日曜美術館「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」(2021.11.28)

菊畑茂久馬は前衛芸術を代表するアーティストとして注目されながら
中央画壇とは距離を置いた人でした。
そのせいか日本では知る人ぞ知る存在で、司会の小野さんも
「ユネスコ世界記憶遺産になった山本作兵衛さんの炭坑画を早くから評価した人」
という認識だったそうです。
番組では菊畑の作品を訪ねて福岡市美術館やアトリエを訪れ、
菊畑の生涯を辿りました。

2021年11月28日の日曜美術館
「孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬」

放送日時 11月28日(日) 午前9時~9時45分
再放送  12月5日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
朗読 津田三朗
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

1935年に生まれた菊畑は、早くに両親を亡くし、15歳で天涯孤独となった。戦後、前衛美術集団「九州派」に参加。現代美術界を代表する画家としてもてはやされるも、時流に乗ることを嫌い、その後、ほとんど作品を発表せず、“沈黙” した。「戦争画」に向き合い、自らの体験を元に「炭坑画」を描き後に世界記憶遺産に登録された山本作兵衛に師事。絵を描くとは何かを追求した。再び描き始めた菊畑がたどり着いた境地とは。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
山口洋三 (福岡市美術館学芸係長)

出演
菊畑 温子 (菊畑茂久馬の妻)
菊畑 拓馬 (菊畑茂久馬の長男)
斎藤秀三郎 (画家)
椹木 野衣 (美術評論家・多摩美術大学教授)


菊畑茂久馬の生い立ちと《天河》《舟歌》

菊畑茂久馬(きくはた もくま 1935-2020)は、長崎の五島列島の出身です。
漁師だった父を3歳で亡くし、4歳の時に母と2人で福岡に移りました。
7歳から2年ほど、五島の親戚に預けられていたこともあったそうです。
15歳の時に母を亡くした菊畑は、独学で絵を勉強して画家を目指しました。
23歳の時に描かれた《自画像》(1958)には
暗い赤の背景に黒々とした線で緑の肌の人物が描かれて、
なんだか不安で落ち着かない気持ちになる作品です。

《天河 十四》(1999)

菊畑の子ども時代は第二次世界大戦(1939-1945)の真っ最中で、
1945年の福岡大空襲の後、焼け残った焼夷弾が川の中に
ヘアブラシの毛のようにびっしりと突き刺さっていたのを覚えていると言います。
空襲の中、母のカツさんは菊畑を防空壕に避難させ、
自分は防空壕の上に家中の布団や着物をかぶせて水をかけ続けたそうです。

その体験から50年以上後になって描かれた《天河 十四》は、
縦294×横582cmの大画面を埋め尽くすように赤と黒の線が降り注ぐもの。
木の板かと思うほどの物質感を持って塗りつけられた絵具は、
空襲で投下された焼夷弾の雨をイメージしたものでしょうか。

この絵から、闇を背景に血の雨が降るという怖いイメージを抱いた小野さんは、
空襲の体験から制作までの時間の流れにも注目しました。
菊畑と交流のあった福岡市美術館の山口洋三さんは、
空襲の記憶と守ってくれたお母さんの記憶が時間をかけて輝きを増し、
作品として完成するために、この時間が必要だったと考えています。

《舟歌 九》1993

黒と青の絵の具がごつごつと盛り上がる様子が、
光のささない海の底を思わせる作品。
柴田さんは「海底の岩」に例えています。

山口さんは《天河》は母と空襲の記憶、
《舟歌》は3歳で死別した父や、
母と離れていた時に五島列島の海で感じた孤独の記憶が
形になったものではないか、
記憶を大作の形で表現することで
早く亡くした両親と交流していたのかもしれない、と考えているようです。


九州派・前衛芸術の旗手としての菊畑茂久馬

1957年、菊畑は前衛美術のグループ「九州派」に参加します。
その少し後になる1959年から福岡から熊本にまたがる三井鉱山三池鉱業所の
大量解雇に反対する戦後最大の労働争議「三池争議」(第2回)が起こり、
反体制・半芸術を掲げる九州派の活動も時代の波に乗っていました。

60年代に制作された《ルーレット》のシリーズが
ポップアートが盛んだったアメリカでも展示され、
1965年の雑誌「New Japan」(毎日新聞社)では
戦後日本の現代美術界を代表する画家のひとりとして取り上げられた菊畑ですが、
日本が大阪万博(1970)に向けて邁進していた1960年代後半から
作品をほとんど発表しなくなります。
国や企業が芸術に大量の資金をつぎ込んだこの時代、
アートが商品化されていくこと、その時流に乗ることに違和感を覚えてのことでした。

《奴隷系図》1961

2本の丸太を性器に見立て、そこに五円玉をぶちまけたオブジェ。
番組では、白黒写真が紹介されました。
61年制作の《奴隷系図》は現存しませんが、
1983年に再制作されたものが東京都現代美術館に所蔵されています。
九州派に所属していた画家の斎藤秀三郎さんは、
「性と金」という欲を端的に示し、
それの奴隷になっている人間を風刺してみせたこの作品に
「やられた!」と感じたそうです。

《ルーレット No.1》1964

板に描かれた幾何学的な図形とガスコンロの部品などの生活廃品を組み合わせた
絵画とオブジェのあいの子のような作品。
大量生産・大量消費社会をテーマとするポップアートの一種のように思えるのですが、
菊畑作品を既存の美術の枠に収まりきらない力を感じるという
美術評論家の椹木野衣さんは、
この《ルーレット》をポップアートと定義することに違和感を感じています。


評論家としての菊畑茂久馬―藤田嗣治と山本作兵衛

1970年代から1980年代初頭にかけての菊畑は、
発表しない作品の制作を続ける一方で、
近代以降の美術を独自視点で解釈する論考を発表し、
当時の美術界で評価されていなかった「戦争画」や「炭坑画」を芸術と位置づけました。
この時期はまた「絵とは何か」「画家とは何か」という本質的な問いを重ねて
自分の芸術を見つめ直す時期でもあったようです。

藤田嗣治の戦争画

1970年、戦争中に描かれアメリカに接収されていた「戦争画」153点が返還されます。
これらの作品は、戦意を昂揚し戦争に加担したという理由で
一般公開されず、評価を受けることもありませんでした。
菊畑は、この中でも《アッツ島玉砕》(1943)など
藤田嗣治(1886-1968)の戦争画を高く評価し、
(山口さんによれば「藤田は戦争画が一番凄い」と言っていたそうです)
戦後は戦争協力者として非難された藤田についての論考を発表します。
(『フジタよ眠れ:絵描きと戦争』葦書房,1978)

2012年に《アッツ島玉砕》について語った時、菊畑は
『記録に残すんだ』『皆に見てもらって戦意高揚・戦争に協力するんだ』
といった思惑を突き抜けて(軍部の要求からもはみ出して)
「生も死も一緒に溶け和んだような」光景と
そこに生まれる「崇高な祈りみたいなもの」を描いた藤田を評価しました。
「戦争画」という枠の中でただの戦争の光景にとどまることなく
より高い次元を表した藤田に、表現の本質のようなものを見たのかも知れません。

山本作兵衛の炭坑画

菊畑が山本作兵衛(1892-1984)の炭坑画に衝撃をうけたのは、
1960年代のことだったそうです。
稚拙と言われて評価されなかった山本の炭坑画について論文を書き、
画集の編纂に関わるなどの活動は、
山本の炭坑画のユネスコ世界記憶遺産認定(2011)に大きく貢献しました。

山本は、もとは福岡の筑豊にあった炭坑で働いていました。
明治から昭和にかけて、炭鉱から彫りだされた石炭は
日本の発展を支える重要なエネルギー源でしたが、
1950年になると重油にとって代わられるようになり
筑豊の炭坑も姿を消していきます。
(先述の三池争議にも繋がるわけです)
山本が記憶の中にある炭坑とそこで働く人々を描いた絵はおよそ2,000枚。
2012年の取材で菊畑は、技術や正確さではなく
労働する人間の有り様がそのまま形になったような山本の絵について、
「抱きしめたいような感じ」と語っていました。


菊畑茂久馬の画壇復帰と晩年の作品

1983年、菊畑は東京の個展で《天動説》シリーズを発表して、
19年ぶりに画壇に復帰しました。
《天河》や《舟歌》などの大型絵画のシリーズは、
この1980~90年代に描かれたものです。

反体制を掲げる九州派に参加し、
排除された藤田・評価を得られていなかった山本を再評価するなど、
常に中央や権威と戦う姿勢を見せていた菊畑ですが、
その作品は晩年になって更なる変化を見せます。

《天動説 五》1983

キャンバスの上に木を貼り付け、グレーの塗料で塗りつぶしたような作品で、
表面に盛り上がって見える木が極端に平べったい十字架にも見えます。

色合いのせいか大人しい印象を受けますが、山口さんによると、
現代科学で否定されている「天動説」をあえてタイトルに持ってくることで、
自分は「中央」をのやりかたとは全くズレているとしても、
ただ中央を取り巻く周辺の存在ではない、
自分こそが世界の中心であり一つのジャンルであるという
「啖呵」をきっているんだそうです。

《春風 一》2010

山口さんが「この変化に僕もびっくりしました」と言うように
これまでの作品とはがらりと変わって、明るい空色と白がメイン。
表面もごつごつした感じではなく、軽やかな雰囲気の作品です。
(サイズはやっぱり巨大ですけど)

菊畑の妻の温子(はるこ)さんは、
2020年の5月に亡くなった菊畑を回顧する展覧会を訪れた際、この絵について
「やっと青空が描けたねって言いたいですね」と語ります。
「青空なんて描くような人じゃないですから」
と言う温子さんは、菊畑とは中学・高校の同級生。
再会したのは20歳の菊畑が百貨店の陶器コーナーで絵付けの仕事をしていた
いわば修業時代だと言いますから、
菊畑の変遷を一番近くで見てきた人物と言っても過言ではありません。
《舟歌》に見られるような孤独・悲しみを押し出した青をつきぬけて、
ようやくたどり着いた青…
「だろうと私は思ってますけど、そうじゃないかもしれない」
と、治子さんは笑っていました。


「特集展示:菊畑茂久馬」福岡市美術館
(「近代日本の美術:明治から昭和初期まで②」内で展示)

展示作品
《葬送曲 No.2》1960
《ルーレット No.1》1964
《天河 十四》1999

コレクション展「近代日本の美術:明治から昭和初期まで②」の中で
12月26日まで展示されています。

福岡市中央区大濠公園1-6

2021年11月16日(火)〜12月26日(日)

午前9時30分~午後5時30分
※最終入館は閉館の30分前まで

月曜休館

一般 200円
大学・高校生 150円円
中学生以下 無料
※20名以上の団体は50円引き

公式サイト