日曜美術館「発掘!放浪の水墨画家 篁牛人」(2021.12.5)

東京・虎ノ門の大倉集古館では、現在(2021年12月5日)
「生誕120年記念 篁牛人展~昭和水墨画壇の鬼才~」と題して
異色の水墨画家・篁牛人の画業をたどる展覧会が開催されています。
展覧会を訪れた小野さんは、大倉集古館顧問で展覧会の仕掛人でもある
安村敏信さんの案内で館内を回りました。

2021年12月5日の日曜美術館
「発掘!放浪の水墨画家 篁牛人」

放送日時 12月5日(日) 午前9時~9時45分
再放送  12月12日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

戦後富山で生きた孤高の水墨画家・篁牛人(たかむらぎゅうじん)。和紙を削り取るように描かれた黒。極端にデフォルメされた動物。まるでアニメのような人物。初めての大回顧展が開かれている今、この知られざる画家が “発掘” されようとしている。45歳で画家として出発するも売れず。54歳で家を出て放浪を繰り返す。酒におぼれる日々、つかんだ独自の画風とは?ついに到達した最高傑作。その失われたはずの半分が発見された!(日曜美術館ホームページより)

出演
安村敏信 (大倉集古館顧問)
木村昌弘 (富山市篁牛人記念美術館館長)
原 哲夫 (漫画家)
大竹卓民 (水墨画家)
篁 恵子
佐伯 正
佐伯幸子
永森之久
酒井七海
民谷 静
民谷ふみ子


篁牛人の《天台山豊干禅師》 渇筆とデフォルメ

まず「凄いものをお見せしましょう」と連れていかれた先にあったのが、
牛人初期の代表作《天台山豊干禅師》(1948年ごろ)でした。
向かって左手には平たい石の上に座る豊干禅師と、その背後で枝を伸ばす樹木。
右手には体をくねらせて何かに飛びかかろうとしているような虎を
高さ1.6m×幅6mの大画面に描いた作品です。
細い線で描かれたちょっとマンガっぽい雰囲気の禅師に対して、
石、樹木、虎は「ザラザラ」「ゴツゴツ」「モコモコ」といった
手触りが伝わってきそうな存在感を放っています。
この質感は、紙の表面に墨をこすりつけるように塗り重ねる
「渇筆」技法から生まれるものです。

渇筆と並ぶ牛人のもうひとつの特徴は、描かれたもののの独特なフォルム。
ここに登場する虎もそうですが、
頭は極端に小さく、体は逆に大きく描かれるものが多いようです。
安村さんいわく「内側からはちきれるようなエネルギー」で
「風船のように」膨らんだ体は、全体を見ると不思議とバランスがとれています。
牛人本人が狙ってこの造形を選んだのか、
それこそ内側からのエネルギーに押されて
そう描かずにはいられなかったのかはわかりませんが、
デフォルメを利かせたイラスト・マンガ的な描き方は
戦後すぐの画壇ではまったく評価されず、
牛人が認められるまでには長い時間を必要としました。

安村さんは
「牛人の絵はこれから色んな人が見て色々に読み解いていってもらえると、もっともっと本質的な面白さが出てくる」
と、期待を寄せています。


「デカいババア」と《雪山淫婆》

牛人の絵にシンパシーを感じるという漫画家の原哲夫さんは、
代表作のひとつである『北斗の拳』(原作・武論尊,集英社,1983-1988)に
「デカいババア」を登場させたこともあって(?)、
巨大な裸体を見せつけるようにして立つ雪女
《雪山淫婆》(1948)に注目しています。
「頭を小さく書くっていうのがデカく見せるコツかも知れないですね」
と、自らの経験を踏まえて語る原さん。
言われてみれば《雪山淫婆》の雪女は
『北斗の拳』に登場しても違和感がない気がしますね。

また《天台山豊干禅師》の渇筆表現にも触れています。
ベタを塗るときに「気持ちが入ってくると」
筆で塗れば良い所をペンで力いっぱい塗って、
紙のクズがペンに絡んでしまうことがあるという原さんは、
黒く塗りつぶされているように見える部分も「一気にベタっと」塗るのではなく、
「穴が開いてるから」「深い闇だから」と「気持ちで」塗りを重ねて
紙がめくれたり破けたり…といった跡が残る牛人の絵と
そこから生まれる「黒の中の濃淡」に深い共感を寄せました。

渇筆画の再現と短い筆の秘密

番組では、水墨画家の大竹卓民さんが《天台山豊干禅師》のうち
禅師を中心とした部分の模写に挑みました。
渇筆自体は書道や水墨画で用いる技法ですが、
大竹さんによれば牛人のような渇筆の使い方は「常識ではない」といいます。

牛人の質感を再現するためには、
まず墨をつけた刷毛の毛先部分を使って、こすりつけるように薄墨を乗せる。
次に太い筆に持ち替え、筆先を潰すようにしてこすり、立体感を出す。
さらに極端に毛の短い筆を使ってこする……と、
段階ごとに使う筆を変えて塗り重ねていきます。
(牛人が使った画材は「篁牛人展」の会場にも展示されていました)
注目すべきは、仕上げに使う筆。
これは太い筆の毛を根元だけ残してバッサリ切り落としたもので、
これを使ってこすることによって紙の繊維がめくれ上がり、
独特の質感が生まれるようです。

紙の表面が削れ、めくれ上がるような筆使いは
最高級の越前麻紙(麻を原料とする和紙)でなければ耐えられません。
牛人は《天台山豊干禅師》の画材を揃えるために多額の出費をしたそうです。
それほどまでに、この「渇筆画」に賭けていたということでしょう。


篁牛人の生涯

篁牛人(1901-1984)は、富山市にある浄土真宗善照寺で
10人兄弟の次男として生まれました。
1917年に富山県立工芸学校に入学し、
画家を目指して東京美術学校への進学を考えますが、経済的な理由で断念します。

篁牛人のデザイナー時代

20歳で工芸学校を卒業した牛人は富山県売薬同業組合図案部に勤務し、
工芸図案家(デザイナー)として制作をはじめます。
29歳の時に図案を担当した《林和靖》(1930)が第17回商工省工芸展覧会で2等を受賞。
画材の特徴を利用した渇筆技法は、工芸の経験から身についたのでしょうか?
人気図案家として活躍する一方で、39歳くらいから画家を目指し、
仕事のかたわら絵を描いていたそうです。

太平洋戦争末期の1944年、召集されてマレーシア、タイなど南方を転戦。
翌年終戦を迎えたシンガポールで捕虜として収容されました。
そして復員後、牛人は本格的に画家を目指します。

篁牛人の挫折と放浪の時代

そうは言っても、牛人の絵は
当時の画壇で全く評価を得られませんでした。
絵が売れなければ生活が苦しくなり、
渇筆技法に必要な品質の高い麻紙は買えなくなります。
この頃の牛人は作品のサイズを小さくし、
しまいには渇筆画の制作を中断します。

実家のお寺には紙がまったく手に入らなかったとき
新聞紙に胡粉を塗って描いた絵が残っていて、
牛人の義理の姪にあたる篁恵子さんは
「牛人さんの描きたい思いが染みこんどる絵」と語っています。

54歳から64歳までの牛人は、友人知人の家を転々として何か月も家に帰らず、
絵を描いては酒代にするような生活を送っていました。
その間も当時の画壇で取り入れられていた抽象画に挑戦した《抽象画》(1955)や、
輪郭線を描かない没骨法で
壮大な世界観の中に身近な生き物を描き込んだ《乾坤の歌》(1962)
などの作品を描いていますが、これらの絵も全く売れず、
制作に没頭していない時は何日も酒を飲み続けていたそうです。
そんな生活を強く諫めた友人のさかいゆきおさん(いけばな作家)にあてた手紙には

いやな売り絵をかくのは
致し方ないとしても
それを待ってもいない人の処へ
「売りに行く」のを
六十有才の今日まで続けてきて
これからもこれからもと思うと
悲しかったです
(1965年の手紙)

とあり、牛人自身も行き場を失った気持ちでいたようです。
牛人に転機が訪れたのは、60代なかばに差し掛かるころでした。

篁牛人の再出発

牛人のパトロンとなる森田和夫医師は、絵を売りに行った中のひとりだったようです。
牛人が見せた中に、アイヌの漁師が月あかりの下でマスをとる様子を描いた
《アイヌのますつき》(1963)がありました。
この絵を気に入った森田医師が
「ひとつ渾身の作を作ってください」と依頼したことが、
牛人の再出発の契機になりました。

森田医師の援助で牛人は旺盛に制作を行い、そうして実現した「渾身の作」が、
高さ2m×幅2.7mの大画面に達磨大師を描いた《ダモ》(1970)。
太い脚で大地を踏みしめるアフロヘアの真っ黒い巨人、といった様子は
一般的にイメージされる「ダルマさん」とはだいぶ様子が違いますが、
安村さんによれば、草履を片方だけ履いている「隻履達磨」、
蘆の葉に乗って海を渡る「蘆葉達磨」という
伝統的なパターンを取り入れた上で牛人の個性を押し出した異色の「達磨図」です。
この大作の完成に牛人は「できた、できた」と小躍りして喜んだそうです。

ようやく自由に描けるようになった牛人は
1960年代の後半から70年代の初頭にかけて多くの作品を描きますが、
長年にわたって過度の飲酒を重ねたことによる脳卒中で倒れ、
1974年以降は作品制作ができないまま、1984年に世を去りました。


《老子出関の図》(1969)の「失われた右側」の発見…なぜこんな所に?

牛人の最高傑作と言われる《老子出関の図》は
『史記』にある故事がもとになっています。
国を離れようと牛に乗って函谷関に差し掛かった老子の姿を描いたもので、
左半分はいかにも牛人らしい堂々たる体格の黒牛(やはり顔は小さい)が
鯉・コブラ・蝶といった生き物たちに取り囲まれている構図。
この右半分にはもう一枚、老子の姿を描いた部分があったはずなのですが、
こちらは長らく行方不明になっていました。

ところが2021年、美術館で「行方不明の右側」の写真を見たある人が
「家のじゃないか?」と気がついたことで、無事に見つかりました。
こちらの所有者は、牛人の甥にあたる民谷静(やすし)さん。
牛人の入院中に奥さんから購入し、
左半分があるとは知らないまま保管していたそうです。

「発見」された右側には、竹林と大きな月を背景に
牛に負けないくらい巨大な老子が立っていました。


「生誕120年記念 篁牛人展~昭和水墨画壇の鬼才~」大倉集古館

牛人死去の翌1985年、森田医師は所有する牛人の作品250点あまりを富山市へ寄贈。
1989年、そのコレクションをもとにして篁牛人の業績を記念する美術館が開館しました。
大倉集古館の展覧会にはこの「富山市篁牛人記念美術館」から
多くの作品が貸し出されています。

東京都港区虎ノ門2-10-3

2021年11月2日(火)〜2022年1月10日(月・祝)

10時~17時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館(1月3・10日は開館)
年末年始(12/29~1/1)休館

一般 1,300円
大学生・高校生 1,000円
中学生以下 無料

公式サイト

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