日曜美術館「倉俣史朗 デザインの魔法」―《ミス・ブランチ》の誕生(2023.12.10)

《ミス・ブランチ》はいかにして生み出されたのか?
名作椅子を通じて、生みの親であるデザイナー倉俣史朗を振り返ります。

2023年12月10日の日曜美術館
「倉俣史朗 デザインの魔法」

放送日時 12月10日(日) 午前9時~9時45分
再放送  12月17日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

倉俣史朗がデザインした「ミス・ブランチ」。世界のデザイン史に輝く名作椅子は、発表後35年を経た今なお人の心をつかんで離さない。形は至ってシンプル、しかし透明なアクリルの中に赤いバラの造花が浮遊するたたずまいは一度見たら忘れられないもの。この椅子はどう生み出されたのか。近しい人の証言とともに、倉俣夫人美恵子さんがテレビ初出演。時代に対する倉俣の思いや、秘められた「家族の物語」など、創造の秘密を語る。(日曜美術館ホームページより)

出演
倉俣美恵子 (クラマタデザイン事務所代表)
安藤忠雄 (建築家)
沖建次 (インテリアデザイナー)
中山昌彦 (バー「コンブレ」店主)
近藤康夫 (インテリアデザイナー)
吉岡徳仁 (デザイナー・アーティスト)
田根剛 (建築家)
五十嵐久枝 (インテリアデザイナー)


倉俣史朗というデザイナー ―《ミス・ブランチ》の生みの親

クラマタデザイン事務所へ

今年の11月、小野さんは都内にあるクラマタデザイン事務所を訪問しました。
代表を務める倉俣美恵子さんは事務所の設立者・倉俣史朗(1934-1991)の妻で、倉俣亡き後は資料の整理・作品の維持管理などをおこなっています。

事務所では、庭木の枝を針にした時計や形が違う49の引き出しを持つ整理箪笥など、倉俣がデザインした家具が日々使われています。
その中には、倉俣の代表作のひとつである《ミス・ブランチ》も「家の主のような」貫禄で存在していました。

倉俣史朗について

倉俣史朗は、1934年に父・吉治が勤務する理化学研究所(東京都文京区本郷)の社宅で生まれました。
敷地内のあちこちで見かけられたガラスの実験器具などは、後々倉俣の発想のもとになったそうです。

1956年に桑沢デザイン研究所を卒業した倉俣は、株式会社三愛宣伝課・松屋インテリアデザイン室などで店舗設計やディスプレイなどを手掛けました。
1965年にクラマタデザイン事務所を設立し、主に商業空間のデザインを手掛けるインテリアデザイナーとして活躍。
倉俣がデザインした空間は、記録に残るだけでも400件以上にのぼります。

1981年にはイタリアの建築家エットレ・ソットサス(1917-2007)の誘いで多国籍なデザイン集団「メンフィス」に参加。
国籍を超えて遊び心や想像力を刺激するデザインを追究する仲間たちと交流する中で、ますます表現の幅を広げていきました。

そして1988年。
東京で開催されたデザインイベントで《ミス・ブランチ》を発表します。
倉俣が53歳の時でした。


倉俣史朗と《ミス・ブランチ》

沖建次さん(1972年から1976年までクラマタデザイン事務所に所属)によれば、倉俣はトリッキーなことを好む一方で「形のトリッキーは嫌い」だったとのこと。
《ミス・ブランチ》も、形そのものはシンプルな肘掛け椅子です。
背・座面・アームが透明アクリルで作られ、脚は紫色にアルマイト染色したアルミニウムパイプ。
座面とアームには造花の赤いバラが封入され、花が浮いているように見えます。

《ミス・ブランチ》は最初に56脚、その後再制作版18脚(加えてスタジオプルーフ版2脚)が作られ、ニューヨーク近代美術館・M+(香港)・ヴィトラ・デザイン・ミュージアム(ドイツ)など、世界の名だたるミュージアムに所蔵されています。

わたしも武蔵野美術大学所蔵の《ミス・ブランチ》を見たことがありますが、一度見たら忘れられないインパクトがありました。

《ミス・ブランチ》の素材 ― 透明アクリルの軽さ

引き出しだけが浮いているような《ピラミッドの家具》や中に吊るされた服だけが見える《プラスチックの洋服ダンス》(どちらも1968)といった初期の作品や、代表作《硝子の椅子》(1976)のように、透明素材を取り入れた作品は《ミス・ブランチ》以前の倉俣作品にも頻繁に登場します。

《ミス・ブランチ》と同年に設計されたバー《コンブレ》(現在訪れることができるほぼ唯一の倉俣空間)のカウンターは天板を支える下の部分が透明ガラスで作られ、重い板が宙に浮かんでいるように見えます。
倉俣は、透明なパーツを効果的に使うことで重さを感じさせない軽やかな印象を与えるのが得意だったようです。

この中で《ミス・ブランチ》の特殊性が際立っているのは、やはり内部に封じ込められた薔薇の花の存在が大きいでしょう。
ここで薔薇を使ったことは、倉俣にとっても特別な挑戦でした。

《ミス・ブランチ》の赤い薔薇 ―「造花でなくてはならない」

《ミス・ブランチ》のデザインに薔薇の花を取り入れようと考えた直接のきっかけは、親友の田中信太郎(彫刻家。1940-2019)が倉俣の長女・晴子さんへのお土産にと渡した造花だったそうですが、倉俣はそこから更に発想を広げていきました。

制作時、スタッフとしてかかわった五十嵐久枝さん(1986年から1991年までクラマタデザイン事務所に所属)は、最初に倉俣からデザイン画を見せられた時、衝撃を受けたそうです。
それまで絶対に手を出さなかった花や花柄を取り入れたデザインに、倉俣がこれまでとは違った「新しいフェーズに行こうとしている」と感じて、「この薔薇は造花ですか」と尋ねるのが精一杯だったと言います。

生花はアクリルの熱で駄目になってしまうため、選ばれたのはポリエチレンなどのプラスチック素材で作られたホンコンフラワーでしたが、倉俣自身は造花が良いと考えていました。

どうして薔薇なのか自分でもよく分からない。直感的なもので、言語として伝達できるまでには自分の中に時差があるんです。

ただ、今言えることは、紅い薔薇でなくてはならず、生花でなく造花でなくてはならないということです。

「浮遊する紅い薔薇(花の変奏曲1)」
『BRUTUS』No.204(1989年6月1日)

《ミス・ブランチ》の名前の由来になったのは、倉俣が当時愛読していた戯曲『欲望という名の電車』(テネシー・ウィリアムズ著)の主人公ブランチ・デュボア(エリア・カザン監督の映画ではヴィヴィアン・リーが演じた)です。
倉俣は、虚構の世界に閉じこもって終には精神のバランスを崩すブランチに共感を寄せていたと言います。
倉俣は作り物の薔薇に、ブランチと自分を重ね合わせていたのかもしれません。

《ミス・ブランチ》とバブルの時代 ― 倉俣史朗の葛藤の時期

倉俣が活躍したのは1960年代から90年代。
特に1970年代から80年代は、好景気で次から次へと新しいものが作られた時代でした。
主に商業空間のデザインで活躍した倉俣は、作るそばから消えていく刹那的な様を「幕間劇」と呼び刹那的なあり方を心から愛していたそうですが、倉俣自身の本質は別のところにあったようです。
安藤忠雄さんは、建物・店・インテリアなどが作られては消えていく時代の中で「倉俣さんの仕事だけは静かに人の心の中に入ってくる」ものだったと語りました。

《ミス・ブランチ》が作られた1988年はバブルの真っ盛り。
デザインの仕事が順調に増えていく一方で、ビジネスや経済にデザインが「かすめ取られる」不安を抱いていたのではないか、と近藤康夫さん(1977年から1981年までクラマタデザイン事務所に所属)は話しています。

さらに50歳を過ぎてから授かった娘・晴子さんが原因不明の病に倒れたこともあり、当時の倉俣は精神的に辛い時期でした。
妻の美恵子さんは、精神的にもろい所もあった倉俣が「よく耐えられたな」と感じたといいます。

倉俣は《ミス・ブランチ》を世に出した3年後、急性心不全により56歳で亡くなりました。
発表当初は日本国内で評価を得られなかった《ミス・ブランチ》ですが、その翌年にパリの伝説的アンティークディーラーであるイヴ・ガストゥのギャラリーで展示され、大きな反響を得ました。
日本でも倉俣の傑作として周知されるようになった《ミス・ブランチ》は、現代のアーティストやクリエイターにも影響を与え続けています。

娘の晴子さんも《ミス・ブランチ》のことを「パパの薔薇椅子」と呼んで愛し続けたそうです。


「倉俣史朗のデザイン ― 記憶のなかの小宇宙」(世田谷美術館)

東京都世田谷区砧公園1-2

2023年11月18日(土)~2024年1月28日(木)

10時~18時 ※入場は閉館の30分前まで

月曜休館 (祝日は開館し、翌平日休館)
年末年始(12月29日~1月3日)休館

一般 1,200円
65歳以上 1,000円
大高生 800円
中小生 500円

公式ホームページ