日曜美術館「ユニークな肖像画が語る異色の人物たち」(2022.5.29)

鎌倉時代から江戸時代にかけて描かれた日本の肖像画の中でも
特に個性的な6点を選りすぐって解説します。
描かれているのは誰なのか、どんな人物だったのか、
そして画家は何を思ってこの絵を描いたのか等々、
絵にまつわるエピソードを知ると、肖像画の見え方も変わってきます。

2022年5月29日の日曜美術館
「ユニークな肖像画が語る異色の人物たち」

放送日時 5月29日(日) 午前9時~9時45分
再放送  6月5日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

日本の有名な肖像画には、大変ユニークな顔や姿をしたものがある。おでこと垂れ目が目立つ天皇:「花園天皇像」。しかめ面をした武将:「徳川家康三方ヶ原合戦役画像」。木の上に坐る僧侶:「明恵上人樹上坐禅像」。大笑いする町人:「木村蒹葭堂像」。ぼさぼさ頭に無精ひげの僧侶:「一休宗純像」。2メートルを超すのっぽ力士:「大空武左衛門像」。6作品をオムニバスに並べ、ユニークな肖像画が語る異色の人物たちを紹介。(日曜美術館ホームページより)

出演
高岸 輝 (東京大学大学院教授)
原史 彦 (名古屋城調査研究センター主査)
田村裕行 (高山寺執事長)
橋爪節也 (大阪大学教授)
伊野孝行 (イラストレーター)
松嶋雅人 (東京国立博物館調査研究課長)
梅本 眞 (富士フィルムスクエア写真歴史博物館コンシェルジュ)


《花園天皇像》(はなぞのてんのうぞう)1338

国宝 豪信筆 長福寺蔵(京都国立博物館に寄託)

この絵が描かれたとき、モデルの花園天皇(1297-1348、在位1308-1318)は42歳。
すでに出家して上皇になっていたため、
灰色の衣の上に黄金の袈裟をつけた僧侶の姿をしています。

顔立ちは額と口が突き出し、目はたれ目で白目がちと、かなり個性的。
鎌倉時代は人物の特徴をとらえて描く「似絵(にせえ)」が流行した時代で、
作者の豪信も似絵を得意とする画家一族(藤原隆信派)の人でした。
即位していたころの花園天皇を描いた同時代の絵も同じような顔に描かれていますから、
実際にこんな顔だったのでしょう。

花園上皇本人が書いた画賛(絵に添えられた文や詩歌)には
「予の陋質、法印豪信故為信卿息の図す所なり」
私の欠点を豪信(亡き為信卿の息子)が描いた、とあります。
描かれた人から見ても男前とは言えない仕上がりだったようですが、
だからと言ってこの絵を嫌がっていたのかといえば、そんなことはないようです。

花園天皇は即位の前半は父(伏見上皇)後半は兄(後伏見上皇)に実権を握られ、
22歳でハトコの後醍醐天皇(別派閥)に譲位と、政治的には不遇の人でした。
そのかわり学問や芸術に打ち込み、和歌集の編纂などに功績があります。
宸筆(天皇の直筆)の原本が残っている日記『花園天皇宸記』には
幼少のころから絵を好んだことが記されていて、
絵画についても一家言あったことがわかります。

高岸輝教授によると「予の陋質~」の賛は
自分をリアルに描いた豪信に対する評価と見るのが適当で、
上皇はこの絵を気に入っていたのだろう、ということでした。


《徳川家康三方ヶ原合戦役画像》(とくがわいえやすみかたがはらせんえきがぞう)江戸時代、17世紀

作者不詳 徳川美術館蔵

徳川家康(1543-1616)が武田信玄に惨敗した
三方ヶ原の合戦(1572年12月)の陣中での様子を描いたとされる作品。
家康は敗北の戒めとして、この絵を身近に置いたと伝えられています。

眉をひそめて下唇を嚙むしかめっ面をしていることから
「顰像(しかみぞう)」とも呼ばれています。
椅子に座って足を組み、左手を頬に充てるポーズは表情とあわせて
いかにも思い悩んでいる雰囲気…ですが、
徳川美術館脳学芸員だった原史彦さんの検証によると、
この伝承はかなり怪しげなんだそうです。

三方ヶ原の合戦があった16世紀から100年は後に描かれた絵であること、
裸足に藁草履と、12月(新暦の1月)の姿にしては不自然な姿であること、
そもそも服装が戦国時代より前のものであること…など、
この絵に関する不自然な点は以前から指摘されていたそうです。
しかも、徳川美術館が所蔵する財産目録「御器物目録」(1880)では
この絵は「長篠戦御陣中」と記録されていて、
三方ヶ原から3年後に織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍に勝利した
長篠の合戦(1575)として伝わっていたことがわかります。

それではどうして三方ヶ原になってしまったのかといえば、
明治以降の尾張徳川家が、家に伝わった絵を解説するにあたり
少々「盛って」しまったのが原因のようです。
この絵が「三方ヶ原合戦役画像」として知られるようになったきっかけは、
1936年の新聞記事に掲載された当時の御当主のお話でした。
敗北を忘れず「驕ることなかれ」と戒めて江戸幕府を開いた…というエピソードが
今に伝わる家康の人物像にふさわしいと思われたこと、
そして何より日本人が好む「ビジネスのサクセスストーリー」だったことから
ここまで広く受け入れられることになった、という結論でした。


《明恵上人樹上坐禅像》(みょうえしょうにんじゅじょうざぜんぞう)鎌倉時代、13世紀

国宝 成忍筆(と伝わる) 高山寺蔵(京都国立博物館に寄託)

鳥獣戯画のお寺として知られる高山寺(京都・栂尾)は、
鎌倉時代に明恵房高弁(1173-1232)が再興したものです。
(元の高山寺は奈良時代に創建)

紀州(いまの和歌山)の武士の家に生まれた明恵は幼いころに両親を亡くし、
すでに出家していた母方の叔父を頼って9歳で仏門に入ります。
非常に聡明で将来を嘱望されましたが、23歳の時に故郷の白上山に隠遁して
ひたすら仏道修行に打ち込むようになりました。
後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられて高山寺を開いたのは34歳の時で、
明恵を慕って多くの弟子が集まりました。
《明恵上人樹上坐禅像》も弟子の一人が描いたものです。

こちらの肖像画は画面のほとんどを深い松の林が覆いつくしているのが特徴。
松の木の二股に分かれた所に座って座禅を組む明恵の姿は小さく、
よく見ると小鳥やリスの姿もあります。
高山寺の田村裕行さんのお話によると
描かれているのは高山寺の裏山(楞伽山)で、
実際に明恵が座禅を組んだ場所なんだそうです。
明恵が座る松の木(縄床樹)も実在したもので、
このような場所で自然と一体となり座禅を組んだとか。

仏教界の出世に興味を持たず己の修業に打ち込んだ明恵は、
自然の中に御仏の姿を見出したのかもしれない…なんて考えさせられてしまいます。


《木村蒹葭堂像》(きむらけんかどうぞう)1802

重要文化財 谷文晁筆 大阪府教育委員会蔵

江戸時代、造り酒屋を営む大坂商人の家に生まれた木村蒹葭堂(1763-1841)は、
本草学・博物学などの学問を広く収め(オランダ語・ラテン語も堪能だったとか!)
自ら本を書き、漢詩を作り、絵も描いた、博学多才で知られる人物です。
もっとも、この絵には学者然としたお堅い印象はありません。
大きく開いた口や緩んだ目元は表情豊かで、笑顔でお喋りをしている姿に見えます。

橋爪節也教授のお話では、
蒹葭堂は標本や書籍の一大コレクターでもありました。
それらを自宅で公開し、日本各地から学者・画家・医者・大名など
さまざまな人が訪れる文化サロンを築いたそうです。
絵の作者である文人画家の谷文晁(1763-1841)も、サロンに出入りするひとりで、
蒹葭堂の日記に「終日談話」と書かれるほど、親しく語らった相手だったようです。

文晁の手控によると《木村蒹葭堂像》は
蒹葭堂が亡くなった後に遺族の依頼をうけて描いたもので、
大坂に個人を訪ねた際こっそり描いたスケッチを元に制作したもの。
文晁にとっても、蒹葭堂と語りあったことはとても楽しい思い出だったのでしょう。


《一休和尚像》(いっきゅうおしょうぞう)室町時代、15世紀

重要文化財 作者未詳 東京国立博物館蔵

一休宗純(1394-1481)は「とんち小僧の一休さん」として知られていますが、
このイメージは江戸時代から形作られ、
昭和期に入って子供用の絵本などで普及したものだそうです。
実際の一休は後小松天皇の落胤として生まれ、6歳で出家したと言われています。

ここに描かれている一休は中年くらいの姿でしょうか。
ぼさぼさと伸びた髪と髭は剃らずに放っておいた様子で、
こちらを斜めにじろっと睨む表情は、見方によって純朴にも偏屈にも見えます。
この肖像画をモデルに
史実をもとにした「オトナの一休さん」のアニメ画をデザインした伊野孝行さんは、
どんな表情にも分類できないこの表情が
見ている側のいろいろな感情を想起することを指摘しています。

実際の一休は時の天皇とも親しく接し、民衆に慕われる高僧でした。
その一方で戒律を破ってお酒を飲んだり女性と交わったりと破天荒なふるまいをして、
80歳で大徳寺(臨済宗大徳寺派の大本山)の住職になったときも
盲目の女性である森女(森侍者)を妻にしていたそうです。
(森女は一休が77歳の時に出会い、生涯連れ添ったとのこと)

一級の肖像画として同じくらい有名な
伝・墨渓筆《一休宗純像》(1447、奈良国立博物館所蔵、重要文化財)には
頭をきれいに剃り上げて曲彔(僧侶用の椅子)に座る
いかにも高僧らしい姿が描かれているのですが、
傍らには異様に長い朱鞘の大太刀が置かれています。
鞘の中身は木製で、実は見かけばかりを取り繕う世の中を皮肉って持ち歩いたのだとか。
誰もが知るようなとんちの説話は史実ではありませんが、
それが実話でもおかしくない、と思われるほどの奇人ではあったようです。


《大空武左衛門像》1827

渡辺崋山筆 クリーブランド美術館蔵

モデルは江戸時代に土俵入り専門の力士として活躍した
大空武左衛門(1796-1832)の全身を等身大で描いた肖像画です。
面長な顔をややうつむかせて立ち、
黒い羽織をつけて大小2本の刀を差す、やや改まった様子。
絵の中には「身長7尺3分(約2m13㎝)、身重32貫(約120㎏)」など
体の大きさを示す数字が並び、いかに巨大であったかを伝えているようです。

あまりに足が長いため牛をまたぐことができたという武左衛門ですが、
本人を知る滝沢馬琴(1767-1848)によると、体の大きさに似合わず
生まれつき穏やかで気の小さい性格だったそうです。
見世物として見られる生活は本意ではなかったかもしれない、と
松嶋雅人さんは考えています。

作者は西洋画的な陰影を使った写実的な表現を得意とした渡辺崋山(1793-1841)です。
等身大の姿を正確に描き起こした絵画は、
写真鏡(カメラ・オブスクーラ)で写した実像をなぞったもの。
目に見えるそのままの姿を二次元に形どる技術はそれまでになく、
《大空武左衛門像》は
実物を見たことがない人に限りなく近い画像を見せることができる、
新しいメディアの登場を意味するものでした。