染ルートとなる人と人の接触を減らして感染者の増加を抑えなければなりません。
完全にゼロにできなくても患者の人数を少なくすることで
医療の現場で働く人たちの負担が減って患者一人ひとりに手が届きやすくなります。
医療の手が届きやすくなれば重症化や死亡してしまう人の数を減らすことができますし
対処法が見つかった時も速やかに対応することができます。
そういった理由から外出自粛が続いているのが現状で、
スタジオでも司会の小野さんはモニター越しに参加している状態です。
小野さんは目に見えない病気に対する不安と自由を制限される苦痛について、
自由に外に行くことができず美術館やアートスポットに行くことができない、
もちろん作品を見ることもできない、
「そのことがもたらす心理的な苦痛の大きさに
困惑と驚きが冷めやらないというのが実感です」
と語っていました。
日本人はいかにして疫病と向き合ってきたのか?
人類史上、疫病が蔓延するのはこれが初めてというわけではありません。
知識も情報も今よりずっと少ない時代に、人は疫病とどう向き合ってきたのでしょうか。
病と死をテーマに中世の日本美術を研究している山本先生によると、
近代以前の日本人は
「大前提として疫病と戦うという発想が現代人とくらべると低かったのかもしれない」
そうです。
過去の日本では、恐ろしいものと向き合って共生する方法を
祭り・美術・音楽・和歌などの芸術、
あるいは祈りという形で生み出してきました。
国宝 《釈迦三尊像》 病回復への祈り
聖徳太子ゆかりの法隆寺金堂の本尊として安置されている釈迦三尊像。
寺伝によると釈迦如来を挟んで立つ脇侍は
人々に薬を与えた功徳で菩薩となった「薬王菩薩・薬上菩薩」と伝えられています。
(これには異説もあるようです)
像の背後にある蓮弁形光背の裏面には
この仏像を作るにあたって太子の病が回復すること、
亡くなるならば極楽に往生する願いをかけたと記されています。
結局太子は制作が発願された翌年622年に亡くなり、
仏像はその1年後に完成しました。
太子の母と后も亡くなっていることから、疫病だったと考えられています。
国宝 《辟邪絵「天刑星」》と国宝 《六道絵「大道苦相図」》 疫病の姿を描く
12世紀末の辟邪絵(邪悪なものを退治する神々を描いた絵)では、
疫病は小さな鬼の姿で描かれています。
4本の手でその鬼を捕え酢に浸して食べてしまうという神は
よく見ると1本の手にかじりかけの鬼の胴体を持っている恐ろしい姿。
恐ろしい疫病がそれ以上に恐ろしいものに喰い殺される姿をみて
当時の人たちは安心したのかも知れません。
もちろん神に対しては無力な疫病も人間相手には猛威を振るうわけで、
13世紀後半の大道苦相図に登場する疫病は
病に苦しむ患者に小槌をふりおろす鬼の姿で描かれています。
(疫病=鬼の姿はこの頃定着しました。)
《融通念仏縁起絵巻(清凉寺本)》 疫病退散のストーリー
15世紀初頭に制作された《融通念仏縁起絵巻》は念仏の大切さを普及するためのもので、
天然痘が蔓延して大勢の疫鬼が仏事をおこなっている道場の門まで押しかけてきた時
主人が仏事に参加している人の名簿を見せ
「ここはこれだけの人数が念仏をしている場所である(鬼のいる場所ではない)」と諭すと
念仏の功徳に恐れ入って退散していったという物語が収録されています。
様々な形をした疫鬼もなんだか愛嬌のある姿で、
言われるままに退散していくストーリーもユーモラスです。
山本先生によるとこういった作品は、
疫病に特定の姿を与えることで絵巻を見る人々に安心を与える効果があるそうです。
現代でも電子顕微鏡でとらえたウイルスの姿が報道されると
「得体のしれない何か」ではなく「こういうもの」であると認識し
理解するための第一歩に繋がるものです。
疫病にあらがう術がなかった過去の日本人も
美術品や物語によって疫病という存在を把握して心の準備をし、
神仏の加護によって疫鬼が退治されたり押し戻されたりする物語で
先が見えない疫病の流行にも必ず終わりが来ることを理解して恐れを和らげてきました。
国宝《平家納経》 不安と恐れの中でより美しいものを求める心の働き
過去の美術には、災害や疫病で疲れた心のケアという役割もあったようです。
疫病のほかに災害や戦乱などによって社会不安が高まった12世紀の中ごろ。
この時期の人々は不安と比例するかのように美しいものを求め、
日本美術史はひとつの黄金期を迎えました。
たとえば平清盛が一族の繁栄と世の平安を祈って厳島神社に奉納した《平家納経》は
中に描かれた字や絵(大和絵)の美しさはもちろん、料紙にも金銀を散らし、
水晶の軸に金銀の装飾金具をつけた表具、それを納める箱にまで
工芸技術の粋を尽くした贅沢で美しいものです。
(その清盛が最後は熱病で没したことを思うと何とも皮肉なものを感じます)
華やかな山鉾の巡行で全国から観光客が集まる祇園祭は
(その為に今年の巡行中止になる方向で検討されているそうですが…)
もともと疫病を封じるためのお祭りでした。
同じ理由で始まったお祀りは日本各地にあります。
美しいものの背景にはそれを作りだした願いの大きさ、
ひいてはモチベーションとなった社会不安が見えてくるのです。
もしかしたら死んでしまうかもしれないと思いながら暮らしている時
人を支えてくれる神仏のサポートとして
日本の「疫病の美術」はより美しく発展しました。
キリスト教社会の疫病解釈とルネサンスまで
死生観をテーマに中世の西洋美術史(とくに宗教美術)を研究している小池先生は、
「こうした未曽有の体験を自分自身がするとは思っていなかった」と語っています。
ヨーロッパの死生観の形成に、疫病は切り離せないものでした。
カンポ・サントのフレスコ画 神罰としての病
おびただしい数の死体の上で翼のある悪魔が舞い、
狩りを楽しんで帰って来た貴族の一行が死体をおさめた棺に怯え
それに対して修道士が神の教えを説いています。
イタリアのピサにある修道院の
カンポ・サント(イタリア語で聖なる場所=墓地)に描かれた
フレスコ画(シノピエ美術館所蔵)は
災害や疫病が相次いだ当時(14世紀半ば)の病観を分かり易く表現しています。
キリスト教社会では伝統的に疫病や突然の死は
罪に対して下される神の罰だと信じられていました。
ゆえに悔い改めてひたすら神の救いを求めるべきだという価値観は
1348年からヨーロッパ全土に蔓延したペストによって大きく揺らぐことになります。
ハルトマン・シェーデル『世界年代記』 人間の負の側面の記録
ヨーロッパの人口を3割減らしたと言われるペストの流行
その真っ最中に作られた作品は(当然ながら)少ないのですが、
後世に書かれた書物の挿絵などから当時の様子を知ることができます。
次々に人が死んでいく悲惨な状況の中
「神は本当に救ってくれるのだろうか?」という信仰の揺らぎが生まれました。
ハルトマン・シェーデル『世界年代記』の木版挿絵(1493)には
ニセ予言者が民衆を煽ってデマを飛ばす様子が描かれています。
さらにデマがデマを呼び、
攻撃しやすい相手(多くは社会的弱者)に矛先が向けられた結果
ユダヤ人を疫病をもたらす原因と決めつけて火あぶりにする様子が描かれたものも。
集団心理が異常に働いて「敵」と決めつけた相手に負の感情が集中する構図は
今の社会でも頻繁に見られるものです。
死の舞踏からルネサンスへ 人間精神に生まれた大きな変化
ペストの蔓延がピークを過ぎた15世紀、
ヨーロッパ各地で「死の舞踏」と呼ばれる
生者(国王・教皇から庶民まで)と死者が入り混じった絵が描かれ始めました。
エストニアの首都タリンにある聖ニコラウス聖堂(ニグリステ博物館)の壁に描かれた
「死の舞踏」には、聖職者や国王が死者と手を取り合って踊る姿が描かれています。
死から逃れようとするのではなく、
逃れられないものと受け入れて向き合おうとする思想の誕生。
人の「生」を見つめるルネサンスの芸術は、死を見つめた先に生まれました。
聖母マリアの姿 人間味ある宗教芸術の登場
思いもよらない苦難にあったとき人間はなりふり構わず負の側面を放出しますが、
全てを出し尽くして収束した後は
立ち止まって「人間とはどうあるべきか」と考える時期がやってきます。
暗いトンネルを抜けた人間の中には
負の側面から美しい側面へ向かおうとする作用が生まれます。
そして生れたルネサンス芸術は人間の生を礼賛するもの。
そのことを分かりやすく表しているのが聖母マリアの姿です。
1346年頃描かれたバルトロメオ・ペンラーノ・ダ・カモーリの《授乳の生母》など
教会の象徴にふさわしい厳粛な姿で描かれていたマリア像は
ルネサンス期に入ると
フィリッポ・リッピの《聖母子と二天使》(1465)や
サンドロ・ボッティチェッリの《石榴の聖母》(1487)のように
親しみやすく可愛らしい、
きれいなお姉さんや優しいお母さんのような姿で描かれるようになります。
新型コロナウイルスと今を生きるアート
現代でも、既に疫病の美術が生まれています。
番組ではSNS上で話題となり、
厚生労働省の感染予防キャンペーンのマスコットになってしまった「アマビエ」と
京都造形芸術大学に設置された《KOMAINU―Guardian Beasts-》が紹介されました。
アマビエ 疫病のお守りになった妖怪
アマビエは弘化3年(1846)のかわら版『肥後国海中の怪』に登場する妖怪で
長い髪と嘴、魚のような鱗を持った姿をしており、
6年の豊作と疫病の流行を予言して
自分の姿を写して人に見せるように告げたといいます。
他にアマビエが登場する資料はないようですが、
福井県文書館の長野さんによるとアマビエの元になったのは
『越前国主記』『青窓紀聞』などの資料に記述がある
アマビコ(海彦)という3本足の猿の妖怪とおもわれ、
「エ(ヱ)」と「コ」を書き間違えたかわざと書きかえたかしたものだろうと
研究者は考えているそうです。
たしかに、アマビエの絵を見ると足(尾びれ?)が3本あって、
元は同じだったのが何かの拍子に進化したと言われると納得できます。
このアマビコは「私の姿を見るものは無病長寿」と言っており
明治15年にコレラが流行した際はその姿を描いた錦絵がお守りとして売られていました。
アマビエの方は御利益に言及していないのですが、
そこから枝分かれしたからには同じ御利益が期待できるかもしれません。
山本先生のお話では
縁起物(ダルマなど)や強い力を持つ存在(武者、金太郎など)といった
社会に広く共有されているイメージを身に付けてお守りにする習慣は古くからあって
それは江戸の「疱瘡絵」(天然痘除けのお守りとして売られた版画)などで確認できます。
現代のSNSで広まっているアマビエチャレンジですが、
根底にある思想は江戸時代には既に存在した由緒正しいもののようです。
SNS上では2020年2月の終わりくらいから
アマビエのイラストや漫画が投稿され始めました。
日曜美術館ではアマビエが流行したひとつの契機として
トキワセイイチさんの漫画『アマビエが来る』(2020年3月6日)をとりあげ、
ほかにもヤマザキマリさんのイラスト(3月19日)、
中村佑介さんのイラスト(3月21日)、
さかざきちはるさんのイラスト(4月2日)、
井上淳さんの動画(4月2日)などを紹介しています。
(井上さんの動画にはアマビコも出演)
《KOMAINU―Guardian Beasts-》 鬼門を守る守護獣
比叡山延暦寺の「一隅(いちぐう)を照らす運動」50周年を記念して
2019年11月に開催されたアートとカルチャーのイベント「照隅祭」にあたり
現代美術家のヤノベケンジさんが奉納展示した
《KOMAINU―Guardian Beasts-》(2019)が
2020年3月21日から京都造形芸術大学瓜生山キャンパスに設置されています。
ヤノベさんは同校の美術工芸学科教授でもあり、
制作にあたっても10人の学生たちが参加しています。
黒と銀のボディに赤く輝く目をした獅子と狛犬は
8月まで大学の正面ピロティに展示され北東(鬼門)から京都市内を見守る予定です。
現代の疫病の美術
過去の人々は人知の及ばない疫病に襲われたとき
それと向かいあう工夫のひとつとして疫病の美術を生み出しました。
そういった作品はかつてあった疫病を乗り越えた証拠であり、
現在のわたしたちに心の余裕を与えてくれます。
また、かつて放出した負の側面を留める美術や記録があるからこそ
自分の持つ負の側面に直面した時も
かつての教訓を活かして立ち止まることができます。
いまどこかで作りだされている「現代の疫病の美術」も
遠い未来で誰かを支える存在になるのかも知れません。