柳宗悦は、それまで誰も気づかなかった新しい美の世界を
「民藝」と名づけてプロデュースした人物です。
日曜美術館では、2021年10月から東京国立近代美術館で開催中の「民藝の100年」、
東京駒場の「日本民藝館」「旧柳宗悦邸」そして柳に影響をうけた人びとを紹介し、
柳宗悦の美意識や人となりに迫りました。
イッセー尾形さんが民藝品の気持ちで(?)語る柳宗悦のお話も。
2021年12月12日の日曜美術館
「観て愛して集めて用いて考えた〜柳宗悦と民藝の100年〜」
放送日時 12月12日(日) 午前9時~9時45分
再放送 12月19日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
語り イッセー尾形・柴田祐規子
柳宗悦が仲間と共に「民藝(みんげい)」という言葉を生みだしてから100年。日本各地へ旅にでかけ、「それまで誰も気にとめなかったもの、日々の暮らしで使うために作られたものに美の本質を見いだし、“美しい” とたたえた。人生をかけてものを “観て、愛して、集めて、用いて、考えた” 柳。その美的感覚を解き明かすものが行李(こうり)から見つかった。100年たった今、私たちの暮らしに響く民藝のエッセンスとは?(日曜美術館ホームページより)
ゲスト
花井久穂 (東京国立近代美術館主任研究員)
杉山亨司 (日本民藝館学芸部長)
出演
板倉 聖哲 (東京大学東洋文化研究所教授)
柚木沙弥郎 (染色家)
赤城 明登 (塗師)
須波 隆貴 (いかご職人)
「民藝」という言葉はどうして生まれた? プロデューサー・柳宗悦
柳宗悦(やなぎ むねよし 1889-1961)は、
外国から新しい思想や芸術がもたらされた明治の時代、東京の麻布に生を受けました。
旧制学習院(現・学習院大学)高等科在学中に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。
『白樺』の同人として、西洋の美術や哲学を日本に紹介する活動を行っていた柳が、
人びとが日常的に使う道具の美に開眼したのは25歳の時でした。
知人から朝鮮時代の染付の壺を貰ったことがきっかけだったそうです。
暮らしに用いる雑器の美しさに衝撃をうけたことが、
後の「民藝運動」につながる思索、
そして各地を巡る調査・蒐集の旅のはじまりでした。
朝鮮半島の道具からはじまった柳の興味は、
日本国内で日々の生活のために作られる道具たちにも向けられます。
もともと素朴で大衆的な器物は「下手物(げてもの)」と呼ばれ、
美しい・価値のある物とは考えられていませんでした。
この価値観を引っくり返すべく生みだされた言葉が
「民」衆による工「芸」…つまり「民藝」です。
濱田庄司(陶芸家 1894-1978)・河井寛次郎(陶芸家 1890-1966)といった賛同者を得た柳は、
1926年に仲間たちと連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。
(日本民藝館が開館したのは、その10年後の1936年です)
さらに1931年には雑誌『工藝』を創刊し、
民藝の価値を世の中に広め、新しい美の基準を定着させようとしました。
既存の価値との戦い 「東京国立近代美術館」は強敵?
柳は雑誌『工藝』の連載「美の標準」で、
従来価値あるものと評価されてきたものから「悪い例」を選んで
民藝の「良い例」と並べて対比させ、
民藝の美しさを理解するポイントを解説しています。
たとえば、茶人に喜ばれる歪みやデコボコのある茶碗と
家で当たり前に使うような素直な形の茶碗を比べて、
素直な茶碗を上位に置くのが柳の美意識でした。
創刊号からはじまったこの連載ですが、
悪い例として挙げられた作品の所有者に迷惑がかかるなどの理由から、
1年で中止と相成りました。
小野さんも「こっちがマルでこっちがバツってやるのは、けっこう勇気がいる」
と感心していますが、当時マルをつけた方はまったくの無名、
バツを付けられた方は世間から評価を受けていたわけですから、
「けっこう」どころか「ものすごく」勇気と自身が無ければできない所業だと思います。
(少なくとも私には無理です!)
これを
「日本美術史上のレジェンドたちを自分が作ったリング(雑誌)に上げて戦い(批評)を挑んだ」
と表現するのが、東京国立近代美術館の主任研究員である花井久穂さん。
なお、花井さんが勤務する「東京国立近代美術館」も1952年の開館から間もない時期に
柳の「リング」に上げられたことがあるそうです。
もっともこれは美術館の建物や収蔵品ではなく、
なんと名前と理念に対するお叱りでした。
柳たちの美意識は「東京」より「地方」、「国立」より「在野」、
「近代」より「非近代」、「美術」より「工芸」に根ざしていましたから、
なるほどこの美術館には柳が対抗する要素しかないわけです。
自分が決めたルールで相手を叩くのはなんだかズルいような気がしますが、
日本民藝館学芸部長の杉山亨司さんは、
新しい美の基準を世の中に広めようという柳たちの動きは
「アバンギャルドな活動であったんじゃないかな」と言い、
「民藝」という言葉自体がほとんど認知されていない時代に逆らうために
「アジテーション」強い言葉や行動による扇動が必要だった、と分析しています。
確かに、既成の芸術に「こちらの方が凄い」とマウントを取るのは
革新派・前衛派としては王道の戦略です。
東京国立近代美術館は、柳の目には倒しがいのある強敵と映ったのでしょうか。
柳宗悦という人
話だけ聞くと柳宗悦という人は、かなり反骨精神旺盛かつ喧嘩っ早い人に思えます。
実生活ではどうだったのかというと、
妻の柳兼子(声楽家 1892-1984)に「殿さま」とあだ名され
「よくこんなに機嫌悪くしていられるもんだ」と感心(?)されていたと言いますから、
やはり相当に気難しい人だったようです。
とはいえ厳しいばかりの人ではなかったらしく、
内弟子の鈴木繁男(漆芸家 1914-2003)が
厳しくられたあとで心のこもった手紙を受け取り
「バカヤロー」と思っていたのが「ガンバロー」になった…など、
細やかな心遣いを示すエピソードもあります。
厳しくも優しいというか、飴と鞭の使い方がうまいというか…
とにかく大変な人たらしであったようですね。
そんな柳であるからこそ、没後60年が経過した現在でも
「民藝の父」として強い影響力を発し続けているのかもしれません。
柳に進路を相談した結果工芸の道に進み、
20代の半ばから15年間民藝館の手伝いをしていたという柚木沙弥郎さん、
そして柳の民藝館とその収蔵品から影響をうけた赤城明登さんや須波隆貴さんは、
それぞれ物を作る上での基準のひとつに柳の教え・思想を置いているようです。
柳宗悦の美的感覚
小野さんは今回、柳たちの本拠地となった
「日本民藝館」の向かいにある柳宗悦の旧邸(現在は日本民藝館の西館)を訪ねて、
柳家で使われた(気がついたら民藝館に展示されていたこともあったそうですが)
品々を眺め、20年来使い続けた茶碗を手に取ったりして、その生活に思いをはせました。
その旧邸から先ごろ発見されたのが、
19世紀朝鮮で活躍した画家・北山(金秀哲)の《牡丹図》と、
その絵のために仕立てる表具の設計図、そして表具に使う裂(きれ。布地)です。
表具に対する柳のこだわりは強く、手元には常に
裂と焼き物の軸先(掛軸を巻き付ける軸木の両側に飛びだした所につける飾り)を
大量にそろえて、絵とのコーディネートを思案していたそうです。
特に大津絵(土産物や護符として、現在の滋賀県大津あたりで制作されていた絵画)
がお気に入りで、すべての表具を自ら手掛けていたんだとか。
大津絵は「民藝」よりの絵ですが、こちらの北山は朝鮮末期を代表する人気画家。
ポピュラーなのものを好まなかった柳の好みからは外れているような気がしますが、
調査を行った東京大学東洋文化研究所の板倉聖哲教授によると、
北山の「自然らしさ」が評価の対象となったのではないか、とのこと。
設計図は中央の本紙の位置に「北山牡丹」の文字があり、
まわりには細かい指示が描き込んでありました。
柳と言えば民藝一筋のイメージですが、「美術」に対する目も確かなものでした。
もともと『白樺』同人として西洋の美術に早くから触れ、
民藝の第一人者となった後も多くの本を読んで知識を蓄えていたそうです。
広く深い知識を持ったうえで、あえて従来の枠にとらわれない
独自の物を見る目を養ったことが、
新しい美の世界を打ち立てられた理由かもしれません。
柳宗悦と民藝、そして「美の標準」を知る展覧会
(東京国立近代美術館・日本民藝館)
柳と因縁の(?)東京国立近代美術館では、柳の没後60年にあたる2021年の終わりに
柳宗悦と民藝の歩みを振り返る展覧会が開催されています。
明けて2022年の1月からは日本民藝館で、柳が蒐集した様々な民芸品から
柳が作りあげた「美の標準」を表す特別展が予定されています。
柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」(東京国立近代美術館)
東京都千代田区北の丸公園3-1
2021年10月26日(火)~2022年2月13日(日)
10時~17時 (金・土曜日は20時まで)
※入場は閉館の30分前まで
月曜休館(ただし1月10日は開館)
年末年始(12月28日~1月1日)、1月11日は休館
日時指定制(当日券あり)
一般 1,800円
大学生 1,200円
高校生 700円
美の標準 ― 柳宗悦の眼による創作
東京都目黒区駒場4-3-33(日本民藝館)
2022年1月10日(月・祝)~3月20日(日)
10時~17時 ※入場は閉館の30分前まで
月曜休館(ただし1月10日は開館)
1月11日休館
一般 1,200円
大学・高校生 700円円
中学・小学生 200円