日曜美術館「真を写す眼 渡辺崋山」

放送日時 3月15日(日) 午前9時~9時45分
再放送  3月22日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

2020年3月15日の日曜美術館

「真を写す眼 渡辺崋山」

国宝『鷹見泉石像』など陰影表現を駆使したリアルな肖像画で名高い渡辺崋山。自決に終わった悲劇の人生を折り込みながら真を写したスケッチや肖像画の名作を紹介する。

日曜美術館ホームページより

ゲスト
 河野元昭 (静嘉堂文庫美術館館長)

出演
 上野憲示 (美術評論家、文星芸術大学理事長)
 杉本欣久 (東北大学大学院准教授)
 増山禎之 (田原市博物館館長)

語り
 柴田祐規子
 平泉成

朗読
 光岡光太郎

《佐藤一斎像》《鷹見泉石像》にみる西洋画の技法

江戸後期の文人画家、渡辺崋山(1793-1841)。
江戸麹町田原藩邸で、藩士の長男として生まれました。
藩の財政難による減俸や父親の大病のため生活は苦しく、
絵を売って家計を助けるようになったのが画業の始まりだったそうです。

「崋山」という号は35歳頃にあらためたもので、
それ以前はくさかんむりの「華山」を使っていたそうです。

金子金陵やその師である谷文晁に弟子入りして学んだほかにも
中国や西洋の技法を取り入れて独自の画風を作りあげました。
29歳の時の作品《佐藤一斎像》(重要文化財)は最低11回の下描きを重ねて完成した作品で、
表情のある目や陰影の表現などに西洋画の影響を見ることができます。
さらに45歳で描いた《鷹見泉石像》(国宝)には
線の薄さ、顔に当たる光を意識した描き方など西洋画の影響がより強く現れています。

現在まで残る大量のスケッチ 蟄居中にも《虫魚帖》を遺す

また崋山は常に手帖を持ち歩いて身の回りのものを写していました。
崋山の写生手帖は積み上げると背の高さに届く程の量だったといいます。
33歳で千葉の銚子まで旅をした時道中の風景を描きとめたスケッチは
その場の雰囲気が伝わってくるような楽しいものでした。
晩年の蟄居中にも身近な動物・植物を描き、
図鑑のように写実的な「虫魚帖」(重要文化財)を遺しています。
(「虫魚帖」は弟子の椿椿山に贈られました)

絵の技術を習得し、日々写生を繰り返した崋山。
絵を描くときの心得として
「心を一つのことに集中すること。」
「髪の先、爪の端まで絵を描こうという気にならなければならない」
という言葉が残っているそうで、真面目で一本気な性格が伝わって来るようです。

絵の他にも儒学・農学などを学んでおり
40歳で田原藩の家老(年寄役末席)に就任してからは藩政改革に積極的に取り組みました。
特に就任して5年目の天保の飢饉(1836-1837)では
あらかじめ「報民倉」(食料備蓄庫)を設置し
『凶荒心得書』(災害の手引き)を著して「農民は国の元である」と訴えるなど
領民救済を徹底した政策をおこなったそうです。

真面目に名を挙げ、真面目で身を滅ぼした人

崋山の生真面目な姿勢、
そして人や風景の「真」をとらえる鋭い観察眼は
画業での名声や藩政の功績を築くもとになりましたが
同時に晩年の蟄居そして自刃にも繋がりました。
当時の幕府は異国船打払令(1825)を出して鎖国政策を守る方針でした。

これに対して崋山は異国船打払令に反対の立場をとっていました。
もともと鷹見泉石など蘭学者と親交があり蘭学の研究もしていたことから
蛮社の獄(1839)で取り調べを受けることになります。
(崋山はその時の様子もスケッチしました)
幕府の政策を批判する私文書『慎機論』が見つかったことで有罪となり
家族とともに田原に蟄居したのは47歳の時。
この時、生活のために絵を売ったことが幕府で問題視されていると噂が立ったため
「不忠不孝渡邉登」の書(重要文化財)を遺して切腹。49歳でした。

崋山に対する圧力は死後も続いて、
息子が家名を再興した後も墓を作ることができず
墓碑を立てることを許されたのは1868(慶応4)年3月15日。
元号が明治に変わる7か月前のことです。

2020年3月15日の再放送

3月8日の日曜美術館がマラソン中継でお休みだったため、
3月15日の再放送は2019年5月26日に放送した「にほん 美の地図~山形~」でした。

地図を描くように各地のアートスポットを訪ねその土地の美と出会う旅。
山形県にでかけた小野正嗣さんは、
山形市郷土館(国指定重要文化財・旧済生館本館)
酒田市の土門拳記念館
また新たな陶芸の里・大石田町を訪ねました。