日曜美術館「没後1400年 宝物でひもとく聖徳太子の夢 聖徳太子と法隆寺」(2021.5.30)

奈良国立博物館では聖徳太子と太子の創建した法隆寺ゆかりの宝物が集まる
特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されています(会期終了後東京に巡回)。
聖徳太子ゆかりの宝物を通じて、聖徳太子の人物像や
後世の人々が作り上げたイメージを追いかけました。

2021年5月30日の日曜美術館
「没後1400年 宝物でひもとく聖徳太子の夢 聖徳太子と法隆寺」

放送日時 5月30日(日) 午前9時~9時45分
再放送  6月5日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

聖徳太子と法隆寺の至宝の数々が登場する特別展。国宝35件、重要文化財75件。飛鳥時代から江戸時代まで仏教美術の最高峰が一堂に。太子が日本文化の礎と呼ばれる理由とは?人でありながら仏のように信仰の対象となったのはなぜか?太子の姿を寺宝からひもとく。さらに太子直筆と伝わる書物を筆跡分析。浮かび上がった人物像とは。1400年前に太子が見た夢が現代につながる。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
池田理代子 (漫画家)
三田 覚之 (東京国立博物館主任研究員)

出演
諸橋重慧 (仏画師)
森岡恒舟 (手書き文字研究者)
竹津篤義 (西教寺住職)
濱岡伸也 (石川県立歴史博物館)


宝物でたどる聖徳太子の人柄

奈良国立博物館の会場には、
法隆寺金堂の《国宝 薬師如来坐像》や
大宝蔵院に安置されている《国宝 玉虫厨子》(奈良会場のみ)など、
太子ゆかりの仏教美術が数多く展示されています。

仏教が日本に伝来したのは太子の祖父である欽明天皇の時代。
太子自身も当時の学問の最先端だった仏教を研究し、
仏教に基づいた国づくりを実践しようとしました。

《聖徳太子立像(二歳像)》(鎌倉時代)
重要文化財《聖徳太子坐像(伝七歳像)》(平安時代)

2歳の春に東を向いて手を合わせ「南無仏」と唱えた姿と、
7歳で百済から届いた100巻以上の経典を読破した時の姿を写した像です。
どちらも大人びた真面目そうな表情で(子供らしくないとも言える…)、
太子が小さいころからとても聡明だったことを示しているのでしょう。

重要文化財《十七条憲法版木》(鎌倉時代)

聖徳太子は20歳で叔母の推古天皇を補佐する摂政となり、
31歳で教科書にも載っている「憲法十七条」(国の運営に携わる役人の心構え)を制定しました。
この版木を転写した画像でも
「以和為貴(和を以て貴しとなす)」「篤敬三宝(篤く三宝を敬え)」など、
有名な条文を見ることができます。
十七条憲法に言う「三宝」とは「仏・仏の教え・僧侶」のことで、
国の基盤には仏教が組み込まれていました。
法隆寺が建立されたのは、この3年後のことです。

国宝《薬師如来坐像台座》(飛鳥時代)

法隆寺の金堂に安置されている薬師如来坐像の台座は
時間の経過で黒ずんでいますが、元は絵が描かれていたようです。
仏教美術の研究者である三田覚之さんと仏画師の諸橋重慧さんは、
赤外線調査によって現れた画像の一部から
想定復元(学術的な考証から失われた当時の姿をよみがえらせること)を行いました。
現れたのは、釈迦の弟子のひとりである大迦葉(だいかしょう)。
十大弟子のひとりで、釈迦の死後に残された弟子たちをまとめた人です。
ここで描かれているのは、遠い未来にやってくる弥勒菩薩に袈裟を渡すようにという
釈迦の言いつけを守っている姿で、仏の教えを守り抜く人の姿を現しているそうです。

三田さんによると、大迦葉の背後に描かれている樹木の
ヒョロヒョロとして葉の数もまばらな表現は、
聖徳太子よりも100年前の中国(6世紀半ばごろ)のスタイルでした。
また法隆寺金堂の御本尊である釈迦三尊像(太子の死後に作られたもの)も
同じ6世紀前半から半ばの様式です。
三田さんはここに、南朝梁の皇帝であった武帝(蕭衍。在位502-549)の影響を見て、
仏教を篤く信仰し「皇帝菩薩」と呼ばれた皇帝に対する
太子の憧れがあると指摘しています。
(ただし武帝の仏教への傾倒は、梁を滅ぼした財政破綻の一因となりました)

日本に仏教が伝来したのは552年(538年とも)のことですから、
伝来時の最新トレンドでもあったかもしれませんね。

御物《法華義疏》(飛鳥時代)

聖徳太子が自ら記した「法華経」の解説書です。
スタジオにも奈良県立図書情報館のレプリカが登場。
4巻の巻物を収めた木箱の右下に所蔵ラベルが貼ってありました。

文字をこすって消した跡、紙を張って修正した箇所などがそのまま残っていたり、
部分部分で字の大きさや太さにばらつきがあったりと、
(三田さんは「字の気分が異なる」と言っています)
本来の業務の合間、時間がある時に少しずつ書いた様子が伝わります。

筆跡鑑定などで活躍されている森岡恒舟さんは、
左に長く飛びだした横線、丸みのある角といった文字の特徴から、
意志が強く自信にあふれ、
鋭い部分と柔軟な部分がそれぞれ際立つ人柄を指摘し
「本当に並の人じゃなかったと思います」と語っています。


聖徳太子のイメージ

小野さんが「お札」のイメージだと言うように、
多くの人が聖徳太子と言えば紙幣に印刷された姿を連想します。
これまでに太子が採用された回数は7回(しかもその時々の最高額紙幣)、
期間を合計すると100年以上になるそうですから、
「冠をかぶって笏を持つ髭の男性」というイメージは
かなり行きわたっていることでしょう。

ところが、こちらの姿が一般的になったのは
紙幣が流通するようになった明治時代以降のことで、
鎌倉時代から江戸時代までは聖徳太子と言えば少年のイメージだったそうです。
わたしなども幼少期に母の本棚で見つけた
『日出処の天子』(白泉社,1980-1984)の影響で、
少年姿の方がしっくりくるのですが…

由緒正しい「少年・聖徳太子」のイメージは鎌倉時代、
仏教との関りから生まれたものだそうです。

国宝《聖徳太子絵伝》(平安時代)

聖徳太子の逸話を10面にわたって描いたもの。
現存する聖徳太子の伝記絵では最古の作品です。
有名な「大勢の人が一度に話すことをすべて聞き分けた」というエピソードや
馬に乗って空を飛ぶ様子など、超人ぶりが描写されています。
(奈良会場・前期のみの特別展示でした。現在は終了)

重要文化財《聖徳太子立像(孝養像)》(鎌倉時代)

孝養像(きょうようぞう)とは、太子が16歳の時
病で倒れた父用明天皇の病床に付き添い、香を焚きながら一晩中祈る姿を現したもの。
鎌倉時代に全国で作られています。
現在全国に残っている太子像のうち7割は孝養像だといいますから、
その普及ぶりも分かろうというもの。
展示されている孝養像は、端正で穏やかな顔立ちでした。

孝養像が広まるきっかけを作ったのは、浄土真宗の祖である親鸞聖人です。
特権階級のものとなっていた仏教を本来の姿に戻そうと考えた際、
拠り所となったのが日本仏教の祖である聖徳太子でした。
こうして太子信仰は、各地の風習と混じりあいながら広まっていきます。

番組では、石川県羽咋市にある西教寺に鎌倉時代から伝わる孝養像が紹介されました。
こちらの像は奈良美智の絵を思わせるような大きな目が特徴的で、
やんちゃな男の子といった風情。
地域の人から「おたいっさん」と親しまれるのも納得です。

資料の調査を行った濱岡伸也さんは、
「神さんでも仏さんでもない」同じ生身の人間であるという思いが
聖徳太子という存在を親しみやすくして
「お願いしたら叶えてくれるかもしれない」
「叶わないまでも相談に乗ってもらえるかもしれない」と、
人びとにとって思いを繋げやすい存在だったのかもしれないと考えているそうです。

重要文化財《五尊像》(鎌倉時代)

多くの五尊像は5体の仏様を描きますが、ここでは少年姿の聖徳太子が入っています。
漫画家の池田理代子さんは『聖徳太子』(講談社,1991-1994)を描くとき、こちらの
二つに分けた髪を長く垂らした「若きプリンス」の姿を参考にしたそうです。

新しいことも積極的に取り入れる、やんちゃで進取の気性に富んだ人物。
(聖徳太子の周りにあった物は、当時としてはひどく変わったものが多いそうです)
苦しい時に寄り添い、手助けしてくれる人物。
現在に伝わるキャラクターが御本人の人物像に忠実かどうかはもうわかりませんが、
「聖徳太子」という人物はこれからも親しまれ、その事績は語り継がれることでしょう。


「聖徳太子と法隆寺」奈良国立博物館・東京国立博物館

聖徳太子ゆかりの品々、174件(うち国宝36件、重文75件)が展示。
展示内容は奈良と東京で一部異なります。
公式サイト

奈良国立博物館(事前予約優先制)

奈良市登大路町50番地

2021年4月27日(火)~6月20日(日)

9時30分~17時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館

一般 2,000円
大学・高校生 1,400円
中学・小学生 500円

東京国立博物館(事前予約制)

東京都台東区上野公園13-9

2021年7月13日(火)~9月5日(日)

9時30分~17時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館(8月9日(月)は開館し、8月10日(火)に休館)

一般 2,200円(2,100円)
大学・高校生 1,400円(1,300円)
中学・小学生 1,000円(900円)
※( )内は前売り日時指定券(6月21日より販売予定)