日曜美術館「雄々しき日本画〜横山操、伝統への挑戦〜」(2021.01.24)

「日本画」と言えば繊細な美人画や、花鳥画、山水画などを思い浮かべますが、
横山操の描く日本画の多くは、
社会の現実や雄大な自然を荒々しいタッチで描いたものです。
番組では20代での従軍とシベリア抑留という
横山の体験を振り返りながら、完成した画境に迫ります。

2021年1月24日の日曜美術館
「雄々しき日本画〜横山操、伝統への挑戦〜」

放送日時 1月24日(日) 午前9時~9時45分
再放送  1月31日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

1950年代、風雲児のように現れた画家、横山操(1920~1973)。横山の絵が世間を驚かせたのは、およそ日本画らしからぬ画題だった。『溶鉱炉』は製鉄所の工場が描かれ、『塔』には、事で焼け落ちた谷中の五重塔の黒焦げた骨組みが描かれた。作品の根底には、20代の10年間を従軍とシベリア抑留で奪われた悲惨な体験が横たわる。番組では、生誕100年を機に日本画の伝統に挑戦し続けた画家、横山操の絵と人生を描く。(日曜美術館ホームページより)

出演
平松礼二 (日本画家)
中野嘉之 (日本画家)
横山秀樹 (美術評論家)


日本画の風雲児が誕生するまで

日本画家・横山操は新潟県燕市(旧吉田町)に生まれました。
14歳で上京した時は洋画家を志していましたが、
途中から日本画に転向しています。

ポスターの仕事などで生活を立てながら画学校に通い、
展覧会に入選するようになりますが、
第二次世界大戦の勃発で徴兵。
5年間中国を転戦した後、シベリア抑留にあい、
現在のカザフスタン共和国あたりの収容所で
石炭の採取に従事することさらに5年間。
1950年に帰国した時、20歳で招集された横山は30歳になっていました。

この時の体験は、その後の制作活動に大きな影響を与えたようです。
帰国後の横山は、ノートにこんな言葉を書きつけました。

虐られし生活に―
満たされし喜びを求めて
すべては燃ゆる、熱情と斗魂が
芸術へ進ませ
生活と斗(たたか)はす。
熱情と奮激、
これが
俺の人生だ

(自筆のノート(1951)より)



「生きている現実」を描く日本画

帰国後の横山は、
高度経済成長を支えた鉄鋼業の工場内を描いた《溶鉱炉》(1956)、
食糧増産のために推進された漁業の港を描いた《網》(1956)など
真正面から日本の現在を描く大作をいくつも発表しています。

日本画家の平松礼二さんは、
横山が写生旅行で目撃した桜島の噴火を描いた《炎炎桜島》(1956)に
言葉にならないほどの衝撃をうけて、
「革新ってまさにこういう絵画のことを言うんだ」と思ったそうです。

また幸田露伴の小説『五重塔』(1892)のモデルにもなった
谷中の五重塔(護国山天王寺)が心中による放火事件で全焼した際に
現場に駆けつけて焼け残った骨組みをスケッチし、
描き上げた《塔》(1957)には
「静かなる世界を壊していくような、ものすごく革新的な」
ものを感じたそうです。

風雲児・横山操の代表作ともいえる大胆・豪放な作品たちは、
多くがこの頃に制作されたものです。

新たな画題

横山は40歳を越えてから、新しい画題に挑むようになります。

富士山

古くから定番の画題として親しまれ、
近代にも横山大観などがくり返し描いた富士山。
(横山操は、同じ苗字の大観をとても尊敬していました)
それを描くにあたって横山は
「今まで誰も描いたことがないような、すごい富士を描こうと思う」と
語っていたそうです。

特に好んで描いた「赤富士」は世間からの人気も高く、
横山は富士山の画家として流行作家になりました。
富士山を描いた初期作品の《富士雷鳴》(1961)は、
稲光が画面いっぱいに走り回る斬新な作品。
この富士山も、暗い赤色の山肌をしています。

白と黒の世界と水墨画

1960年代の横山は、それまでの彩色画から一転し
白と黒の作品を多く描いています。
《雪峡》(1963)や《雪原》(1963)などは
故郷の雪景色を寂寥感あふれる白と黒の風景として描いたもの。

横山は西洋画と区別のつかないような日本画の流行に危機感を感じており、
日本水墨画の再興を志していたそうです。
(私には横山の作品がそれこそ「西洋画のよう」に見えるのですが…)

横山は水墨画について
「生きてきた証みたいなもの」
「俺自身の心の本質を、白と黒の表現の中に置きたい」
と語っています。

《平沙落雁》《遠浦帰帆》《山市晴嵐》《江天暮雪》
《洞庭秋月》《瀟湘夜雨》《烟寺晩鐘》《漁村夕照》
の8点からなる《瀟湘八景》(1963)のシリーズは、
中国の北宋時代から描き継がれた伝統的な主題を描いたものです。

番組では中野嘉之さんが
《山市晴嵐》のたらしこみ技法
(水や薄い墨の上に濃い墨を垂らし、にじみやぼかしの効果をつける方法)や、
《平沙落雁》に使われている
墨の上からペインティングナイフで引っかいて白い線を浮き上がらせる
横山独自の技法を再現し、
「常に革新的でありたい」という横山の思いにも言及しました。

1971年に脳卒中で右半身が不自由になった横山は、
筆を左手に持ち替えて絵を描き続けました。
最期の作品である《絶筆》(1973)もまた、
曇天の空と雪の残る林を描いた水墨画です。

《絶筆》を制作中に倒れた横山は
「日本画の将来はどうなる」と案じながらこの世を去ったそうです。


「生誕100年記念 日本画家 横山操展」
NIITSU ART MUSEUM(新潟市新津美術館)

新潟県新潟市秋葉区蒲ケ沢109番地1

2021年1月23日(土)〜3月21日(日)
※会期中、一部展示替えあり

10時~17時 ※チケット販売は閉館の30分前まで
月曜休館(2月22日、3月15日は開館)

一般 1,000円
大学・高校生 500円
中学以下無料
※20名以上の団体は2割引き
※障がい者手帳・療育手帳の提示で無料

公式サイト

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