日曜美術館「天使か悪魔か 建築家 白井晟一」(2022.1.23)

映画監督の紀里谷和明さんが、長崎県佐世保市にある「旧親和銀行本店」を訪ねました。
建築家・白井晟一が3期10年がかりで作り上げた最大の作品です。
(第1期 1966-67、第2期 1968-70、第3期 1973-75)

2022年1月23日の日曜美術館
「天使か悪魔か 建築家 白井晟一」

放送日時 1月23日(日) 午前9時~9時45分
再放送  1月30日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

孤高の建築家・白井晟一。独学で建築を身につけ、世界を席巻した丹下健三らのモダニズム建築を批判。都会にうがたれた黒い杭のようなビル、太古のモニュメントにも似た銀行社屋など、常識を覆すような作品ばかりを作った。権威主義を批判し哲人、詩人とも称された一方、自らが権威にもなっていった白井。その実像は、天使か、悪魔か。白井に憧れを抱く映画監督・紀里谷和明が迫る。(日曜美術館ホームページより)

出演
紀里谷和明 (映画監督)
藤森照信 (建築史家)
白井原太 (建築家・白井の孫)
渡辺三喜 (施主の長男)
髙橋修一 (建築家)
田根剛 (建築家)
松山博 (石材店)
柿沼守利 (建築家)
奥田禮子 (奥田酒造)


白井晟一の傑作「旧親和銀行本店」を紀里谷和明が訪ねる

最初に訪れた「懐霄館」は、
第3期に作られた、高さ41mの巨大な石組みの塔のような建築。
ヨーロッパの古い教会のようにも見えますが、
実際はコンピュータを置く施設で
別名を「親和銀行電算事務センター」といいます。
もとは裏手にあった山と一体化していたこの建物を
「有機的」「土着的」と表現する紀里谷さんが
ここから読み取った白井のイメージは、
どこかから持ってきたものではなく
内にあるものを形にする「産む人」というものでした。

次に商店街のアーケードに面している1~2期の建築へ。
この部分はアーケードの屋根覆いと接しているために
外から全景を見ることができません。
時計台が設置されている外装は手の込んだもので、
モダニズム(装飾やデザインを排除し、機能や生産性を優先する考え)が
全盛だった当時は時代錯誤と笑われたにちがいない、それでもこの建築は
「本当に美しい」という紀里谷さんは、
建物を隠してしまうアーケードがもともとここにあったものだと知って、
よく言われる「環境との調和」を完全に無視した白井の心理に興味を示します。
せっかくの作品がアーケードの屋根で隠されてしまうことが分かっていても
「調和とかへったくれとか言ってる余裕がない」ほど
作りたいものが作れていなかったのではないか…と考える紀里谷さん。

たしかに白井晟一は、独学で建築を身につけ、建築士などの資格も取らず、
大きな仕事をうけるようになるまでかなり時間がかかった人でした。


白井晟一について

京都の商家に生まれた白井晟一(本名:成一 1905-1983)は、
12歳で父親を亡くし、画家・近藤浩一路(1884-1962)に嫁いでいた
姉の清子のもとに身を寄せました。
この近藤浩一路は、のちに白井に自宅の設計を任せ、
他にも建築の施主を紹介するなど、
白井を語る上で外せない有力な支援者となります。

白井は1924年に京都高等工芸学校図案化に入学し、
建築家・本野清吾(1882-1944)の指導を受けていますが、
この時はまだ正式に建築を学んでいたわけではないようです。
やがて哲学に興味を持った白井は、
学校を卒業した1928年にドイツのハイデルベルク大学に留学。
しかし哲学の道は早々に見切りをつけたようで、
1931年にベルリン大学に移ってからは社会運動に参加しています。
この頃、義兄の展覧会を手伝うために訪れたパリで
作家の林芙美子(1903-1951)と出会い、一時期恋愛関係になりました。
林の日記に登場する「建築を勉強しているS」という人物が白井だと言われており、
当時の白井は既に建築の勉強を始めていたのかもしれません。
(白井の日記では、林のことを「F」と呼んでいます)

帰国後、白井は建築家としての活動をスタートします。
日曜美術館では、戦後の秋田で作られた作品を紹介しています。
秋田は戦時中に義兄の近藤が一時期逗留していたこともあって
白井と縁の深い土地です。
「秋ノ宮村役場」(1950-57)、
稲住温泉の別棟として作られた「浮雲」(1949-52)、
地元の造り酒屋4社が共同出資した市民ホール「四同舎」(1957-59)など、
多くの白井建築が建てられました。

西洋の建築を学び、日本の現代建築も熟知していた白井の建築は
その独創性から熱烈な支持者を得ましたが、
モダニズムが主流の時代には流行遅れと思われたのか
大きな仕事の注文はありませんでした。
主に地方で個人宅など小さな仕事を受けていたそうです。


白井晟一の空間演出 旧親和銀行本店の中へ

つづいて旧親和銀行本店の中に入った紀里谷さん。
2階まで吹き抜けになった「第一営業室」を見て
「参照先がわからない」SF的な世界を感じ、
柔らかいカーブが折り重なった螺旋階段にイタリア象徴主義の彫刻を重ね、
4階にあった日本庭園(現存せず)の跡地を訪れて、
白井の独自性に圧倒されたようです。
(在りし日の日本庭園は、大勢の見学者が一斉に言葉を失うほどの迫力があったとか)

白井の思想が特に強く出ているのは、
アメリカ合衆国が太平洋のビキニ環礁で行った
水爆実験に衝撃をうけた白井が個人的に計画した「原爆堂計画」
(『新建築』1955年4月号で発表。実現せず)を取り入れたと言われている部分。
外から見ると、四角い建物が黒い円筒の柱に貫かれて宙に浮いているように見えます。
紀里谷さんが「キノコ雲」と呼んだ四角い建物の中には
「AMOR OMNIA VINCIT(愛は全てに勝利する)」というラテン語が。

「完璧なのに…何があった?」

旧親和銀行本店の建築に「完璧な美しさ」を感じた紀里谷さんですが、
「完璧なのに…何があった?」という疑問を感じます。
完璧に美しいはずの空間に生まれた違和感は、白井の空間演出によるものでした。
白井が作った空間に配置される調度品は、もちろん白井本人が調達して来たもの。
置き方にも白井のこだわりがあるそうなのですが、紀里谷さんに言わせると
「建築家に頼んで家とかビル作ったんだけど、そこの社長さんの趣味でこういう家具置いちゃった」
ようなちぐはぐさがあります。
白井にとってはこれも
「西洋の思想や文化に直面せざるをえなかったわれわれが その分あつい石の壁に体でぶつかり これを抜きたい」
という思想の現われだったそうですが、当時の施主がどう思ったかは謎です。
もっとも、反対があったとしても白井は自分のプランを押し通したかもしれません。


白井晟一のこだわり

独創の建築家・白井は、傍から見ると常識はずれな所があったそうです。
それどころか独創をきわめ、演出するべき表現にこだわった結果、
実際に使う人にとっては少々扱いにくい建物も作っていたようで…
たとえば代表作のひとつである東京都港区のオフィスビル「ノアビル」(1974)は
赤レンガの土台の上に黒い円筒状の塔がそびえたっているような建物で
要塞か教会のようにも見える建物ですが、
建物内の暗さが気になったビルのオーナーが煉瓦の部分に窓を作ってしまいました。

このことについて白井は「言語道断」と激怒。
これに限らず、自分の計画に口を出されるのが嫌いで
家具の配置に口を出してきたクライアントをりつけたエピソードもあるんだとか。
相当気難しい人のようですが、一緒に仕事をしていた人たちには
白井流につくしたい、白井を喜ばせたいと思わせてしまうような所があったようです。

一見すると奇妙だったり住みにくそうだったりする白井の建築物が
現在でも人々に愛され地域の名物として残っているように、
白井自身も一筋縄ではいかない人物だったのでしょう。

人々がすぐなじめるとは思わないし
すぐなじまれてはむしろ困る

だが10年か20年経って
生活に根を下ろしてしまえば

何か心の休まるものと
なってくれるんじゃないか

(番組の冒頭で紹介された白井の言葉)

自分の感覚を信じ、自分の世界観を形にすることにこだわった白井の建築を
紀里谷さんは「彼独自の文明」の中に生まれた古墳や遺跡に例えています。


「渋谷区立松濤美術館 開館40周年記念 白井晟一 入門」(第2部/Back to 1981 建物公開)

白井の晩年の代表作のひとつである渋谷区立松涛美術館では
白井の没後38年に記念にその多彩な活動を紹介する
展覧会「白井晟一入門」が開催中です。
現在行われている第2部「Back to 1981」では、
美術館の建築そのものを展示品として公開中。
白井のイメージした開館当時の姿に近付けた展示室はもちろん、
普段は入れない場所にも出入りできます。
地下2階の和室は初公開。

東京都渋谷区松濤2-14-14

2022年1月4日(火)~1月30日(日)
※土・日・祝日および最終週(第2部 1月25~30日)は日時指定制

10時~18時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館

一般 1,000円(800円)
大学生 800円(640円)
高校生・60歳以上 500円(400円)
小中学生 100円(80円)
※( )内は渋谷区民の入館料

公式サイト

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする