日曜美術館「オスマン帝国 400年の美〜トプカプ宮殿・植物文様の迷宮〜」(2024.2.4)

2023年は、トルコ共和国建国の100周年にあたり、それを機にオスマン帝国の歴代スルタンの居城トプカプ宮殿の改修工事が進められています。
日曜美術館では現場で撮影された貴重な映像と、専門家のコメントが紹介されました。

2024年2月4日の日曜美術館
「オスマン帝国 400年の美〜トプカプ宮殿・植物文様の迷宮〜」

放送日時 2月4日(日) 午前9時~9時45分
再放送  2月11日(日) 午後8時~8時45分
放送局 NHK(Eテレ)
司会 小野正嗣(作家、早稲田大学教授) 柴田祐規子(NHKアナウンサー)

NHKはトプカプ宮殿のリニューアルに合わせ、特別に取材許可を取得。近年新たに発見された壁画のほか、立ち入りが禁止されてきた区域を映像におさめた。番組では、宮殿の装飾タイルや工芸品の多くに共通したモチーフである植物文様に注目。オスマン帝国の美術に革命をもたらした謎の異邦人や、最近明らかになった日本との交流などについて紹介する。専門家のスタジオトークも交え、オスマン帝国の美に秘められた物語に迫る。(日曜美術館ホームページより)

ゲスト
ヤマンラール水野美奈子 (美術史家)
小笠原弘幸 (歴史家)

出演
イルハン・コジャマン (トプカプ宮殿館長)
ヌルハン・アタソイ (美術史家)
ナーディル・カルヌブユック (スーフィーの指導者)
ジラルデッリ青木美由紀 (イスタンブール工科大学准教授補)
松原史 (刺繍絵画専門家)


トプカプ宮殿の植物文様

オスマン帝国(1299~1922)の歴代スルタン(君主)の居城トプカプ宮殿は、1465年に第7代スルタンのメフメト2世がボスフォラス海峡をのぞむ丘に建設させたものです。
以後19世紀まで歴代スルタン(オスマン帝国の君主)の居城として使われてきました。

トプカプ宮殿の中でもスルタンのプライベートな空間であるハレムは、植物文様が描かれた色鮮やかなタイルで装飾されています。
この植物文様の多くは、16世紀にひとりの絵師が生み出したものなんだそうです。

オスマン帝国に植物文様を広めたのは、宮廷絵師のシャークルという人物です。
当時のオスマン帝国は第10代スルタンであるスレイマン1世のもとで最盛期をむかえ、13回の海外遠征をおこなって帝国領土を拡張しています。
シャークルも元はサファヴィー朝ペルシャから連れてこられた捕虜のひとりでしたが、やがて頭角をあらわして宮廷絵師の長にまで出世しました。
オスマン帝国はイスラム教徒のトルコ人が築いた帝国ですが、出自を問わない人材登用がおこなわれ、宮廷の工房では様々な民族・宗教の人々が働いていたそうです。

2020年、天井を飾るアーチの修復中にシャークル作と思われる壁画が発見されています。
石膏の下から現れたのは、長い体をくねらせる2頭の龍と色鮮やかな翼を持つ鳥の姿。
ペルシア出身のシャークルは、トルコの美術にイランをはじめとするアジアのモチーフを取り入れました。
トプカプ宮殿には、この壁画と似た龍や巨鳥(シームルグ)を描いた絵画も伝わっています。

シャークルはまた、動物の文様と植物の文様を組み合わせた独自の文様を編み出しています。
植物文様の元と考えられているこの様式は、先の尖った葉の形からサズ様式(葦の葉様式)と呼ばれ、現在も宮殿の一角に麒麟と植物を組み合わせたサズ様式のタイルが残っています。
イスラム教の教義では偶像崇拝が厳しく禁じられ、生命のあるものを描くことも好ましくないと考えられていました。
そのため、様式化されて写実的ではない、つまり生命館が感じられない文様が好まれたそうです。


トプカプ宮殿とチューリップ

オスマン帝国で特に好まれたのが、チューリップの文様です。
イスラム文学ではチューリップ(LALH)の文字を入れ替えると唯一神アッラー(ALLH)となり、チューリップはアッラーの花として大切にされていたんだとか。

かつてイスラム神秘主義(スーフィズム)がさかんだった都市コンヤ(トルコ随一のチューリップの産地でもあります)には、スーフィーの開祖ジェラーレッディーン・ルーミーをはじめ歴代指導者が眠る「ジェラーレッディーン・ルーミーの霊廟」があります。
現在博物館として公開されている霊廟を訪ねると、チューリップの文様の壁画や、チューリップを刺繍した布で覆われた指導者たちの棺を見ることができます。

トプカプ宮殿でも、ムハンマドゆかりの品々を納めた「聖遺物奉安殿」のタイルの文様、第14代スルタンのアフメト1世の玉座を飾る螺鈿細工、第18代スルタンのイブラヒムがメッカのカーバ神殿に奉納した錠を飾る金細工など、様々な場所にチューリップのモチーフが取り入れられています。
特にチューリップと縁が深い第23代スルタンのアフメト3世のために増築された食堂「果実の間」には、さまざまな植物や果物の中でひときわ大きくチューリップが描かれています。

アフメト3世の時代は、ヨーロッパとの融和を目指して西洋の文物を盛んに取り入れた時代でした。
ヨーロッパで品種改良されたチューリップがトルコに逆輸入されて盛んに栽培・鑑賞されたことから、アフメト3世の治世の後半は「チューリップ時代」(1718~1730)とも呼ばれています。
この時代の雰囲気を伝える「スルタンの大広間」はヨーロッパとの折衷様式の部屋で、伝統的な植物文様は影をひそめ、オランダとの交易でもたらされた写実的な花模様のタイルで飾られた一角も。
18世紀後半から19世紀前半にはオスマン帝国の西洋化・近代化はさらに進み、芸術・文化の世界でもヨーロッパの様式が主流になっていきます。


オスマン帝国の近代化と日本から来た動植物モチーフ

18世紀の半ば以降のオスマン帝国は、戦争と内紛の時代を迎えます。
スルタンの後継者をめぐる権力争いが激化し、第28代セリム3世は1807年に第29代ムスタファ4世に暗殺され、そのムスタファ4世は1808年に第30代マフムト2世に暗殺され、帝位の継承者が1人もいなくなるという局面もありました。

ムスタファ4世の息子である第31代アブデュルメジト1世が新たな宮殿の建設を命じ、1856年に完成したドルマバフチェ宮殿に移り住みます。
この宮殿はベルサイユ宮殿に倣った設計で、内装もバロックやロココの様式を取り入れた折衷様式。
伝統的な植物文様も使われていません。

しかしながら、植物文様が主流を外れた後も動植物のモチーフは好まれたようです。
近代のスルタンたちが好んだ工芸品には明治の日本で作られた物も多く、超絶技巧で表現された動植物が見られます。
オスマン帝国は近代化のモデルはヨーロッパに求めましたが、同時期に近代化を果たした国として日本にも(同じ日欧米圏・非キリスト教国ということもあって)関心を寄せてくれていたそうです。

1867年のパリ万博がきっかけで世界に知られるようになった日本の工芸は、オスマン帝国の宮殿にも飾られるようになりました。
オスマン帝国のルーツは中央アジアで暮らしていたトルコ系の人々で、民族移動の前は中国文化の影響も大きかったそうです。
中国の文化を取り入れたもの同士、日本の美術とは相性が良かったのかもしれません。

ドルマバフチェ宮殿のハレムの一角にある「日本の間」は、文字通り日本の工芸品を集めた部屋。
漆を盛り上げて体的な松の木を表した飾り棚や、番の鶏と植物を表現した衝立など、いずれも写実的な風景や動植物が描かれています。

最近になって、スルタンの離宮ベイレルベイ宮殿では日本でも珍しい工芸品が発見されました。
獅子を描いた油彩画だと思われていたものは、実は額装された日本刺繍です。
刺繍絵画は政府の殖産興業政策の一環として、明治の京都で発展しました。
下絵を描いたのは京都画壇の画家たちで、幕末から明治の工芸品を収集する京都の清水三年坂美術館にもよく似た獅子(こちらは雄と雌)の刺繍絵画が伝わっています。

オスマン帝国は1922年に滅亡し、翌1923年にトルコ共和国が建国されました。
初代大統領のケマル・アタテュルクはドルマバフチ宮殿で執務をおこない、宮殿内の寝室で息を引き取っています。
現在公開されている寝室には、日本で作られた銅製の花瓶が置かれ、その花瓶もやはり鳳凰や植物のモチーフで飾られていました。