2024年の10月に10周年を迎える「中村屋サロン美術館」は、東京都新宿区、新宿通り沿いにある「新宿中村屋ビル」の3階にある小さな美術館。
中村屋の歴史とも深いかかわりがあります。
中村屋サロン美術館(新宿)について
新宿中村屋ビル3階の美術館
「中村屋サロン美術館」は、現在の新宿中村屋の本店「新宿中村屋ビル」が旧新宿中村屋本店から立て替えられた2014年10月29日、ビルの3階にオープンしました。
彫刻家の荻原碌山・画家の中村彝など、明治から昭和初期にかけて中村屋に集った文化人たちの作品などコレクションを中心とする展示の他、講演会・ギャラリートーク・ワークショップといった活動もおこなわれています。
また毎年2名の現代アーティストが参加し、それぞれが次の年に展示するアーティストを指名する「中村屋サロン アーティストリレー」というユニークな展覧会も。
新宿中村屋ビルは、JR新宿駅東口から新宿通りを四谷方面に徒歩2分の場所です。
地下から行く場合は、東京メトロ新宿駅のA6出口(丸ノ内線新宿駅の改札からすぐ)からビルのB1階が直結しています。
概要
東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階
火曜休館(祝祭日の場合は開館し、翌日休館)
年末年始休館
10時30分~18時(入館は17:40まで)
入場料は300~500円程度(2024年現在。展示によって異なる)
高校生以下無料
障害者手帳の呈示で本人および同伴者1名無料
年間パスポート 1,000円
入館月から翌年同月末日まで(約1年間)有効
中村屋の創業者夫妻ー相馬愛蔵と黒光(良)
新宿中村屋の創業者夫妻の名は相馬愛蔵(1870-1954)と黒光(1876-1955。旧姓は星。本名は良)といいます。
近代的な考えを持ち芸術・文化に理解が深かった夫妻が、新宿に中村屋というパン屋を開いたことがすべての始まりでした。
相馬愛蔵
相馬家は長野県の東穂高村(現在の安曇野市)の旧家で、愛蔵の祖父の代まで代々庄屋を務めていました。
相馬家の長男に生まれた愛蔵は、東京専門学校(現在の早稲田大学)を卒業後、地元で養蚕の研究をおこない、養蚕に関する本も出版しています。
また東京では新宿牛込にあるプロテスタント系のキリスト教会に通い、郷里でもキリスト教思想に由来する禁酒運動の会を立ち上げるなど、先進的な思想家でもあったようです。
相馬黒光
黒光の実家である星家は仙台伊達藩に仕える士族でした。
明治に入ってから衰退し、藩の要職を務めた黒光の祖父が亡くなってからはますます困窮したそうです。
黒光は子どもの頃から向上心の強い女性で、家族の反対を押し切って高等学校に進学、後に宮城女学校・横浜のフェリス和英女学院を経て、明治女学院に進学しました。
尋常小学校初等科の頃から教会の日曜学校へ通い、のちにキリスト教の洗礼を受けています。
新宿中村屋の始まり
愛蔵と黒光は、1897年に結婚しました。
その後しばらく東穂高村で暮らしていた夫妻は、体調を崩した黒光の療養のため1901年に東京に出ます。
そして本郷の東京帝国大学(現在の東京大学)の赤門前で営業していたパン屋の「中村屋」を居抜きで(道具・職人・店員まで含めて)購入し、開業。
これが中村屋の始まりでした。
もとの中村屋は中村萬一という人が始めたお店でかなりの人気店でしたが、放漫経営で傾きかけていたそうです。
相馬夫妻は実際に開業を決める前、1日の食事のうち2食をパンにする生活を3カ月続けて、パン屋という商売に将来性があるかを実験していました。
中村屋はこの時に毎日パンを買った店でもあり、味や品質が分かっていたことも購入の決め手だったのかもしれません。
本郷店は1919年まで営業していました。
1907年、中村屋は新宿に売店を出します。
1909年にはパンの製造所などを備えた新たな新宿店がオープンし、この新宿店が現在まで続く新宿中村屋の本店になりました。
中村屋サロンの始まり
現在の「中村屋サロン美術館」の基礎となった「中村屋サロン」は、相馬夫妻と交流があった芸術家・演劇人・作家など文化人の集まりでした。
その始まりは愛蔵と同郷の彫刻家・荻原碌山。
ほかにも高村光太郎・中村彝・会津八一など、近代日本の芸術・文化史に名を残す人々が名を連ねています。
相馬夫妻と中村屋サロンの成り立ちを語る書籍『新宿ベル・エポック』(石川拓治著。小学館、2015)を中村屋サロン美術館のショップで買うと、荻原碌山の《女》と中村彝の《小女》をあしらったオリジナルのブックカバーが付いてきます。
中村屋サロンと荻原碌山
荻原碌山(1879-1910。本名は荻原守衛)は相馬家が庄屋を務めていた東穂高村の出身で、愛蔵の弟分でした。
もともと絵や文学に興味があった碌山は黒光とも芸術の話題を通じて親しくなります。
碌山が西洋美術を志すようになったきっかけは、黒光の嫁入り道具の中にあった油彩画(長尾杢太郎の《亀戸風景》)を見たことだと言われています。
碌山は1901年に渡米し、アメリカとフランスで美術を学びます。
初めは画家を目指していた碌山ですが、フランスでオーギュスト・ロダンの《考える人》を見て衝撃をうけ、彫刻家を目指すようになりました。
代表作のひとつ《鉱夫》(1907)は、パリのアカデミー・ジュリアンで学んだ頃の習作です。
1908年に帰国した碌山は新宿にアトリエを構え、そこにアメリカやパリで知り合った知人や西洋に憧れる芸術家が訪れるようになります。
碌山がアトリエで制作に打ち込んでいる時を除いてほぼ中村屋に入り浸る生活を送っていたため、訪ねてくる仲間たちも次第に中村屋に集まるようになり、中村屋サロンと呼ばれるようになりました。
1910年、碌山はいつものように中村屋で雑談している最中に突然血を吐き、亡くなりました。
死の直前に完成した《女》(1910。1967年に石膏原型が重要文化財に指定)は、彼が密かに恋していた黒光がモデルと言われています。
中村屋サロンと中村彝
中村彝(1887-1924)は中村屋サロン美術館の看板になっている《小女》(1914)の作者で、海外留学から帰った碌山の周囲に集まった若い芸術家のひとりです。
碌山亡き後、中村屋サロンの中心でもありました。
彝は旧水戸藩士の三男(3男2女の5人兄弟)ですが、早くに両親と兄弟を亡くし、身内は嫁いだ姉がひとりいるだけでした。
17歳の時に結核を患ったことで軍人の進路をあきらめ、療養のために訪れた千葉で洋画家を志します。
彝は1911年から4年ほど、中村屋の裏手にあったアトリエで暮らしていました。
(このアトリエは碌山が友人の画家・柳敬助のために建てたもので、愛蔵が資金を出しています)
この時期に相馬家の長女・俊子(1898-1925。のちに防須俊子)をモデルにした作品を数点制作しており、《小女》もそのひとつ。
俊子は当時女子聖学院の寄宿舎で暮らしていて、週末家に帰った時にモデルを務めていたそうです。
彝は俊子に好意を抱くようになり求婚しますが、結核を理由に黒光から反対され失恋。
中村屋を去った彝は1916年に下落合でアトリエを構え、結核が悪化して亡くなるまでここで暮らしています。
彝のアトリエは、新宿区立中村彝アトリエ記念館として公開されています。
中村屋サロン美術館と「インドカリー」の意外なつながり
1915年、彝が去った後のアトリエにはインドの独立革命家ラス・ビハリ・ボース(1886-1945。1923年に帰化して「防須」)が匿われています。
植民地政府に指名手配されていたボースは、武器の入手のために日本に密入国していました。
武器のインドへの輸送が発覚したため、イギリス政府が日本にボースの国外退去を要求し、日本は日英同盟に従ってボースに退去を命じました。
ボースの国外退去に反対する頭山満・犬養毅といった人々は、ボースを中村屋に匿うことにします。
学校を卒業した俊子は日本語がわからなかったボースの通訳になり、その後の逃亡生活にも中村屋との連絡係として同行。
1918年に俊子とボースは結婚し、同年にイギリス政府の追求も終わりました。
俊子は1925年に亡くなりますが、ボースはその後も日本で暮らし、中村屋の役員に迎えられます。
中村屋が喫茶部を作る際、ボースはメニューにインド式のカリー(断じてイギリス式ライスカレーではない)を加えることを提案し、鶏肉や米から厳選したメニュー開発にも携わりました。
「恋と革命の味」で知られる新宿中村屋の名物「純インド式カリー」は、碌山が遺したアトリエと、彝のミューズだった女性の存在がなければ生まれなかったかもしれません。