室町時代の水墨画家・雪舟の作品を、現代美術家の李禹煥さんが語ります。
どのような手順で、そのような道具を使って描いたのかまで考察する姿勢は
プロの美術家ゆえでしょうか。
美術史家の島尾新さんも、雪舟の面白さについて語っています。
2021年1月10日の日曜美術館
「李 禹煥(リ・ウファン) わたしと雪舟」
放送日時 1月10日(日) 午前9時~9時45分
再放送 1月17日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
去年生誕600年を迎えた雪舟は、日本絵画史上ただ一人国宝6点を描き、“画聖(がせい)” と呼ばれた男。その雪舟にかねてから惹かれているのが、現代美術のトップランナー、李禹煥(リ・ウファン)。「雪舟の自然観に、呼びかけられている」と語る。<絵を描くとはどのような行為なのか>、<現代において雪舟を見るとはいかなる体験なのか>。李のまなざしを通して、時空を超え今、雪舟が語りかける!(日曜美術館ホームページ/より)
出演
李 禹煥 (現代美術家)
島尾 新 (学習院大学教授)
雪舟を語る 李禹煥さんの視点
小野さんと柴田さんが訪ねたのは、鎌倉にある李禹煥さんのアトリエです。
庭には作品を作る為の模型の岩が置いてあり、まるで展示場のよう。
なにかと軽くて手軽なものが好まれる現代に、
それとは対極にある岩や金属の板を使った作品をつくる李さんは、
「自然環境と対峙するためには、ある程度の重さが必要」と語ります。
李さんが雪舟に惹かれるのも、その作品から
雪舟の見た自然観や、絵描きの行為とはどういうものかを喚起させられて
それがとても刺激的だからなんだそうです。
秋冬山水図(2幅)
李さんが特にお気に入りの作品が《秋冬山水図》、
特に冬の図が素晴らしいと言います。
上下の真ん中あたりから下はごく普通の山水にありがちな木々・山・人家などを描き、
上には自然界にあり得ない「おばけ」のような岩山が連なる非現実の世界。
李さんは、雪舟が最初下半分の穏やかな山水画を描いた後、
ぽっかりと空いた上半分に「狂気がはしった」と考えています。
現実らしい「常景」と、非現実的な「異景」を組み合わせて
ひとつにまとめてしまったこの作品には、
水墨画作品の中でも珍しく面白い要素がたっぷり含まれています。
李さんは同じ絵の上半分を空白にしたものを見せてくれましたが、
たしかに穏やかな、悪く言えば面白みのない絵に見えました。
もともと春夏秋冬4幅の作品だったそうですが、
行方不明の春と夏にも雪舟の創意工夫が凝らされていたかも知れません。
破墨山水図
「破墨」とは、淡い墨に淡い墨を、
または淡い墨に濃い墨を重ねて表した濃淡で、立体感を出す技法です。
遠くに霞んで見える山もそうですが、
手前の岩や樹木もにじんだ墨で表現されて、
霧の中から浮かび上がるように見えます。
李さんによると、これは長谷川等伯の《松林図》にも通じる
湿気が多く霧深い日本ならではの情景だそうです。
また大半の絵ができるだけ様々な部分を描けるだけ描いてしまうという
「プラス」で構成されているのに対して、
この絵は描かない「マイナス」の部分が重要なんだとか。
自分に見えるものを描こうという「自我」を手放すことで、
あえて描かれない空白にあるはずのもっと大きな部分が出てくるんだそうです。
慧可断臂図
禅宗の始祖である達磨に弟子入りを願い出た慧可が
答えを返さない達磨に、自分の左腕を切り落として
決意を伝える場面を描いた作品です。
構図といい描き方といい「普通じゃない」という李さんは、
この絵は徹底したデッサンで作られた下絵を
そのままなぞって完成させたものだと分析しています。
達磨の顔の塗り方や髭の描き方にはテンペラの技法が使われ、
筆も油彩画に使うような硬い筆で描いたもの。
後ろを向いて座る達磨の衣の線もまた
硬い平筆で描くことで、抑揚のない線に仕上がっているそうです。
水墨画の常識から大きく外れたこの作品については
美術史家の島尾新さんもコメントしています。
注目するのは、やはり達磨の着ている衣の線。
水墨画のルールでは衣の線は場所によって
太くしたり細くしたりと抑揚をつけて立体感を出すのが常識ですが、
この絵では均一な太い線で描かれて「グラフィックデザイン」のようです。
水墨画の本場である中国では絶対にありえない線を使った《慧可断臂図》は
今までにない表現を追求した雪舟の実験であり
水墨の常識に対する(もしかしたら中国に対する)反逆だったかもしれないと
島尾さんは語っています。
雪舟の面白さ 島尾新さんの視点
東京国立博物館が所蔵する《秋冬山水図》と《破墨山水図》、
愛知県の斉年寺から京都国立博物館に寄託されている《慧可断臂図》、
毛利博物館所蔵の《四季山水図巻(山水長巻)》、
京都国立博物館所蔵の《天橋立図》、
そして個人蔵の《山水図》と、
6点もの作品が国宝指定を受けている雪舟ですが、
国宝を含む傑作は、ほとんどが60歳を過ぎてから描かれたものだそうです。
国宝6点を見比べてみると、それぞれ全くタイプの違う絵でありながら
「あ、こいつ雪舟だ」と思わされると島尾さんは言います。
作品ごとにまったく違った背景があって
いろいろと考えて制作したはずで、その背景を考えるのが面白い。
そして雪舟本人の人生と、その時代背景が面白いんだとか。
雪舟の略歴
雪舟は1420年に備中(岡山)に生まれました。
10代で故郷を離れ、京都の相国寺で画僧・周文から水墨画を学んでいます。
30代半ばで周防(山口)へ移り、守護職であった大内氏の庇護をうけます。
よく知られている「雪舟」を名乗るようになったのは38歳の時。
それまでの名前は「拙宗」でした。
1467年に、48歳で中国(明)へ留学し、本場の水墨画を学ぶと同時に
日本とは異なる風物や自然に触れ、独自の画風を開拓。
1469年に帰国後は再び大内氏のもとに戻り、創作活動をつづけました。
周防国のほか豊後国や石見国にも赴いており、
《天橋立図》は1501年ごろ、実際に丹後を訪れて描いたものです。
雪舟が中国に渡ったのは応仁の乱がはじまった年でもあり、
帰国してから各地に旅をしているのは
大内氏の軍事・外交政策のために調査活動をしていたという説もあります。
天橋立図
島尾さんは以前、天橋立をヘリコプターで見降ろしながら
《天橋立図》と比べる番組に出演しました。
天橋立をヘリコプターで見降ろすのは「雪舟研究のひとつの夢」で、
NHKから企画が出された時は高所恐怖症を堪えて引き受けたそうです。
比べてみると、山はだいたい500mから700m、
天橋立自体は900mの高度から見ると絵と同じように見えるそうです。
もちろん雪舟は空から見降ろしてスケッチをしたわけではありませんが、
地上に無い架空の視点を組み合わせて現実のような風景を構成した
雪舟の手腕は「当時としては奇跡的」なものでした。
李禹煥さんが語る雪舟とその時代
農耕社会の中で完成した水墨画は、
文人たちの考える「自然の原型」を形にしたものでした。
農耕以前の狩猟社会では、人間は自然の中に存在していました。
農耕がはじまって自然と対峙しコントロールしようとするようになって
両者の間には距離ができ、
そこに「自然への恐れや憧れ」が生まれたと、李さんは考えています。
雪舟の生きた室町時代は、
農耕が定着し、自然との距離が程ほどだった時代。
西洋風に言えば「人間の自覚が生まれたばかり」で、
人間がまだ初々しかった時代だといいます。
雪舟の作品を通して、人はその時代の人間の目を
借りることができるのかもしれません。
雪舟を見るということは、いまの時代の人間が
自分を遠い所まで旅をさせて
そこで見つめる雪舟を通して逆に雪舟のほうから
今日の文明とかこの社会を見直すことになる
ただの風景ではない、
風景を超えた何かがそこにあることに気付いてほしい、と李さんは語っています。