日曜美術館 「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争(2023.7.2)

1930年代から1940年代に活躍した前衛美術の北脇昇は、時代の移り変わりに合わせて画風を変え、謎めいた作品《クォ・ヴァディス》を遺して世を去りました。
時代ごとの代表作を通して、戦争の絶えない時代に生きた北脇が世界をどう見ていたのかに迫ります。

2023年7月2日の日曜美術館
「クォ・ヴァディス」の秘密〜シュルレアリスム画家北脇昇の戦争

放送日時 7月2日(日) 午前9時~9時45分
再放送  7月9日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

シュルレアリスム画家・北脇昇が終戦後、死の直前に残した「クォ・ヴァディス」。画家の意図は謎に包まれてきた。後姿の復員兵らしき男は何処へ行こうとしているのか?シュルレアリスムが日本にもたらされたのは戦時下。画家たちは抑圧の中で絵を描き終戦を迎えた。その心情の反映なのか?過去の評論家は行き暮れた男の姿に作者の挫折を重ね、戦争でシュルレアリスムが結実しなかったことを嘆いた。だが、近年の研究で意外な秘密が。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
大谷省吾 (東京国立近代美術館副館長)

出演
細谷美宇 (東京国立近代美術館研究員)
伊藤佳之 (福沢一郎記念館学芸員)
清水智世 (京都文化博物館学芸員)
広瀬満敬 (北脇昇の親戚)
木村勝明 (日本美術会会員)


北脇昇とシュルレアリスムの出会い

北脇昇(1901-1951)は愛知県名古屋市の生まれですが、9歳の時に京都に住む叔父(広瀬満正)に引き取られ、以来京都を離れることは殆どありませんでした。
10代で洋画家の鹿子木孟郎の画塾に入った北脇は、1930年には本格的に画家を目指すべく津田青楓のよう画塾に入門します。
青楓は日本画・洋画のほか書家・歌人・随筆家でもある文化人で、この頃はプロレタリア美術に関心を持っていたそうです。
1931年には満州事変が起こり、国内では労働運動が続く時代のことでした。

青楓は、作家の小林多喜二(1903-1933)が獄中で虐殺されたことをテーマに《犠牲者》(1933)を描いています。
鉄格子のある牢の中に凄惨な遺体が吊るされているこの作品は、明らかに官憲を批判するものでした。
青楓は制作途中で警察に逮捕され、処分保留で釈放された後、プロレタリア美術を離れて日本画に専念することを発表。
当時の新聞には「津田青楓画伯転向」と掲載されました。
青楓のよう画塾が解散した後、北脇は前衛美術の団体に参加し、そこでシュルレアリスムと出会っています。

シュルレアリスムは1924年のフランスでアンドレ・ブルトンが発表した「シュルレアリスム宣言」で世に知られるようになりました。
近代の社会を根源にある理性や道徳のレベルから覆そうとするこの運動はやがて反体制運動に結び付き、当局からは共産主義とのかかわりを疑われて当局からマークされます。


初期の代表作《章表》《独活》《空港》など

シュルレアリスムの影響を受けた北脇昇の作品として、日曜美術館では《章表》(1937)をとり上げています。
作品のテーマは同年に制定された文化勲章で、枝を落とされた木・首と腕の無いトルソー・リボンと標本になった蝶などが描かれています。
木がトルソーに勲章を授けているようにも見えてちょっとユーモラスにも見えますが、背景は暗く不穏な印象。
下絵の段階では左上に鉄格子が描かれ、師・青楓の《犠牲者》を思わせます。
この鉄格子は油彩の段階でも描かれていたのですが、北脇は後から塗りつぶしたようです。

国家が芸術を管理することへの批判を描いたこの作品について、北脇昇を研究してきた大谷省吾さんは、社会批判を直接描くと逮捕されるので「ちょっとボカすために」修正したと考えています。
(北脇の頭の中には青楓と《犠牲者》のことがあったのかもしれません)

このほか、植物の独活(ウド)を人間に見立てた《独活》(1937)や楓の種子を軍用飛行機に・枯れたヒマワリを管制塔に見立てた《空港》(1937)が紹介されました。
《空港》は村上春樹の短編小説集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000)の表紙に採用されたことでも有名です。


北脇は1939年、福沢一郎ら前衛美術の活動家とともに美術文化協会を創立しました。
福沢は、瀧口修造とともに日本にシュルレアリスムを紹介した一人とされています。


北脇昇と戦争の前後 ― 因数分解が絵画に?

図式絵画《(A+B)² 意味構造》《形態学のために》など

北脇は興味をひかれた学問や思想を絵画で表現する「図式絵画」を繰り返し描いていました。

因数分解を絵画で表現した《(A+B)² 意味構造》(1940)は、因数分解を現した図とリアルの植物の姿を組み合わせた、図形とも絵画ともつかない作品です。
グラフィックアート的なこの作品は、1986年にパリのポンピドゥー・センターで開催された「前衛芸術の日本 1910-1970」でも注目を集めました。

《形態学の為に》(1939)では、植物が生育とともに形を変えることを意味づけたゲーテの思想をもとに、不思議な空間(実験室にもアトリエにも見えます)に置かれた菜の花の影をゲーテの横顔として描いています。

植物の成長のようなありふれた現象の背後にある法則を形にしたい、という北脇の意志を感じた小野さんは「それを絵にしようと思うのは他にない」と感心していたようです。

《(A+B)² 意味構造》が制作された1940年は紀元2600年(神武天皇即位の年を日本元年と定める年号。明治5年に制定)にあたり、北脇は「奉祝紀元二六〇〇年美術文化秋季展」に哲学者・高山岩男の説をもとにして、日本の能面・古代ギリシアの彫刻・中央アジアの彫刻を組み合わせた《文化類型学図式》(1940)を展示しました。
(戦後、高山がGHQによって公職追放されると、この作品は《三つのマスク》と改題されました)

この時期は画材も配給制になりつつあって、当局の意向に反するものは画家として生きていくことも難しい時代でした。
福沢一郎も1941年に逮捕され半年以上の拘留の後、当局に命じられて戦争画を描くようになります。


《周易解理図(乾坤)》そして画業の中断

そして1941年には太平洋戦争が開戦。

北脇は直接的な戦争画を描くことはありませんでしたが、時の首相である近衛文麿の声明文にある「下意上通、上意下達」を絵画化した《周易解理図(乾坤)》(1941)を描き、また個人ではない「協働」の実践として他の4人の画家とともに《鴨川風土記序説(平安京変遷図)》(1942)を制作するなど、当時の思想を絵画として表現する作品を発表しています。

やがて北脇は「吾々は先づ美を考へることを休めねばならない。吾々は先づ人生事へ関心せねばならない。」という意見を表明し、画家も農村や工場で働くことを推奨しました。
自分も2年ほど画家としての活動を休止して、大阪の住友金属(親戚の会社。北脇は住友財閥に連なる家系でした)で働くなど「実践」をおこなっています。

北脇が当時制作した屛風には「飽なき探求 逞しき実践」のスローガンが書かれています。


北脇昇《クォ・ヴァディス》― 戦後の活動と絵画の謎

戦後

1945年に終戦を迎えるとそれまでの価値観はことごとく変化を求められ、芸術家たちも戦時中の自分を振り返ることを迫られます。
民主的な活動を志す「日本美術会」に参加した北脇は、ここでおこなわれたアンケート「美術界戦争責任に関する世論調査用紙」に「時局便乗者」への厳しい批判を寄せています。
(用紙を送られた200人以上のうち、回答したのは北脇を含む24人だそうです)
現在の日本美術会に所属する木村勝明さんは「自分も多分どっか傷があるんだろうけど」それでも言わざるを得ない、という北脇の複雑な心境を推し量りました。

敗戦から4年後の1949年はGHQの指示による国鉄の大量解雇にはじまる労使の対立(この過程では国鉄の総裁が轢死体で発見された下山事件をはじめとする未解決の事件も起きています)、美術界では藤田嗣治が日本を去るなど、ネガティブなニュースが続いた年でした。
北脇の遺作となった《クォ・ヴァディス》が描かれたのは、この年のことです。


北脇昇と《クォ・ヴァディス》の謎

北脇の戦後の作品は、傷痍軍人らしき松葉杖の人物が登場する《抛物線》(1949)など、人間が多く描かれています。
《クォ・ヴァディス》に描かれているのは復員兵らしき男性で、こちらに背中を向けているために顔は見えません。
足元には大きなカタツムリの殻と道しるべがあります。
画面ははるか遠くまで続いていて、向かって右手には嵐の風景、左手には赤旗をなびかせたデモ隊が列を作って行進しています。
足元の道しるべは二つの行く先を示していることから、男性はこれから嵐とデモ隊のどちらかを目指すのかもしれません。
北脇は何も語ることなく、作品発表の2年後に肺結核で亡くなりました。

日曜美術館では過去に《クォ・ヴァディス》を読み解こうとした例として、美術評論家の瀧口修造と中村義一を挙げています。
瀧口修造は絵の印象として「あの時代のひとりの画家の状況を、同時にまた時代そのものをなにか冷やっとした実感の「謎」として示したもの(のひとつ)」だと絵の印象を述べ、中村義一は人物の後ろ姿を画家の挫折の現れと考えて、シュルレアリスムが日本に根付かなかったことと結びつけています。

瀧口と中村は《クォ・ヴァディス》から「冷やっとした実感」や「挫折」など負のイメージがあるようですが、この絵について「まったく分かりません」と語ったスタジオの小野さんは、この「素敵な後ろ姿」に何だか軽やかな印象を受けたと語っています。

大谷さんも、この絵については「前向きにとらえたい」と語っています。
絵の中にあるカタツムリの殻の影は、男性・道しるべの影と角度や濃さが違っていて、これだけが少し前の時間に存在していることがわかります。
主役の男性は本を持っていることから、画家を含めた知識人・文化人のイメージ。
つまり戦時中に殻にこもっていた自分(または知識人・文化人)が、外に出て来て最初の一歩を踏み出そうとする「どちらに行きますか?」という問いかけの絵画だという解釈です。

研究員の細谷美宇さんは、見る人によって違った印象を受けるのがこの絵の面白さであると語っています。
それどころか、同じ人でも見るたびに変わった印象を受けるんだとか。
「この絵を挫折と見る人は、自身の挫折や苦しみ、不安定を投影したのかもしれない」という小野さんの考えが正解かも知れません。

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