日曜美術館「故郷は遠きにありて〜絵本画家 八島太郎〜」(2023.8.27)

絵本作家の八島太郎が絵本作家デビューを飾ったのは45歳の時です。。
20代のころプロレタリア美術家として活動し、30歳で逃げるように渡米した八島の絵本には、小さなものへの愛と望郷の思いがあります。

2023年8月27日の日曜美術館
「故郷は遠きにありて〜絵本画家 八島太郎〜」

放送日時 8月27日(日) 午前9時~9時45分
再放送  9月3日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
語り 柴田祐規子(NHKアナウンサー)
絵本朗読 桜庭ななみ(俳優)
声の出演 81プロデュース

「からすたろう」「あまがさ」などの絵本作品で知られ、全米で最も権威ある児童書賞でみたび次席を受賞した八島太郎(1908-1994)。大戦のわだかまりが残る戦後のアメリカで八島が描いたのは、遠く離れたふるさと鹿児島。幾重にも色を塗り重ねて表現される一つ一つの命、声なき声に寄り添う温かいストーリー。望郷の思いを胸に、ついに帰国を果たせなかった八島の生涯を、作品を通してみつめる。(日曜美術館ホームページより)

出演
モモ・ヤシマ (俳優。八島太郎の娘)
末盛千枝子 (編集者)
松本猛 (美術評論家。安曇野ちひろ美術館前館長)
山田美穂子 (八島太郎資料事務局)


八島太郎が絵本『からすたろう』を発表するまで

アメリカで “Crow Boy”(邦題『からすたろう』)が発表された時、作者の八島太郎は45歳。
鹿児島生まれの八島がアメリカで絵本作家になるまでの道のりは、決して平穏なものではありませんでした。

鹿児島での少年時代

八島太郎は元の名前を岩松惇(いわまつ あつし)といいます。
(ややこしいのでここでは「八島」と呼びます)
鹿児島県の古根占村(こねじめむら。現在の南大隈町)で医者の息子として生まれた彼は、自由奔放な餓鬼大将に成長しました。

後に、学校になじめない貧しい少年を温かく見守る『からすたろう』で高い評価を受ける八島ですが、本人の回想によれば「からすたろう」のような子に共感するよりも馬鹿にするタイプだったそうです。
アメリカで生まれた娘のモモ(桃子。1948-)さんも、父親がいじめっ子になりかねない人だったと(食卓でおかずを横取りされたことを思い出しながら)話しています。
後の八島の数奇な人生は、このガキ大将気質のせいもあるかもしれません。

成長して画家を目指すようになった八島は、1927年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に進学しました。
この時期は治安維持法の制定から2年後で、全国で思想統制が強められていた時期です。
美術学校にも配属将校による「軍事教練」が制度化され、それに反抗を繰り返した八島は入学の2年後に除籍処分となってしまいました。

プロレタリア運動家として

八島は東京美術学校在学中からプロレタリア運動に参加し、労働運動をテーマにした絵画や体制を風刺する漫画を発表していました。
1933年2月、プロレタリア文学者の小林多喜二が獄中で拷問を受けた末に殺害されたときは、小林の家に駆けつけてデスマスクをスケッチし、自分が編集する『美術新聞』に掲載しています。

プロレタリアの美術家として知られるようになった八島は反体制としてマークされ、1933年6月に妊娠中の妻とともに検挙・投獄されました。
八島の妻・新井光子(本名は笹子智江。後に八島光。1908-1988)はやはりプロレタリアの画家でした。

転向書を書いて釈放はされたものの活動の場を失った八島夫妻は、1939年に日本を離れアメリカのニューヨークへ旅立ちました。
渡米を勧めたのは光の父・笹子謹だったそうです。
笹子家は八島を援助し、渡米の際は5歳になる息子・信(まこと。後の映画俳優マコ岩松。1933-2006)を預かっています。


日米開戦と『あたらしい太陽』

ニューヨークに移住した八島が小規模ながら個展が開けるようになった矢先、1941年に日本とアメリカが開戦。
この時八島が描いたモノクロの素描作品《真珠湾の夜》(1941)は静まりかえってどこか不安げなニューヨークの街並みと人々を描いています。

メディアでは「敵国」としての野蛮で残忍な日本人のイメージが取り上げられ、アメリカ在住の日本人や日系人も偏見の目が向けられるようになりました。
そんな中、八島は1943年に自分の半生を振り返る “The New Sun”(邦題『あたらしい太陽』)を発表します。
自身が経験した投獄や拷問の体験や、過酷な境遇の中で助け合い戦争に反対する人々の姿を描いたこの作品は話題となり、ラジオでドラマ化されるなど大きな反響がありました。

八島が「八島太郎」と名前を名乗りはじめたのはこの時でした。
日本の古い呼び名「大八洲(おおやしま)」と一般的な日本人男性の名前を組み合わせた名前は、メディアに蔓延する野蛮な輩ではなく「自分こそが日本人だ」という思いを込めたものです。

また八島はアメリカの諜報機関に所属して日本兵に投降を呼びかけるビラを作っていたため、このことが日本に伝わると残してきた息子に危険が及ぶかもしれないと考えて本名を隠したとも言われています。
実際、マコは「スパイの子」だといじめられた経験がありましたし、八島と故郷の人たちの間にも溝ができることになりました。
終戦後、八島は米軍の通訳として来日しマコとも再会しましたが、知人から故郷の人々からスパイだと思われていることを知らされて、帰京を諦めたそうです。

絵本『からすたろう』

終戦直後の日本を訪れた八島は、そこで出会った日本の子どもたちから『からすたろう』の構想を思いついたといいます。
1955年に出版された『からすたろう』は、その年に出版されたもっとも優れた児童書を決める「コールデコット賞」の次席を獲得。
アメリカでは現在も学校の授業で使ったり、美術やイラストの教材にも使われる人気の児童書なんだそうです。

『からすたろう』の日本での出版は1979年(偕成社)でした。
出版に携わった末盛千枝子さんは、主人公の男の子と自分の子どもを重ねて涙が流れたと言います。
アメリカの読者にも自分と「からすたろう」を同一視してこれは自分のための物語だと感じた子どもがいたそうで、八島の描いた人物は人々の中にある普遍的な「子ども」像なのかもしれません。


絵本作家八島太郎と故郷・鹿児島への思い

八島は1953年に移住したカリフォルニア州のロサンゼルスで画家人生の大半を過ごしました。
モモさんによれば、移住の理由は日系人が多かったことと、故郷の鹿児島にもあったヤシの木が多かったことだと言います。
晩年の八島は日本に帰ることを願っていましたが、それが果たされることはありませんでした。

絵本作家としての成功

『からすたろう』の3年後に発表された “Umbrella”(邦題『あまがさ』)は再びコールデコット賞の次席となり、八島は絵本作家としての地位を確立しました。

これは娘のモモさんをモデルにした物語で、雨傘と長靴を買ってもらった女の子が、待ちかねた雨の日に外に出かけるというもの。
モモさん自身も特に思い入れがある作品ですが、新しい学校に行ったとき、モモさんは同級生たちに馴染みたいのに「『あまがさ』のモモ」として悪目立ちしてしまう…なんてこともあったそうです。

モモさんは1961出版の “Momo’s Kitten”(邦題『モモの子ねこ』岩崎書店、1981)のモデルでもありますから、有名人としての苦労も多かったことでしょう。

八島の作品は日本でも刊行されるようになり、1977年に『からすたろう』の日本出版が決定しました。
八島は同年に脳溢血で倒れ、後遺症で半身不随になっていましたが、思うように動かない体で原版に色を足し、日本語訳も自らつけたそうです。
『からすたろう』は1979年に絵本にっぽん賞の特別賞を受賞しました。


鹿児島への一時帰省と『海浜物語』

1962年、八島は23年ぶりに鹿児島に帰り、中学校時代の友人の家に滞在しています。
(父の岩松親愛と母のトクは八島が10代のころに亡くなり、生家は人手に渡っていました)

毎日鹿児島の風景を描きに出かける日々はとても充実していたようで、八島は故郷に自宅兼アトリエになる場所を探すことにします。
アメリカに戻る時は、将来日本に帰ってくることを前提にして身の回りの様々なものを置いていきましたが、この計画は実現しませんでした。
身の回りの世話をしてくれた山田美穂子さんに、土地探しがうまく行かないことを伝える八島の手紙が残っています。

八島は1968年に出版された “Seashore Story”(邦題『海浜物語』)で、鹿児島の砂浜で「浦島太郎」の物語に思いをはせる子供たちを描きました。
浦島が帰った故郷はかつての故郷ではなく、家も知り合いも失われている。
浦島太郎の悲しみは、生まれた場所から拒絶された八島太郎の悲しみだったのかもしれません。
絵本のラストは、小さな希望を暗示するような少女のつぶやきで終わります。

八島太郎は1994年に85歳で亡くなりました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする