日曜美術館「美人画の神髄〜歌麿の技の錦絵〜」(2021.4.25)

江戸の美人浮世絵師として今でも名を知られている北川歌麿が
世に送り出した独自の美人画と、
新しい表現を追い求めるため、または幕府の統制に対抗するために
磨かれた創意工夫に迫ります。

2021年4月25日の日曜美術館
「美人画の神髄〜歌麿の技の錦絵〜」

放送日時 4月25日(日) 午前9時~9時45分
再放送  5月 2日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子・平泉成
アニメーション制作 moss design unit

“UTAMARO” として世界でも名高い浮世絵美人画の巨匠、喜多川歌麿。歌麿は “青楼(=吉原)の画家” とも呼ばれ、上級の花魁ををはじめ吉原の遊女たちのさまざまな姿を描き出した。また美人で評判の町娘をブロマイドのように売り出し大ヒットを飛ばした。他の絵師を “木っ端絵師” と呼び、自分こそ “美人画の神髄” を捉えていると自負した。美人画の可能性に挑み続けた歌麿の錦絵の魅力を伝える。(日曜美術館ホームページより)

出演
浅野秀剛 (大和文華館館長)
宮﨑優 (日本画家)
京増与志夫 (アダチ版画研究所 摺師)


歌麿と美人大首絵 ― 個性ある女性の姿を描く

美人画で名をはせた喜多川歌麿(1753頃-1806)は、
新しいタイプの美人画を開拓した先駆者でもあります。
版元の蔦屋重三郎(蔦重とも。1750-1797)と組んで出版した
「大首絵」(役者や遊女をバストアップで描いた人物画)の美人画は、
描かれた一人ひとりの個性が見える美人画を確立しました。

歌麿が描く女性といえば、うりざね顔におちょぼ口、「へ」の字のような鼻筋と
似たようなパーツで構成されているイメージがあるのですが、
手紙(恋文?)を顔の近くまで持ち上げて熱心に読む《婦女人相十品 文読む女》、
鏡の前で歯をむき出し、鉄漿(おはぐろ)のつき具合を確かめる《婦人相学十躰 面白キ相》、
胸元をはだけた湯上りの姿で何かを眺めている《婦人相学十躰 浮気之相》
(江戸時代で言う「浮気」とは、陽気で派手好きな恋多き女、といった意味だそうです)
など、描かれている女性たちをよく見ると
微妙な表情やしぐさが描き分けられていることがわかります。

現代の美人画を描く日本画家の宮﨑優さんは、
頬杖をついて物思いする女性の姿を描いた《歌撰恋之部 物思恋》の
細部のこだわりに注目しています。
ここに描かれている女性は眉をそり落とした人妻の姿なのですが、
人物画の表情を描くためにとても重要な眉毛を描かず、
丸みのある目じりと口角の下がった口元の絶妙なバランスだけで
「物思い」している表情を作ってしまうのは凄いことなんだとか。

さらに歌麿は、優れたプロデューサーである蔦重とともに
美人で評判の町娘を描くシリーズも企画しています。
《当時三美人 富本豊ひな 難波屋きた 高しまひさ》は
当時江戸で評判だった3人の美人を並べた構図になっており、
よく見ると目元や鼻筋などに3人の顔立ちの違いが出ています。


青楼の画家 ― 遊女たちのプライベート・ショット

青楼とは、元は高貴な人や夫人の住む家を意味し、
(昔の中国で青漆を塗ったことに由来するとか)
これが転じて遊郭や妓楼のことを指すようになりました。
江戸では幕府公認の吉原
歌麿は足しげく吉原に通い、そこで生活する遊女の姿を描いています。

吉原の遊女たちの姿を時間ごとに切り取って描いた《青楼十二時》のシリーズは、
接客中ではない、プライベートな表情を描いたものです。
浅野秀剛さんによれば、
こういった絵は実際の遊女たちを観察することで描かれたもの。
歌麿くらい名の通った絵師ともなれば、
客でなくとも吉原に入ってそこにいる人びとを観察することができたのでしょう。

歌麿はさらに、最上級の遊女である花魁にとどまらず、
辻で客を引く最下級の遊女である夜鷹や(《寄辻君恋》)
吉原を囲む堀ぞいにある小さな店の遊女(《北国五色墨 川岸》)など
それまでは画題にならなかったような遊女たちの姿も
ある時は美しく、ある時は凄みのある様子で描いています。


歌麿と寛政の改革 ― 出版統制との戦い

歌麿が新しい美人画を作り出した理由のひとつに、幕府による出版統制があります。
歌麿が活躍した寛政期(1789-1801)は、
老中松平定信を中心に
「寛政の改革」(1787-1793)が実施された時期でもありました。
倹約・華美な風俗の取り締まり・出版規制などを行うこの改革では
浮世絵も取り締まりの対象となり、
美人大首絵でも町娘などの名前を入れることが禁止されました。

歌麿はこれに対抗して
判じ絵(田んぼと鹿島踊りの図で「たかしま」と読むなど)から
描かれている人物の名前を読み解く趣向を取り入れましたが、
寛政8(1796)年には判じ絵で名前を書くことも禁止されます。
幕府による禁令が関係しているのかどうかはわかりませんが、
歌麿はこの頃から市井の女性が働く姿を描くようになります。

浅野さんは、規制を逆手に取る行動に、
幕府の統制をかいくぐりながら作品を作るために
描かれたことのないジャンルに活路を見出し続けた歌麿の、
これまでにない作品でも素晴らしい作品を描ける、という
気概や反骨神を見ています。

美人大首絵が寛政12(1800)年に禁止された後も
歌麿は美人大首絵描いています。
その頃に描かれた《婦人相学拾躰 提灯》には
画中の女性の心根の良さや品行方正ぶりを示す詞書があり、
幕府に対する配慮だと考えられているそうです。

文化元(1804)年に歌麿は奉行所の取り調べを受けて手鎖50日の刑を受けますが、
これは美人画ではなく『絵本太閤記』の挿絵が
織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていた当時の禁令に触れたためでした。
歌麿はこの2年後に亡くなっています。


美人画の第一人者として

歌麿の作品には、新しい工夫も積極的に取り入れられていたようです。
番組内では簾、蚊帳、衣服など薄い布を通して女性を透かし見る趣向のうち、
部屋に蚊帳をつって寝る支度をする女性たちを描く《婦人泊り客之図》から、
外で蚊帳を吊る女性と内側で団扇を使う女性を描いた部分を
摺師の京増与志夫さんが再現しました。

まず全体の輪郭線や女性の黒髪を墨で摺ったあと、
着物や背景などを一色ごとに摺り重ねていきます。
蚊帳の部分を摺る時には、
まず中にいる女性を外して蚊帳自体の色を乗せ、
次に女性にかかるように細かい横の線と縦の線を乗せることで
女性の姿がぼんやりと霞んで見えるようになりました。
最後に外の女性の髪に墨を刷り重ねてよりはっきりさせ、
内側と外側の対比を演出します。

細かい線を生かした繊細なテクニックを取り入れる一方、
部分的に輪郭線を無くしてしまうという大胆な趣向も使っています。
《錦織歌麿形新模様 白うちかけ》
《娘日時計 午の刻》などの作品では、
着物の衣文線や顔の輪郭線を消すことで
布の柔らかさや女性の頬のふっくらした質感を表現しています。

それまでに例のない新しい表現は反発を受ける可能性もありますが、
歌麿には受け入れられる自信があったのかも知れません。
《錦織歌麿形新模様 文読み》には
(画中の人物が着ている紫の着物も、衣文線を除いて陰影のみで表現しています)

近頃蟻のように湧き出した
木っ端絵師どもが
ただ色彩を頼りに
下手くそな絵を描き
異国にまで恥をさらして
いるのが嘆かわしい
私が美人画の神髄を
見せてやる

といった意味の詞書があります。
(「古の葉画師」という言葉が見てとれます)
なんとも傲慢な言葉ですが、浅野さんが指摘しているように
こういった言葉が版元にも世間にも許されてしまうほど歌麿の評判が高く、
また本人も死ぬまで新しい作品を作り続け
第一人者であり続ける努力を惜しまなかったと考えると、
なんだか爽快に思えてくるのが不思議です。