2024年に本格的な再整備の工事が始まる新宿駅西口広場。
地上から地下1階までつながる巨大な穴が特徴的な場所です。
設計者の坂倉準三は高度経済成長期の真っただ中に活躍し、新宿駅の他にも複数の都市計画に関わったほか、地方の公共施設など250もの作品を手がけています。
2024年1月21日の日曜美術館
「戦後新宿・渋谷をつくった建築家 坂倉準三」
放送日時 1月21日(日) 午前9時~9時45分
再放送 1月28日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
新宿駅西口広場や渋谷の東急会館・東急文化会館など、戦後日本の風景を作り上げた建築家・坂倉準三。ル・コルビュジエに学び、1937年パリ万博日本館でデビュー。戦後、鎌倉の神奈川県立近代美術館や羽島市庁舎、大倉山ジャンプ競技場から高速道路トールゲートまで数々の建築や都市計画を手がけ、高度経済成長期を駆け抜けた。西口広場が再整備で大きく姿を変えそうとしている今、「人間のための建築」を目指した夢の跡を追う。(日曜美術館ホームページより)
出演
坂倉竹之助 (建築家)
松隈洋 (建築史家)
高木和秋 (羽鳥市在住)
堀川敬二 (伊賀市役所)
高野洋平 (建築家)
森田祥子 (建築家)
小林克弘 (国立近現代建築資料館主任建築資料調査官)
伊東健二 (東京都都市整備局)
坂倉準三の原点ール・コルビュジエの教えとパリ万博日本館
江戸時代から続く岐阜の造り酒屋に生まれた坂倉準三(1901-1969)は、東京帝国大学の文学部で美術史を学んだ後、建築家を目指して単身パリに渡ります。
当時話題のモダニズム建築家だったル・コルビュジエのアトリエに入ったのは1931年で、ちょうどル・コルビュジエの代表作であるサヴォア邸が竣工した年でした。
建築史家の松隈洋さんは、サヴォア邸が初めてのモダニズム建築体験になった事が坂倉に大きな影響を与えたと指摘しています。
ゆったりしたスロープを散歩するように1階から屋上まで巡るサヴォア邸の構造は、その後の坂倉作品にも応用されています。
坂倉はル・コルビュジエのもとで5年働いた後帰国しますが、1936年に再びフランスに向かいます。
これは1937年のパリ万国博覧会の日本館を設計する為でした。
日本館に割り当てられた場所は斜面になっていて建築には不利と思われましたが、坂倉は逆に斜面を利用し、元から生えていた木々の間を縫うように移動する動線を作りました。
この日本館はパリ万博建築部門でグランプリを受賞。
モダニズム的な四角い外観からか、日本では竣工当初「日本的ではない」と批判をされましたが、受賞が発表されると国内評価も賞賛一色になった…という日本人あるあるなエピソードもあったそうです。
世界デビューを成功で飾った坂倉でしたが、やがて第二次世界大戦が没発。
本格的な活躍は戦後を待つことになります。
師匠であるル・コルビュジエとの縁はその後も続き、坂倉は戦後にル・コルビュジエが基本設計を行なった国立西洋美術館の設計に関わっています。
国立西洋美術館についてはこちらの記事もどうぞ。
国立西洋美術館―建築家ル・コルビュジエの特徴を伝える世界遺産
坂倉準三と鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム(旧神奈川県立近代美術館)
1951年、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内に、坂倉が設計した日本初の公立近代美術館・神奈川県立近代美術館が開館しました。
外側からは中の様子が分からない箱型の建物は、一度中に入ると気持ちよく中を巡って中庭やテラスにも自由に出入りできる自由な動線が特徴。
もっとも、現在は入り口の位置や出入りできる場所が変わっているそうです。
神奈川県立近代美術館は2016年に閉館し、現在は鎌倉別館(1984)と葉山館(2003)に移っています。
坂倉が設計した旧鎌倉館は鶴岡八幡宮に譲渡され、2019年から「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として公開されています。
坂倉準三と渋谷都市計画(東京都渋谷区)
坂倉は東急電鉄の創業者・五島慶太の依頼で、渋谷駅の都市計画も手掛けています。
1954年に完成した東急会館は、駅・デパート・劇場と複数の施設が入っている複合型施設の先駆けです。
2年後に書店・映画館・プラネタリウムなどを備えた東急文化会館が作られ、この2つを繋ぐ連絡通路も設置されました。
坂倉準三の息子で建築家の坂倉竹之助さんによると、当時は公道の上にブリッジをかける許可を取るのも難しかったそうです。
けれども、この連絡通路が無かったら渋谷駅周辺の人の流れはとんでもない渋滞を起こしていたことでしょう。
とにかく使う人の快適さを考えた坂倉を、竹之助さんは「人に寄り添った町医者」に例えています。
渋谷駅周辺は再開発が進められ坂倉の建築はほとんど姿を消していますが、活発な人の流れを支える心地よい環境という機能は受け継がれているようです。
内藤廣さんを中心とする渋谷再開発計画は、2023年10月22日の日曜美術館でも取り上げられました。
坂倉準三と旧羽島市庁舎(岐阜県羽島市)
坂倉が中学卒業までを過ごした岐阜県羽島郡竹ヶ鼻町は、1954年にほか9村と合併し羽島市となりました。
50代になった坂倉は、羽島市の庁舎を依頼されます。
新たな市の象徴となる建物は、南1ヶ所、北2ヶ所に入り口のスロープが設けられ、どの方向から来た人も入り易いのが特徴。
さらに各階に繋がるスロープがあり、建物の中を通らなくても目的の施設に直接アクセスできます。
1959年に完成したこの施設は翌1960年に日本建築学会賞を受賞。
その後老朽化による取り壊しが決まるまで、地元でも親しまれる建築として活躍しました。
竣工当時を知る高木和秋さんは、一番高い監視塔の上まで3回も上り下りしたことがあるそうです。
雪が積もると地元の子供たちがスロープを滑って遊んでいたんだとか。
旧羽島市庁舎は、2024年に取り壊し予定です。
坂倉準三と旧上野市庁舎(三重県伊賀市)
坂倉の建築はほとんどが姿を消していますが、未来に残す取り組みが行われているものもあります。
現在は伊賀市の一部になっている上野市の旧庁舎もそのひとつで、民間企業と協力して活用・保存が検討されています。
上野市は2004年に1市3町2村と合併して伊賀市になりました。
旧上野市庁舎の改修設計を担当するのは、建築家の高野洋平さんと森田祥子さん。
公共建築の実績もあるお二人ですが、坂倉の建築に手を入れることにはやりがいと同時にプレッシャーもあったそうです。
窓サッシや空調機器も当時のものなので、断熱や冷暖房の性能が現行のものよりも落ちるという、築60年の建築ならではの問題もありました。
坂倉は軒を大きく張り出させて夏の日を遮り冬の日を取り入れることで対応していましたが、やはり現代の基準からすると不十分だったようです。
現代の対応策は、建物中央の床に冷暖房を入れて窓際は外とつながる半屋外のようにすることでした。
改修後の旧市庁舎は「人間のための場所」という坂倉の思想を引き継いで、来た人が思い思いに過ごせる公園のような空間を目指しています。
天井が高く広々とした1階は図書館として、元は事務室などがあった2階は観光客向けのホテルとして、街の活性化に役立てる予定です。
坂倉準三と新宿駅西口広場(東京都新宿区)
1960年から始まった新宿副都心計画で最初に手をつけられたのが、新宿西口の整備計画でした。
大量に通る人と車両を捌く要所となるのが近い2層式の立体広場で、ここで車が出す排気ガスを外に出して新鮮な空気を取り入れる仕組みが必要になりました。
最初の案は巨大なターボファンを入れたビル(換気塔)を作る事でしたが、坂倉は広場の真ん中にそんな塔を建てるのは嫌だと反対。
当時西口広場の基本設計を担当した藤木忠善さんによると、坂倉は地下が嫌いだったそうです。
(もちろんそれだけではなく、街の美しさを考えてのことでもありました)
坂倉の抵抗で工期が遅れそうになった時に小田急の臨時建設部から「穴を開けちまえ」という意見が出ます。
(最初にアイデアを出したのは技師の千々波さんという人だったそうです)
半分くらいは冗談だったそうですが坂倉がその案に賛成し、最終的に換気塔の案は覆されました。
地下1階を歩いていたはずなのに突然頭上が開けて「ここは1階だったっけ?」と不思議に思う、現在の新宿駅西口広場はこうして作られました。
西口広場が完成したのは1966年。
坂倉はその3年後に心筋梗塞で世を去りました。
2024年には新宿駅西口広場の再整備が本格化し、現在の様子とは大きく変わる予定です。
東京都都市整備局の伊東健二さんによると、新しい新宿駅の地下は東西の駅前広場をつなぐ人中心の空間に再編されるそうです。
さらに鉄道をまたぐ歩行者デッキで東西の駅前広場をつな技、回遊性を高める計画もあるとか。
そして西口広場は坂倉のデザインを引き継いで、開口部を生かした整備が予定されています。
「日本の近現代建築家たち ー 第2部 挑戦と飛躍」(文化庁国立近現代建築資料館)
坂倉のコーナーには、新宿西口計画に関する当時の貴重な資料が展示されています。
東京都文京区湯島4−6−15(湯島地方合同庁舎内)
2023年11月1日(水)~2024年2月4日(日)
10時~16時 ※入場は閉館の30分前まで
月曜休館 (祝日の場合は開館し、よく平日休館)
土・日・祝日は旧岩崎邸庭園側からのみ入場可(入園料400円必要)
平日無料