日曜美術館「激動の時を生きた浮世絵師 月岡芳年」(2021.1.16 → 2021.1.30)

2022年1月16日の日曜美術館は、
最初に予定されていた「バンクシー 表現で世界を変える」が放送延期、
代わりに放送されるはずだった「激動の時を生きた浮世絵師 月岡芳年」は
1月15日から発生した津波(厳密には少し違う現象だそうですが)
に関するニュースのためにお休みという、2重に予想外の事態となりました。

23日午後8時の再放送は、2021年1月17日に放送された
「コルシカのサムライ NIPPONを描く 画家・松井守男」
のアンコール放送となりました。
月岡芳年の回はどうなることかと思っていましたが、1月30日の放送が決まって一安心です。

2021年1月30日の日曜美術館
「激動の時を生きた浮世絵師 月岡芳年」

放送日時 1月30日(日) 午前9時~9時45分 (1月16日から変更)
再放送  3月27日(日) 午後8時~8時45分 (2月6日は北京オリンピックのため休止)
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

幕末、維新の動乱を生き抜き、明治の世に浮世絵の最後の華を咲かせた絵師、月岡芳年。芳年は、半世紀ほど前 “血みどろ絵” と呼ばれるむごたらしい作品で脚光を浴びたが、近年、アニメにも通じる迫力や情感あふれる作品も着目され、本の出版や展覧会が相次いでいる。番組では、“血みどろ絵” から西南戦争絵や情緒あふれる物語絵まで、芳年の代表作を紹介し、近年の研究や復刻摺(ず)りが明らかにしたその作品の魅力を伝える。(日曜美術館ホームページより)



月岡芳年と言えば「無惨絵」「血みどろ絵」?

月岡芳年(つきおか よしとし、1839-1892)は
生々しい血の描写や凄惨な殺人のシーンを描いた「血みどろ絵」「無惨絵」が有名です。

芳年の無惨絵は江戸川乱歩や三島由紀夫に偏愛され、
現代でも漫画『鬼滅の刃』と通じるものがあると話題になりました。
(鬼滅は大正時代の物語なので、芳年の死後20~30年頃です)
わたしも芳年といって思い出すのは
天井から逆さづりにされた妊婦と彼女を解体するべく包丁を研いでいる老婆を描いた
《奥州安達がはらひとつ家の図》(1885、明治政府により発禁処分)なのですが…

残酷描写が芳年のすべてかと言われればそんなこともなく、
芳年は歴史画・合戦絵・武者絵・役者絵・美人画・風俗画・古典画など
ざまざまなジャンルで活躍しています。
生涯で描いた作品およそ1万点のうち、無惨絵は百数十点。
少なくはありませんが、多いとも言えないようです。


「無惨絵の芳年」「血まみれ芳年」誕生の経緯

芳年は12歳で歌川国芳(1798-1861)に入門。
15歳で描いた錦絵《文治元年平家一門亡海中落入る図》で高い技量を示しています。

「無惨絵の芳年」「血まみれ芳年」として名を挙げたきっかけは、
兄弟子・落合芳幾(1833-1904)との競作で
歌舞伎の残酷シーン(血みどろ)を描いた《英名二十八衆句》(1866-67)でした。
それが評判になったことで芳年はさらに《東錦浮世稿談》(1867)、
さらに歴史上の武将を題材にした《魁題百撰相》(1868-69)を発表しています。

こういった作品にみられる血なまぐさい描写は
それ以前にはあまり見られなかったものですが、芳年自身の嗜好というより
当時の社会がよりセンセーショナルな表現を求めていたようです。
(《魁題百撰相》の後半では、血の描写は控えめになっていくそうです)

たとえば芳年の処女作《文治元年平家一門亡海中落入る図》が世に出た
1853年は、ペリーが浦賀沖に来航した年でもあります。
《英名二十八衆句》から《魁題百撰相》を描いた時期はちょうど明治維新と重なり、
芳年は《魁題百撰相》を制作する前に弟子をつれて、
旧幕府軍の彰義隊と新政府軍が衝突した
上野戦争(1868)の戦場跡を取材したというエピソードもあります。

不穏な世相・それにともなって過激化する人びとの嗜好・実際に起きた事件を
うまく拾い上げて「無惨絵」という形にしてみせた結果、
「芳年の無惨絵」は大衆に歓迎され、
「無惨絵といえば芳年」と言われるに至ったと考えると、
芳年は「浮世」に対する鋭敏な感覚を持った
実に浮世絵師らしい浮世絵師と言えるでしょう。


「血みどろ」にとどまらない月岡芳年の代表作たち

このように「血みどろ」の印象が強烈な芳年ですが、
国芳から学んだ画面構成力や華麗な色づかいに
西洋絵画の技法も取り入れた独自の画風を築き上げた人でもあります。
弟子に対しても浮世絵に留まらず洋画などさまざまな絵を学ぶように勧め、
芳年の弟子は浮世絵・日本画・挿絵など多くの分野で大成した人が多いんだとか。


1月30日の日曜美術館では、
町田市立国際版画美術館・芳年コレクターの西井正氣さん・太田記念美術館が
それぞれ自慢のコレクションを披露。
作品を通して「血みどろ」に留まらない芳年の仕事が紹介されました。

《魁題百撰相》

南北朝時代から江戸時代に活躍した歴史上の武将を描くシリーズもので、
現在65点確認されています。
戦いの中の一瞬の姿を切り取った構図になっており、
頭上を飛んでいく弾丸を避けようと屈んだ姿を真上から見た様子など
かなり個性的なポーズも。

もちろん死に際の姿をとりあげた「血みどろ絵」もありますが、
幕末明治の浮世絵の専門家である菅原真弓さんは、
このシリーズの特徴は、芝居のように誇張された残酷さではなく
「切なさ」「悲しさ」「静謐さ」であると考えています。
《魁題百撰相》を象徴する作品として
菅野さんが取り上げるのは《滋野左ヱ門佐幸村》。
真田幸村が傷ついた兵士を介抱する姿を描いています。

勇猛果敢であったことから「日ノ本一の兵」と称えられた人物を
あえて慈愛の人として描くところに
「血みどろ」から新しい境地に向かおうとする芳年の心意気を感じる…
と言ったらこじつけになるでしょうか。

西南戦争画

1877年、西郷隆盛を盟主とする武力反乱「西南の役」が勃発し、
トップニュースとして新聞でも大きく取り上げられました。
当時の新聞は文字ばかりだったために、
人々の「何が起きているのか見てみたい」という欲求が高まります。
それにこたえて戦闘の光景を描いた浮世絵が次々と発表され、
芳年も多くの作品を発表しました。
《魁題百撰相》の時は上野の戦場跡を取材した芳年ですが、
西南戦争画は新聞や噂話をもとに描いています。
(遠すぎたのかもしれません)

大判錦絵6枚をつなげた横長の《鹿児嶋縣暴徒高橋并川尻戦争ノ図》は、
西郷隆盛ひきいる意気盛んな薩摩軍と
押され気味の政府軍が激突する様子を描いたもの。
リアルな情景を伝えるよりも、
華々しい物語で見る人を楽しませることが目的のようです。

芳年に限らず、現実よりも人の見たがる場面を描く方針は
当時としては当たり前のことでした。
真実を伝えるものというより人を惹きつける広告だったのでしょうが、その結果
村田新八(薩軍二番大隊長)が実際に亡くなる半年も前に討ち死にさせられたり、
実在しない女性部隊(女隊)が登場したり、果ては西郷が竜宮城に攻め入ったり…
と、事実に反する(そのかわり抜群に面白い)絵が生み出されました。


《藤原保昌月下弄笛図》

西井さんの「お気に入り」である《藤原保昌月下弄笛図》は
もともと肉筆画として1882年に描かれ、
あまりの人気に翌年版画化されたという傑作です。
満月の夜、ススキ野原を背景に笛を吹く藤原保昌と、
保昌に斬りかかろうとするも、あまりに隙のない姿に動けない盗賊、という
緊張感のある一場面。
笛の音や、ススキを吹き倒し衣を靡かせる風の音まで聞こえてきそうな作品は
「いつ見ても感動します」と西井さんは語っています。

《月百姿》

「浮世絵番付」で1位を獲得した1885年から1992年にかけて発表されたシリーズ。
史伝・説話・風俗行事など、月に関する100通りの場面を描いた100枚揃いの大作。
月と一緒に描かれる対象も美人・豪傑・神仏・幽霊・妖怪・動物と多彩で、
芳年の幅広い活動領域を示す、晩年の傑作です。

写真の登場によって浮世絵が衰退しつつあった明治時代に
浮世絵師として成功を収め、弟子を育て
「最後の浮世絵師」と呼ばれた芳年でしたが、
多忙に加えて長年の放蕩・飲酒がたたり、晩年はすっかり健康を害していました。
《月百姿》完結の前年にあたる1891には、30代のころ患っていた神経症が再発。
一時は精神病院に入院する事態となり、翌1892年の6月に自宅で死去。
享年は54歳でした。

高橋工房による《月百姿》の復刻

江戸の木版技術を伝える高橋工房では、
2021年に《月百姿》のうち7枚を復刻しました。
代表の高橋由貴子さんは、この作品を
「そこにいる人物の思いを一緒に感じることのできる絵じゃないかな」
と言っています。

日曜美術館では、復刻摺りの工程を摺師の早田憲康さんが再現しました。
再現される《稲葉山の月》に描かれるのは、険しい断崖をよじ登る武者。
人物の足もとには赤みがかった満月が浮かび、山の高さを表しているようです。

この作品は、輪郭線と色を重ねる通常の手順に加えて
タイトル部分に布を貼った版木をつかって布目模様をつける「布目摺」
鎧の一部に表からバレンで擦って(磨いて?)光らせる「正面摺」がほどこされています。
手に取って角度を変えることで違った表情を見せる仕掛けは、
持主だけにわかる楽しみを与えてくれることでしょう。

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