日曜美術館「そばにいつも絵があった 妻が語る画家・神田日勝」(2020.10.11)

小野正嗣さんが神田日勝の暮らした鹿追町に日勝の妻ミサ子さんを訪ねます。
東京と北海道で巡回中の「没後50年 神田日勝 大地への筆触」の
会場(神田日勝記念美術館)にも行きました。
ミサ子さんをはじめ生前の日勝を知る人々が語る日勝の姿にも注目。
展覧会は現在、最後の会場となる北海道立近代美術館で開催中です(11月8日まで)。
東京ステーションギャラリーでの展覧会は、
2020年5月26日のぶらぶら美術館で紹介されました。

2020年10月11日の日曜美術館
「そばにいつも絵があった 妻が語る画家・神田日勝」

放送日時 10月11日(日) 午前9時~9時45分
再放送  10月18日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

朝ドラ「なつぞら」に登場した山田天陽。そのモデルとなった夭折の画家、神田日勝。32歳で亡くなった夫を支えた妻のミサ子さん。わずか8年半の夫婦生活。北の大地での開拓、子育て、牛馬との暮らし、そして絵。地方から最先端の絵を知ろうと必死にもがく姿。目まぐるしく画風を変えながら、やがて独自の絵を生む。牛馬への思い、ベニヤ板に刻んだ絶筆「未完 半身の馬」に込めたもの、そして50年目の夫婦のズボンの意味とは?(日曜美術館ホームページより)

出演
神田ミサ子
徳 丸  滋 (画家)
渡邉 禎祥 (画家)
川岸真由子 (神田日勝記念美術館学芸員)
大森寿美男 (脚本家)
小野 正嗣 (作家、早稲田大学教授)


神田ミサ子さんと神田日勝

東京大空襲で焼け出された神田日勝(1937-1970)の一家が
北海道開拓団として十勝に移住したのは日勝が7歳の時です。
祖父の代からの農家だったミサ子さん(1940-)の実家(高野家)は、
神田家よりも以前から入植していました。

日勝と知り合った時のミサ子さんは、
中学生の時に弟・妹・姪を相ついで失い、
自分はなぜ生きているのか? という悩みに取りつかれていたそうです。
そんな時、彼の家を訪れた時に見た作品《ゴミ箱》(1961)を見て
絵の中にある石油缶や革靴から臭いを感じるほど強い印象を受けたといいます。
何のために生きているのか、何をしたら良いのかと考え続けたミサ子さんは
自分の好きなことを持っている日勝に「協力してやろう」と思ったそうです。
その1年後に2人は結婚。1964年に長男が、1968年には長女が生まれました。

長男が生まれた1964年頃に描かれた《人間》には
ちゃぶ台を囲んだ一家団欒の様子が描かれています。
ただしミサ子さんによると、
これは日勝の「こういう事があったら良いな」という想像が生み出した作品で、
実際には「こんな雰囲気のことは、ほとんどないですね」だそうです。

神田家の土地は先に入植した人が諦めた程の荒れ地で、
畑をつくるためにまず大量の切り株(100個くらいあったとか)を
掘り起こさなければいけなかったそうです。
数年がかりで野菜を作れるようになっても、
冷害で収穫がなく現金収入がない年もあったとか。
農作業に明け暮れ、家のことを片付けるともう11時から12時。
日勝はその後深夜まで絵を描いていたそうですから、
のんびりくつろぐような時間は無かったことでしょう。


最後の完成作《室内風景》と未完の《馬》

1954年から70年にかけての高度経済成長期、
都市と農村の格差は大きくなり、離農する人が増加しました。
またこの時期は伝統的農業から近代農業への移行期でもあります。
(ちなみに農協の成立は1948年)

日勝は鹿追に留まって自分にしか描けない農家の姿を描くことを選びましたが、
トラクターを持っている農家に畑仕事を任せ、
その代金を絵を描いて得た収入で支払うことについて
「俺は農業失格だな」と語ったこともあるそうです。
自分では農業失格と思いながら、
世間からは「農民画家」と言われもてはやされることに葛藤も感じていたようです。

神田日勝の絶筆となった作品は
神田日勝記念美術館のロゴマークにもなっている未完の《馬》(1970)ですが、
この絵を描きかけたまま並行して手掛けられていた作品がありました。
2019年度前期のNHK連続テレビ小説「なつぞら」の脚本を書いた
大森寿三男さんが20代の時に見て衝撃を受けたという《室内風景》(1970)です。
(「なつぞら」では日勝をモデルにした山田天陽を吉沢亮さんが演じていましたね)

裸電球が釣り下がる小さな部屋の壁は隙間なく新聞を貼り付けられ、
その中心で男性がうずくまっている、
なんだか息苦しさを感じるような構図です。
ミサ子さんによるとこの男性は日勝の「心理的自画像」。
そう言われるとなんだか重苦しい内面を想像してしまいますが、
描いている時はけっこう楽しそうに鼻歌を歌っていたこともあったとか。
(当時流行していたフランク永井の「有楽町で逢いましょう」が多かったとのこと)
ミサ子さんも夜中に起こされて夜食のラーメンを作ったり
ズボンを穿いてポーズのモデルになったりしたそうです。
(その時のズボンは50年経った現在も大切に保管してあります)

《室内風景》を描き終えた日勝は《馬》の制作に戻りますが、
頭から腹までの半分を描き上げた時に病に倒れ、帰らぬ人となりました。
(後ろ半分は鉛筆で描いた輪郭だけが残っています)
緻密な毛並みが描かれた部分には
一見すると黒一色の馬の体に赤・青・黄の原色を使った新しい試みがあり、
日勝が死ぬ間際まで学び、新しい表現に挑戦していたことがわかります。

日勝がこの絵を描いていたときミサ子さんは、
昔家で飼っていた2頭の馬の片方が死んだ時、
もう一頭がその死骸を曳かされているのを見た記憶がよみがえってきたそうです。
「(日勝は)何度か馬描いているけど、この馬の目だけは特別な感じがしてどうしようもないんですよ」
というミサ子さんは、この絵を前にするといつも
馬の目が語りかけてくるような感じがするそうです。


「没後50年 神田日勝 大地への筆触」北海道立近代美術館

北海道札幌市中央区北1条西17丁目

2020年9月19日(土)~11月8日(日)

月曜休館(11月2日は開館)

9時30分~17時
※入場は閉館の30分前まで

一般 1,100(900)円
高大生 600(400)円
中学生 300(200)円
小学生以下無料(要保護者同伴)
※( )内は10名以上の団体料金

公式ホームページ