小野さんと柴田さんが、京都の河井寬次郎記念館を訪問。
生前の寛次郎が隅々まで美意識を行き渡らせた自宅であり、仕事場であり、人々が集うサロンでもあった建物は、現在もご家族の手で守られていました。
2024年1月28日の日曜美術館
「美は喜び 河井寬次郎 住める哲学」
放送日時 1月28日(日) 午前9時~9時45分
再放送 2月4日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
日本を代表する陶工・河井寬次郎。柳宗悦と共に民藝運動を進め、人間国宝も文化勲章も辞退し、自らを“生涯一陶工”として独自の造形を生み出した。自ら設計した自宅は、没後「河井寬次郎記念館」となり半世紀にわたって家族の手で大切に守り伝えられてきた。「暮しが仕事 仕事が暮し」と語った寬次郎。日々の創作を支えた「住める哲学」とは何だったのか?記念館を慈しむ寬次郎の家族の案内で、その秘密に迫る。(日曜美術館ホームページより)
出演
鷺珠江 (河井寬次郎記念館学芸員)
河井敏孝 (河井寬次郎記念館館長)
河井章江
河井尊臣 (宮大工)
河井創太 (陶芸家)
河井寛次郎記念館へ
河井寬次郎(1890-1966)の自宅は、1973年から河井寬次郎記念館として公開されています。
器を焼き、木彫を彫り、独創的な形を次々と生み出した寬次郎の設計による建築は、やはりどこか不思議な造形。
記念館の学芸員で、9歳までこの家で暮らしていた鷺珠江さん(寬次郎の孫)によると、寬次郎は農家の建物に興味を持っていたそうで、この家も飛騨高山や朝鮮の農家をイメージしていたそうです。
建柱は大黒柱1本で、吹き抜けの天井から見える2階部分は天井の梁が支えています。
珠江さんは、2階の部屋が宙に浮かんでいるように見える2階部分からの眺めがおすすめだそうです。
吹き抜けの下にある囲炉裏は半分が一段高い畳に囲まれていて、畳に座るとちょうど板の間で椅子に座った来客と目が合うように工夫されているんだとか。
客人の目線を意識した設計は、この家が寬次郎の作品を置くギャラリーや訪れた人々と交流するサロンでもあったためです。
小野さんと柴田さんは、家の設計だけでなく置かれている物ひとつひとつが物語を持ち、語りかけてくるような印象を受けました。
河井寬次郎記念館
京都市東山区五条坂鐘鋳町569
10時~17時 ※入場は閉館の30分前まで
月曜休館 ※祝日は開館し、翌日休館
夏季休館・冬季休館あり
一般 900円
高・大学生 500円
小・中学生 300円
河井寬次郎のこと
河井寬次郎は、1890年に島根県安来の大工の棟梁の次男に生まれました。
(後に河井寬次郎記念館となる家を建てたのは、棟梁を継いだお兄さんです)
松江中学校卒業した寬次郎は、陶芸家を目指して東京高等工業学校窯業科に入学。
1914年に京都市立陶磁器試験所に入所します。
この頃の寬次郎は繊細で優美な中国古陶磁を理想とし、釉薬の研究に力を入れていました。
辰砂の赤や青磁の青緑、唐三彩の黄・緑を自在に使いこなす寬次郎は、若くして天才と称えられるようになります。
1920年には独立して工房を構えますが、その後転機が訪れました。
寬次郎34歳の時、柳宗悦と出会って民芸に惹かれるようになったのです。
寬次郎と柳を結び付けたのは、陶磁器試験場で釉薬の研究などをともにおこなった濱田庄司だったそうです。
民芸運動に深くかかわるようになった寬次郎は、実用を追究したシンプルで大らかな美を目指すようになりました。
作品に銘を入れることもなくなり、生涯「一陶工」を名乗って創作に打ち込みます。
先のことですが、文化勲章や人間国宝への推薦も辞退しています。
この時代の代表作である《白地草花絵扁壺》(1939、京都国立近代美術館蔵)は1957年のミラノ・トリエンナーレ国際工芸展でグランプリを受賞しますが、当時のインタビューによると所有していた友人が寬次郎に内緒で出品したとのこと。
この友人は実業家の川勝堅一で、1937年のパリ万国博覧会でも同じことをしています。
(この時出品された《鉄辰砂草花図壺》もグランプリを受賞)
1937年には、現在の記念館となる住居が完成。
以後、76歳で亡くなるまでの39年をこの場所で暮らしています。
第二次世界大戦(1939-1945)によって作陶は一時中断しましたが、その後は「未知ノ世界」を楽しむかのように、より自由奔放な造形を生み出していきます。
用途にも囚われず、様々な釉薬や形を取り入れて、作りたいものを作りたいように作ったように見えるこの時期の作品は、見ていると明るい気持ちになると珠江さんは語っています。
焼き物に限らず、寬次郎の美の根底には喜びや面白さがあるんだそうです。
戦時中に始めた詩や詞、最晩年の10年で本格的に取り組んだ木彫も、気持ちを上向きにしてくれるような力がこもっていたり、なんだか笑いを誘うようなユニークさがあったり。
寬次郎の人柄が表れているのかもしれません。
河井寬次郎記念館と家族
河井寬次郎の没後、残された家をどうするかという問題が持ち上がりました。
河井家の長女・章江さん(寬次郎の孫)と結婚して養子に入っていた河井敏孝さんは、木漆工芸家の黒田辰秋に、その分だけ社会に対して良いことをしたことになるのだから「一年で音を上げてもよろしい」「3日でも結構」と背中を押され、サラリーマンから陶芸家兼記念館の館長へと転職することに。
簡単なことではなかったと思いますが、お陰で河井寬次郎記念館があるわけです。
現在も記念館の管理・運営は寬次郎の家族がおこなっていて、年2回の大掃除、3か月に1度の陳列品交換などは、家族が総出であたるんだとか。
建物やそこにある作品と親しむことで、寬次郎の目指した暮らしや美意識も自然と受け継がれて行くようです。
河井寬次郎記念館は、寬次郎の遺した有形のもの・無形のものを受け継いだ人々によって支えられています。
寬次郎を支えた人々の筆頭と言えるのが、家を切り回し寬次郎を訪ねてくる人びとをもてなした妻のつねでした。
家族間では、寬次郎の一番の幸せはつねと結婚したことだと言われているんだそうです。
つねの料理もまた、家族に受け継がれたもののひとつ。
これを楽しみにやってくるお客もいたという料理を、章江さんが再現してくれました。
(器はすべて寬次郎作)
突然のお客が何人きても大丈夫なように大きな食籠(食べ物を盛る蓋つきの器。菓子などを盛り合わせるのに使う)で一度に作る茶わん蒸しなど、家族も慣れ親しんだ料理です。
「おいしい!」と繰り返し絶賛した小野さんは、寬次郎の制作活動と作品を支えたつねの存在に思いを巡らせました。
河井寬次郎展 -寬次郎の魅力は何ですか(豊田市民芸館寬次郎
豊田市民芸館開館の40周年、そして河井寬次郎記念館の開館50周年を記念した展覧会です。
愛知県豊田市平戸橋町波岩86-100
2023年12月16日(土)〜2024年03月10日(日)
9時〜17時
月曜日 ※祝日は開館
年末年始(12月28日〜1月4日)休館
一般 500円
高大生 300円
公式ホームページ