静嘉堂文庫美術館の丸の内移転 ― 重要文化財・明治生命館で国宝を

現在東京都千代田区・明治生命館の1階にある静嘉堂文庫美術館の展示ギャラリー(静嘉堂@丸の内)は、静嘉堂文庫美術館の開館30周年に当たる2022年10月1日に世田谷区から移転したものです。

静嘉堂文庫美術館の移転から静嘉堂@丸の内オープンまで

静嘉堂文庫美術館の公式ホームページはこちらです
(東京都千代田区丸の内2丁目1−1 千代田区丸の内2-1-1 明治生命館1F)

静嘉堂文庫美術館の移転 ― 千代田区丸の内へ

静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区岡本)は、静嘉堂文庫展示館(1977年6月~1988年3月)にかわる美術品専門の展示施設として1992年にオープンし、「中国陶磁展」(1992)から「旅立ちの美術」展(2021)まで計114回の展覧会が開催されました。

長らく親しまれてきた静嘉堂文庫美術館ですが、東急線二子玉川駅からバスで10分とアクセスに難があり、より多くの人が訪れる美術館を目指して移転することに。
2022年10月の静嘉堂文庫美術館移転、および開館記念展覧会予定について(pdf)

世田谷最後の展覧会となった「旅立ちの美術」展は会期の途中に緊急事態宣言の発令にともなう長期休館(4月25日~6月1日)があったものの、当初の予定期間(4月10日~6月6日)から1週間延長して6月13日まで開催され、静嘉堂文庫所蔵の国宝7点が全て公開される、美術館の締めに相応しい展覧会となりました。

千代田区丸の内・明治生命館でリニューアルオープン

静嘉堂文庫の新たな展示ギャラリーは、美術館の開館30周年・三菱の創業150周年にあたる2022年10月1日に東京丸の内の明治生命館(1階北側)に移転し、「静嘉堂@丸の内」としてリニューアルオープン。
ギャラリーは4つの展示室で構成され、総面積は世田谷の1.5倍になりました。
(美術品の保存管理・研究などの業務は元の場所で継続されます)

記念すべき第1回目の展覧会は、2022年11月27日の日曜美術館でも紹介されました。

岩﨑彌之助と丸の内美術館の構想

現在の丸の内は、1890年に三菱の2代目社長である岩﨑彌之助(1851~1908)が政府の要請で買い取った土地(元は陸軍の施設)に建設されたオフィス街がもとになっています。
このころ、三菱には美術館などの文化施設を造る計画があり、当時三菱のオフィスビルを手がけていた建築家のジョサイア・コンドル(1852-1920)が作成した美術館の図面が残っています(1892、三菱地所株式会社蔵)。

この丸の内美術館は実現しませんでしたが、図書室やレクチャールームなども備えており、美術品を飾るだけの場所ではない、近代的な美術館になるはずだったようです。

丸の内美術館の構想と静嘉堂文庫の展示ギャラリー移転に直接の関係はないのですが、100年以上の時をかけて美術館の計画が実現したと考えると、渋い歴史ドラマを見ているような気分になります。


明治生命館(重要文化財)のこと

新たな美術館を内包する明治生命館は、日本の近代洋風建築を代表する建物のひとつ。
1997年には昭和の建築物では初の重要文化財指定をうけました。
昭和初期に作られたオフィスビルの傑作であり、明治安田生命保険の本社屋であり、隣接する明治安田生命ビル(2004年に竣工)とともに活用されている現役のオフィスビルでもあります。

明治生命館の歴史

東京美術学校(現東京芸術大学)教授だった岡田信一郎(1883-1932)の意匠設計で1930年に着工。
信一郎は2年後に急逝しますが、当初から設計に加わっていた弟の捷五郎(1894-1976)が引き継ぎ、1934年3月に竣工しました。
構造設計は耐震壁による耐震構造設計を考案し「耐震構造の父」と呼ばれ、東京タワーの設計者としても知られる内藤多忠(1886-1970)です。

建築として優れていることはもちろんですが、第2次世界大戦の後、アメリカ極東空軍司令部(FEAF)としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され(1956年返還)、1946年に米・英・中・ソの4カ国代表による第1回対日理事会(ACJ)の会場となった歴史的建造物でもあります。

明治生命館の一般公開

対日理事会の会場(2階会議室)や1階店頭営業室など、
一部の施設は見学することができます。

東京都千代田区丸の内2-1-1
(入館受付は西玄関より2階受付へ)

9時30分から17時まで
※12月31日~1月3日およびビル設備定期点検日は休館

公式サイト


静嘉堂文庫の国宝7点

静嘉堂文庫のコレクションは、岩﨑彌之助が収集し、岩﨑小彌太(1879~1945。彌之助の息子で4代目社長)が引き継いだ東洋の古典籍・古美術品の収集がもとになっています。
現在は古典籍およそ20万冊(漢籍12万冊・和書8万冊)、東洋古美術品およそ6,500点が収蔵されています。
(うち国宝7点、重要文化財84点)

これらの貴重な品々が丸の内というアクセスの良い場所で公開されるのですから、移転の恩恵は計り知れないものがあります。
(もちろん、常にすべてが展示されているわけではありませんけど)

《曜変天目(稲葉天目)》12~13世紀(南宋時代)

数々の展覧会の目玉となった、
おそらく静嘉堂文庫の所蔵品でもっとも有名な一品です。
窯変(窯の中で釉薬が化学変化してできた模様)に、
「曜」(輝きを意味する)の字をあてて「曜変天目」と呼びます。

黒い地色の中に青・黄・白などの斑紋が浮かぶこの天目茶碗は、
徳川幕府の三代将軍家光から乳母の春日局に下賜され、
その後稲葉家(淀藩主)に伝わったことから「稲葉天目」とも。

岩﨑小彌太は1934年にこの茶碗を手に入れましたが、
「天下の名器、私に用うべからず」と言って、一度も使用しなかったそうです。

俵屋宗達《源氏物語関屋澪標図屏風》1631(江戸時代)

琳派の祖として知られる俵屋宗達が描いた、6曲1双の屏風。
それぞれ源氏物語から題材をとって、
住吉に詣でる源氏の一向に遭遇した明石君が秘かに浜を去る「澪標」(第十四帖)と
石山寺へ参詣する源氏が逢坂の関で空蝉の一行に会う「関屋」(第十六帖)の
場面を描いています。

1631年に京都の醍醐寺へ奉納され、
1896年頃、岩﨑彌之助による寄進の返礼として贈られました。

伝馬遠《風雨山水図》13世紀(南宋時代)

水墨で雄大な山水を描き、所々に濃淡の彩色をほどこした
南宋の画院(宮廷の絵画制作機関)の様式で描かれた「南宋院体画」の優品。
南宋中期の宮廷画家・馬遠の作品と言われています。

《倭漢朗詠抄太田切》11世紀(平安時代)

平安時代の歌人で公卿の藤原公任(966-1041)が
朗詠のための漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集を書き写したものの一部で、
藍や薄黄色の唐紙に金銀で草花や鳥、動物などを描いた料紙の上に、
端正な文字が並びます。

掛川藩主太田家に伝来したことから「太田切」と呼ばれ、
明治時代に上下がそれぞれ別の人の所有になっていたものを
岩﨑彌之助が入手したそうです。

趙孟頫『与中峰明本尺牘』14世紀(元時代)

もと南宋の皇族であり、フビライ・ハンに抜擢されて元の高官となった
文人の趙孟頫(1254-1322)が、禅僧の中峰明本(1263-1323)に送った6通の書簡。
親族を亡くした悲しみや中峰師に対する敬愛の念など、
私的な心情もしたためられています。

1921年に、当時の静嘉堂文庫長だった諸橋轍次(1883-1987)が
北京で購入したものと言われています。

手掻包永《太刀 銘包永》13世紀(鎌倉時代)

大和国を代表する刀工の一派、手掻派(てがいは)の祖にあたる
初代包永(かねなが)の作。
もとは赤星鉄馬(1882-1951)のコレクションで、
1935年頃、ほか数点の名刀とともに岩﨑小彌太に譲られました。

赤星鉄馬は、実業家で美術品のコレクターでもあった赤星弥之助の息子であり、
1917年に父親のコレクションを売却した「赤星家売立」を行っていますが、
自分の趣味の刀剣類は手元に残していたそうです。

 因陀羅筆 楚石梵琦題詩《禅機図断簡智常禅師図》14世紀(元時代)

禅に関するエピソードを表す絵画(禅機図)。
中唐の詩人で役人でもあった張籍が、高僧・智常禅師を訪ねて教えを受ける場面です。

題詩を書いた楚石梵琦(1296-1370)は
元朝最後の皇帝トゴンテムル(順帝)の説法の師でもあった人で、
元を代表する禅僧のひとりです。
図を描いた因陀羅については伝わっていませんが、
この人が描いた水墨画は日本に幾つも伝来しており、
その多くに楚石梵琦など禅僧の賛が添えられています。

もとは巻子本だったと考えられており、
同じ巻子から切り取られたと思われる《禅機図断簡》が他に4点あります。
根津美術館、東京国立博物館、アーティゾン美術館、畠山記念館が所蔵し、
すべて国宝に指定されています。

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